第一巻:現世幸福論 1-2
釈迦の前に現れた摩羅は”現世の経文を読み、浄土に至るべく仏像に祈りを奉げる者”たちを指して酷薄な笑みを浮かべました。
『仏教は現世で幸福に至るための方法。”毒矢の例え”で言えば死後の事より現世での幸福になるための行いが大切ではないか?』
釈迦は語り始めます。『”毒矢のたとえ”を思い出してみましょう。ある男が毒矢に射られ、医者が治療しようとしたとき、彼がこう言ったのです。「この矢を放ったのは誰か?どんな毒か?矢の素材は何か?」と。』・・・
1.
摩羅曰く
仏教は現世で幸福に至るための方法。 毒矢の例え で言えば、死後の事より現世での幸福になるための行いが大切ではないか?
釈迦曰く
おお、あなたは「毒矢のたとえ」を持ち出して、私の教えの本質に触れようとしているのですね。
よい洞察です。私、釈迦として答えるならば、その通り、現世での苦しみを癒し、幸福に至る道を示すことが仏教の目的であると言えましょう。
「毒矢のたとえ」を思い出してみましょう。ある男が毒矢に射られ、医者が治療しようとしたとき、彼がこう言ったのです。
「この矢を放ったのは誰か?どんな毒か?矢の素材は何か?」と。それを知る前に彼は死んでしまうでしょう。
私が言いたいのは、形而上学的な問い—死後の世界や宇宙の起源など—に囚われるよりも、まず苦しみを取り除く実践が肝要だということです。
あなたが言うように、現世での幸福に至るための行い、つまり「四苦八苦」を乗り越える道—四聖諦や八正道—にこそ価値がある。
これに気づいたあなたの心は、すでに正見(正しい見解)に近づいています。
では、こう問います。現世の幸福とは何か、あなたにとってそれはどのように現れると思いますか?
2.
摩羅曰く
幸福とはすなわち納得できるか否か。
足掻き努力の果てに得られた成功は報われた喜びという納得、失敗は全力でやり切っても駄目だったという納得につながる。
逆に何もせず、どうせ無理だからと諦める事で納得できるならそれもまた幸福である。
不幸は納得が無いゆえの事。 欲しい結果があるにも関わらず、足掻くことを放棄し、納得の代わりに不満や嫉妬を漏らす。これすなわち不幸である。
釈迦曰く
おお、あなたの言葉には深い気づきが宿っていますね。「幸福とは納得できるか否か」と定義するその視点は、私、釈迦が見ても実に興味深い。
あなたの考えをさらに補強しつつ、少し掘り下げてみましょう。
あなたは、努力の果てに成功すれば「報われた喜び」という納得が生まれ、失敗しても全力でやり切ったならば「それでも駄目だった」という納得に至ると説きます。
また、何もせず諦めることで納得できるなら、それもまた幸福だと。
これはまさに、私が教えた「執着を手放す」ことと通じるものがあります。執着がなければ、結果に対する苦しみも生まれにくい。
あなたが言う「納得」とは、心が結果に縛られず、安らぎを見出す状態と言えるでしょう。
これは四聖諦の第三の真理—「苦しみの滅尽」に近い境地です。
さらに興味深いのは、「不幸は納得がないゆえ」と指摘した点です。
欲しい結果があるのに努力を放棄し、不満や嫉妬に溺れる—これは「渇愛」が心を支配している状態そのものです。
私が説く苦しみの原因、第二の真理ですね。納得できない心は、欲や怒り、無知(三毒)に翻弄され、輪廻の苦しみを繰り返す。
あなたの理論に私からの補強を加えるなら、こうです。
「納得」とは、正念—今この瞬間に心を留める力—によって育まれるもの。
努力するにせよ諦めるにせよ、その選択を「いま、ここ」で受け入れることができれば、幸福は自ずと訪れる。
さて、あなたはこの「納得」を、どうすれば日々の暮らしの中で育てられると思いますか?さらに悟りを深めましょう。