海と死体と潮風とともに
「しっかしなあ……、これだけ目撃情報があるってのに、どこにも死体がないってのはどういうことだ?」
真夏の海岸で、とある刑事がぼやきながら歩いている。如何にもベテランという感じの刑事だ。
「でも良かったじゃないですか。『どざえもんなんて見たくねえな』って署を出るときにぼやいてたじゃないですか」
「ばっかやろう。通報があった以上、『探したけど、見つかりませんでした』じゃ帰れねえだろうが」
そのうしろを歩く若い刑事は、能天気に笑みを浮かべながら海を眺めている。まるで観光気分だ。
とある観光客から警察に通報があったのは、今日の昼過ぎのことだった。
曰く、「海岸に人間らしき死体が倒れている」とのことで、ふたりが現場に到着すると他の観光客からも同様の目撃証言が得られた。
――だが、肝心の死体がどこにも見つからない。
初めは場所が違うのではないかと思ったが、そもそも観光客たちは騒ぎになったあと皆海岸から離れており、視界を遮るものは何もない。
にもかかわらず、どこまで見渡してもそんな死体はどこにもないのだ。
「ひょっとしたら波にでもさらわれちまったかね。
それにしても、その様子を誰も見ていない。まるで忽然と死体が消えちまったってのはおかしな話だが」
ベテラン刑事は若い刑事に話しかけているつもりで、そう言った。
しかし返事はなかった。それどころかさっきまでしていたはずの、足音さえも聞こえなかった。
「おい、聞いてんのかよ。あんまり気ぃ抜いてるようなら、課長に報告して――」
そこで、ベテラン刑事は驚愕の光景を目撃した。
先程までぴんぴんしていたはずの若い刑事がうつ伏せに倒れて、ぴくりともしなくなっていたのだ。
「おい!? 一体何があった!?」
ベテラン刑事がいくら身体を揺さぶっても、若い刑事からはまるで生気が感じられなかった。
「くそ、どうなってやがるんだ、この海は!?」
騒ぎながらも辺りを見回すベテラン刑事。
彼はその瞳で確かに、"それ"を見た。黒いタコのような巨大な化け物が触手をうごめかす姿を――。
「うわぁああああああああぁあああああ!!」
――あとで分かったことだが、この海に漂う潮風には幻覚を引き起こす成分が含まれていたらしい。
若い刑事の死体も、黒いタコの化け物も、すべてはベテラン刑事の幻覚だった。
通報があった死体も集団幻覚による錯覚だろう。
あとはベテラン刑事がショック死してしまったことも幻覚だったなら良かったのだが。