第815話:ラムダの恐怖、アリステラの懺悔
「…………」
――――帝都ゲヘナ、とあるホテルの一室、時刻は深夜。リヒター=ヘキサグラムを交えたタスクフォースⅩⅠの作戦会議の後、俺はシャワーを浴びて寝室のベッドに寝転び、天井をぼんやりと眺めながら物思いに耽っていた。
理由はもちろん『スペルビア』の事だ。彼は道を踏み外したラムダ=エンシェント、俺の抱えるどうしようもない“闇”が表層化した姿だ。その事を思い返して、俺は憂鬱な気分になっていた。
(俺も少し道を踏み外せばスペルビアのようになるのか? 帝都を鳥籠のように覆って誰も逃げれなくし、核兵器を平然と使い……ノアを傷付けるような最低な奴に……俺もなるのか?)
スペルビアのやった悪行はどれも俺の矜持に反する、真反対の所業だ。けれど、スペルビアがその“悪”に手を染めた以上、同じ存在である俺にも『同じ悪行に手を染める可能性』は少なからずある。
ノアやオリビアたちを失えば切羽詰まった俺はそこまで堕ちるのだろうかと、自分自身に懐疑的になっていた。スペルビアが存在する以上、俺はもう『高潔』な人間を名乗れない。目的の為なら手段を選ばない傲慢さが、俺の中には燻っている。
(ノアやオリビアたちの処女を奪って自分の女にして……みんなを騙して女神アーカーシャ解体の旅に巻き込んで……出世欲に駆られて王立ダモクレス騎士団への勧誘に釣られた。これで“高潔”か……笑えねぇな)
考えれば考えるほど、自分の行動を思い返せば思い返す程、俺は自分が嫌いになっていく。アハト=エンシェントとシータ=カミングから生まれたのは、騎士なんてほど遠いただの“悪鬼”だった。
(ノアとどう顔を合わせたら良いんだ……)
スペルビアは戦艦ラストアークでノアに暴行を働き、そのまま彼女を誘拐した。ノアからしたらさぞ怖かっただろう。きっとノアは俺に恐怖を抱いているに違いないと考えてしまう。
俺が何もかも失った『スペルビア』なら、きっとノアを甘やかしはしない。きっと加虐の限りを尽くしてノアの尊厳を踏み躙り、彼女が順々な奴隷になるまで虐げるだろう。そんな事を当たり前のように思い付く自分が、俺はどうしても受け入れられなくなっていた。
「イレヴン……少し良いでしょうか?」
「ステラ? 大丈夫だよ、入ってきて……」
そんな憂鬱な事を考えてナイーブになっている時だった、部屋の扉をノックしてアリステラが訪ねてきたのは。俺が今いる部屋は俺とウィルが使う部屋で、アリステラとキルマリアの女子部屋は別室にある。
もう寝る時間だというのにどうしてアリステラは訪ねてきたのだろうか、そもそもウィルは何処に行ったのか。そんな疑問を抱きつつ、スペルビアに対する不安を押し殺しながら、俺はアリステラに部屋に入るように促した。
「イレヴン……」
「ステラ……」
扉を開けて部屋へと足を踏み込んだアリステラはいつもの軍服とは違う、少し大人びた黒いドレスのような部屋着を纏っていた。シャワーを浴びた後なのだろう、アリステラが部屋に入ってきた瞬間、甘い匂いが部屋中に漂い始めてきた。
「あの……そちらの行っても?」
「あ、ああ……良いけど……」
少し照れくさそうな様子で、アリステラは恐る恐る俺の居るベッドへと近付いてくる。彼女の表情は少し緊張している。なにか申し訳なさそうな、悪いことをしてしまったと後悔しているような表情だ。
そんな表情をしたまま、アリステラはベッドに腰掛けている俺の前に立った。明かりの消えた室内で、窓から差した月光だけがアリステラの姿を淡く照らしている。美しくも儚い、今にも壊れそうな少女が俺の前で立っていた。
「…………」
「……ステラ?」
アリステラは目を伏せて、何かを話そうとして、少し躊躇って言葉を詰まらせている。夜の部屋に気まずい雰囲気が流れてくる。俺にはアリステラがそんなしおらしい態度をする理由に心当たりはなかった。
けど、いつまでもモジモジしていても仕方がないと悟ったのだろうか、アリステラは少し深く息を吐くと、意を決したように目を見開いて俺へと真っ直ぐに視線を向けてきた。
「あの……イレヴン。わ、私……謝りたくて……」
「謝る……? 何を……」
「その……さっきのブリーフィングで……私、あなたを傷付けるような事を言ってしまったから……。あの……本当にごめんなさい……」
「何を言って……あっ……」
アリステラが俺の元を訪ねたのは謝りたかったから。傷付けるような事を言ってしまった、そう言ってアリステラは俺に対して深く頭を下げて謝罪の言葉を伝えてきていた。
『合理的かつ非人道的な作戦ね。反吐が出るわ』
作戦会議の折、アリステラはスペルビアに対してそう発言していた。帝都ゲヘナを丸ごと牢獄にした事への怒りの言葉だ。彼女の罵倒は極めて正当、悪いのはスペルビアだ。
だけど、その言葉は鋭い“刃物”になって俺の心にも傷を負わせていた。俺はアリステラに『反吐が出る』と思わせるような人間になる、そんな可能性があると思ってしまったからだ。
「い、良いんだ……そんなの全然気にしてないよ、あはは……。良いんだ……本当の事だから……」
「いいえ、違います! あなたはスペルビアとは……」
「同じだよ……俺はスペルビアと同じ人間、ラムダ=エンシェントだ。だから……ごめん、ステラ。俺の傲慢さが……君の……君の大切なものを全部奪ってしまったんだ……本当にごめん……」
「イレヴン……あなたは……」
俺は国を奪われる、追われる辛さを知っている。だからたった一人、逃げる事になってしまったアリステラの辛さもなんとなくだが理解できる。だからこそ、アリステラに理不尽な哀しみを押し付けたスペルビアが、その根源となっている自分がたまらなく憎かった。
「俺……本当は怖いんだ、スペルビアが。大勢の人間を殺して、ステラから故郷を奪ったのが自分の成れの果てなのを認めるのが……怖いんだ」
「それは……」
「ずっと……ずっと……大切な人を護りたいって思って戦って、自分の手が血で汚れるのは良いって……思ってた。けど……俺のそんな感情のせいでステラは傷付いてしまった……」
「いいえ、それは……」
「謝っても謝りきれない……俺のせいでステラを傷付けてしまった。俺がノアに執着したから……こんな事に……」
気が付けば、組んだ手が震えていた。罪を懺悔する罪人のように、俺は目の前のアリステラに赦しを乞うように、精神の内に燻ぶるスペルビアへの恐怖を口にしていた。
自分の中にある『闇』を認めるのが怖い。認めてしまえば、今までの自分が全部“虚飾”に見えてしまいそうで怖かった。だから、きっとアリステラに赦しが欲しくて、つい自分の本音を漏らしてしまったのだろう。
「…………」
アリステラは哀しそうな表情で俺を見つめている。弱さを露呈させてしまった俺を哀れんでいるのか、それとも別の感情か。今の俺にはそれすらも判別出来なかった。
だから、俺は反応が遅れてしまった――――
「イレヴン……ちゃんと私を見て……」
「ステラ……何を、んッ!!?」
――――アリステラがそっと唇を重ねた事に。
震える俺の手をひんやりとした自分の手で覆い、そのまま身を屈めたアリステラはベッドに腰掛けていた俺の唇に、自分の唇を静かに重ねたのだった。




