第803話:赦し
「――――つあッ!!?」
「なっ……!? なんなの急に!?」
――――突然の出来事だった。前皇帝の私室へと現れたタウロスⅠⅤはいきなりトネリコを殴り飛ばした。頬を殴られたトネリコは数メートルは吹っ飛んで、そのまま丸テーブルにぶつかっていた。
テーブルに置かれていたティーセットが床に落ち、粉々に割れて散乱し、トネリコはティーカップに注がれていた紅茶を頭から被ってしまった。その様子を私は啞然としながら見ている事しか出来なかった。
「ぐっ……馬鹿力で殴りやがって……! タウロスⅠⅤ、僕を殴るなんてなんのつもり?」
「それは僕の台詞だ、この悪魔が!!」
「悪魔……いったいなんの話? 僕は君に対して酷いことはしていない。言っただろう、君をバル・リベルタスの戦いから外して、帝都防衛に回したのはスペルビアだって……」
「そう言う話じゃない、惚けるのもいい加減にしろ!」
「ひっ!? やめろ、僕の胸ぐらを掴むな! なんで怒ってるの? 僕が君に何か悪いことでもした? してないよね? だから離してよ……」
トネリコを殴り飛ばしただけでは満足できないのか、タウロスⅠⅤは尻もちをついて倒れているトネリコの胸ぐらを掴んで鬼気迫っている。トネリコはただ狼狽えるだけだ。
相当強く殴られたのか、トネリコは口から血を流している。そして、護衛だと思っていたタウロスⅠⅤの暴行に萎縮したのか、トネリコは怯えた表情をしていた。
「惚けても無駄だぞ。報告書を呼んだ……なんだあの兵器は!? 答えろトネリコ!!」
「あ、あの兵器って何? い、痛い……」
「しらばっくれるな! お前が発射を命じた核兵器の事だ!! お前……バル・リベルタスにあんな物を撃ち込もうとしたのか!?」
タウロスⅠⅤは憤っていた。先のバル・リベルタスの戦いでトネリコが核兵器を発射した事に。どうやら私が戦艦ラストアークでスペルビアさんに襲われた後、バル・リベルタスに向けて核兵器が使用されたらしい。それを主導したのがトネリコのようだ。
スペルビアさんやエージェント・アウルはそのことについては何も語っていなかった。おそらくは核兵器は使用されたが、不発か目標を爆破できなかったのだろう。大方、ラムダさんが身を挺して街を守ったに違いない。
「なっ……そんな事で怒っているの!? あれはもっとも合理的な作戦だった。旗艦アウチェプスから核ミサイルを飛ばし、それにラムダ=エンシェントが食い付いたおかげでアロガンティア帝国軍は撤退できたんだぞ!」
(やっぱり、ラムダさんが……)
「何が合理的だ、ふざけるな! もし、ラムダ=エンシェントが核ミサイルの軌道を逸らしていなかったら、バル・リベルタスは丸ごと消滅していたんだぞ! お前、自分がしたことが分かってないのか、トネリコ!?」
“海洋自由都市”バル・リベルタスに向けて放たれた核ミサイルは、ラムダさんの活躍で軌道を逸らされた。タウロスⅠⅤの言い方が正しければ、人的被害は限りなくゼロに近い。
タウロスⅠⅤの怒りの論点はそこじゃない、トネリコはそれが理解できていない。彼の怒りは核兵器を使用した事による『結果』ではなく、核兵器を使用したという『行為』そのものだ。
「バル・リベルタスが消えれば、ラストアーク騎士団の戦力は大幅に削れる。防がれたのは残念だけど……も、最も効率的な作戦だったんだ!」
(違うよトネリコ……タウロスさんの怒りは……)
「ラストアーク騎士団を効率的に殺すなら、無関係な人たちは何人死んでも良いって言うのか、お前はッ!? 見損なったぞ、トネリコ!!」
「ひっ……!? そ、そんなつもりじゃ……」
「そうだろ!? 報告書に記載された核兵器の威力は明らかに過剰だ! ラストアーク騎士団の壊滅どころじゃない、あの街にいた冒険者たちも住民も全員死ぬ! 分かってて撃ったろ、お前!!」
激昂したタウロスⅠⅤは胸ぐらを掴んだまま、トネリコの頬にさらに一発鉄拳を見舞っていた。身動きを封じられたトネリコが躱せる筈もなく、そのままぶん殴られていた。
殴られたトネリコの口からは血が飛散し、綺麗なカーペットを汚していく。もう一発ぶん殴られたトネリコは痛みで涙目になりながらタウロスⅠⅤを睨んでいる。どうして彼が怒っているのかまだ理解できていない。
「なんで僕を殴るの? 痛いよ……。僕の目的はラストアーク騎士団の殲滅だ。君だってそうだろ? 僕は間違っていない……」
(…………)
「違う、間違っているぞ、トネリコ! 僕の使命は人々の安全を守り、平和と秩序を維持する事だ!! お前は核兵器で僕が守るべき人々の生命を脅かしたんだ!!」
そう、それがタウロスⅠⅤがトネリコに抱いた怒りの正体だった。彼は『光導十二聖座』、アーカーシャ教団が抱える騎士。つまりは女神アーカーシャが築いた平和と秩序を守る存在だ。
タウロスⅠⅤの本来の目的は『守る』事にある。だから、無差別に大虐殺をもたらす核兵器を使用したトネリコが許せないのだ。トネリコの行動は、タウロスⅠⅤの矜持を著しく傷付けたものだった。
「そ、それは……。け、けど、アーカーシャ教団だって【月の瞳】を所有しているじゃないか! あんな核兵器以上の兵器を持っているくせに、グランティアーゼ王国の王都を消し飛ばしたくせに……」
「駄目だよ、トネリコ。それを言ったら……」
「【月の瞳】? グランティアーゼ王国の王都壊滅? お前、何を言ってるんだ? 僕は【月の瞳】なんてものは知らないし、王都壊滅はラムダ=エンシェントが原因だろ? 見苦しい言い訳はするな」
「えっ……知らないの? な、なんで……」
タウロスⅠⅤやリブラⅠⅩさんたち『光導十二聖座』たちはアーカーシャ教団の“暗部”を知らない。彼等は女神アーカーシャの威光を飾る“光”の部分だ。
故にタウロスⅠⅤたちはアーカーシャ教団がアーティファクト【月の瞳】を所持している事も、王都シェルス・ポエナ消滅の真実も知らされていない。アーカーシャ教団は高潔な組織だと信じて戦っている。
「悪党を裁く事も、女神アーカーシャ様に歯向かう反逆者を断罪する事も、僕は喜んでやろう! けどな……僕が守るべき平和を望む人々を傷つける事は断じて許さない! お前でもだ、トネリコ!!」
「タ、タウロス……」
「僕はお前がやった行為を許さない! お前がやった行為は……僕がなにより忌み嫌う“悪”そのものだ!!」
タウロスⅠⅤは私たちラストアーク騎士団と対立するアーカーシャ教団の騎士だ。だけど、お互いに刃を向け合う存在なだけで、タウロスⅠⅤ自身は紛れもない“正義”の為に戦う少年だ。
それを理解せず、効率的だけを求めて非人道的な行為に走ったトネリコが糾弾されるのは至極当然の流れだった。タウロスⅠⅤに見限られたように床に投げ捨てられ、再び尻もちをついたトネリコは瞳孔を大きく開いて怯えていた。
「お前は女神アーカーシャ様の理念に賛同して僕たちに協力してくれるのだと思っていたけど……とんだ思い違いだったようだ。幻滅したよ……」
「あっ……」
「悪いけど、君が核兵器の使用を悪びれないのなら……僕は君の護衛を辞めさせてもらう。罪なき人々を傷付ける人間を……僕は守りたくない」
「ま、待って……」
「スペルビアに言って、僕は帝都ゲヘナから去るよ。君はここで好きにすると良い。君が善人を殺して笑う姿を……見たくないんだ……」
トネリコの“悪意”を目の当たりにしたタウロスⅠⅤは明らかに幻滅したような、落胆した声を上げていた。信じていたトネリコの本性を知って、彼女の事を信じられなくなったのだろう。
それは、スペルビアさんを通じてラムダさんの“悪意”を垣間見てしまった私と同じだった。だから私には、トネリコの目の前から去ろうとしているタウロスⅠⅤの気持ちがなんとなく分かってしまった。これ以上、トネリコの“本性”を見たくないのだろう。
「待って……見捨てないで、タウロス! ボ、僕が悪かった……知らなかったんだ、君なら許してくれると思ってた。ボ、僕……ラストアーク騎士団を倒すのに、ノアを超えるのに必死で……だから……」
「…………」
「君にまで見捨てられたら……僕はこの世界でひとりぼっちになってしまう。それは嫌だ……お願い、お願いします……僕を見捨てないで、タウロス……」
部屋から立ち去ろうとしたタウロスⅠⅤをトネリコは涙声で必死に呼び止めていた。彼に見捨てられたらトネリコはこの世界で孤独になってしまう。それが恐ろしいと分かっているからだ。
殴られた痛みで立てないのか、トネリコは床を這いずり、タウロスⅠⅤに向かって必死に手を伸ばしている。私でも分かる、トネリコの謝罪はただのでまかせだ。タウロスⅠⅤに捨てられたくなくて、ただ反省の弁を述べているに過ぎない。
(トネリコの本性……)
私ならきっと幻滅して見捨ててしまうだろう。そうなれば、トネリコは完全に孤立する。アーカーシャ教団から逃げ、スペルビアさんにただ利用されているだけの彼女を暖かく迎える人は居ない。
「お前……嘘をついているな? 本心では微塵も自分が悪いとは思っていない。ただ僕に捨てられたくなくてでまかせを言ってるんだろ?」
「ち、違うよ……信じてよ……」
「本当に汚い奴だな、トネリコ。泣けば僕が許すとでも思っているのか? そうやって泣いてもお前のした事は変わらないぞ、トネリコ」
当然、トネリコの嘘なんてタウロスⅠⅤは見抜いていた。タウロスⅠⅤはため息をついてトネリコに対して、心底軽蔑したような視線を向けている。
それが分かったのか、トネリコは顔面蒼白状態だった。もう取り繕えない、完全にタウロスⅠⅤに見限られたと感じたのだろう。端から見ていた私もそう思ったのだから。
「それでも反省しているのなら……行動で示せ。正しい手段で、正しい行動で結果を示せ、トネリコ=アルカンシェル」
「えっ……?」
「僕は今のお前を信じない。けれど……もし、本当に反省するって言うのなら、僕はもう一度だけチャンスをやろう」
けれど、私の予想に反してタウロスⅠⅤはトネリコに赦しの姿勢を見せた。トネリコの“悪意”に触れて尚、彼はトネリコを信じる事を選択していた。
踵を返したタウロスⅠⅤはそのままトネリコへと近付いていき、這いつくばる彼女が伸ばしていた手を強く握り締めていた。
「…………」
私には理解できなかった。一度はトネリコの“悪意”を目の当たりにして信頼を揺るがせていたタウロスⅠⅤが、それでもトネリコを受け入れようとしていたのだから。
トネリコ自身も信じられないのか、啞然とした表情をタウロスⅠⅤに向けていた。自分の醜い本性を見られても、なお共にあり続ける事を選択したタウロスⅠⅤに困惑していたのだった。
「スペルビアに直談判する、核兵器は使うなって。もし、あいつが僕の忠告を聞かないのなら、僕はアーティファクトでの強化を諦めて連中とは縁を切る」
「タウロス……」
「一緒にデア・ウテルス大聖堂に行こう、トネリコ。まだやり直せる、共にこの世界を守る騎士になるんだ」
「僕は……僕は……」
「さぁ、こんな所に居ないで、一緒にスペルビアの所に行くぞ。ちゃんと信じさせてくれ。お前は……誰よりも優秀な“人形”なんだろ?」
困惑して動きの止まっていたトネリコの手を引っ張って、タウロスⅠⅤは部屋から出ていこうとする。
タウロスⅠⅤはトネリコの醜い本性を受け入れようとしていた。彼はトネリコの“闇”を受け入れて、それでも彼女の騎士である事を選んだのだった。
(大切な人の“闇”を……受け入れる……)
それは、スペルビアさんの見せた、ラムダさんの“闇”に怯える私にとってはささやかな、けれど大きな一歩を踏み出すのに必要な『勇気』が示された瞬間だった。




