第802話:心の闇
「…………」
――――帝都ゲヘナ、インペルティ宮殿、前皇帝カルディアの私室。スペルビアさんの恐怖から解放された私はエージェント・アウルの手で再び鳥籠に戻され、手枷と首輪に繋がれた鎖で吊るされていた。
前皇帝の私室には今、私以外誰も居ない。孤独な時間を過ごさせ、スペルビアさんが私にした事を思い返せということなのだろう。拷問に使われる手法の一つだ。
「…………」
冷静に脱出の為の策を練ろうとするが、頭が上手く回らない。ずっとスペルビアさんにされた事が脳内にフラッシュバックし、その度に身体に刻まれた傷がズキズキと痛む。
今までラムダさんの寵愛に守られ続けていた私は、今日初めて“男性”の底なしの欲望を目の当たりにした。しかも、相手はよりにもよってスペルビアさん、歩いた旅路は違えど『ラムダ=エンシェント』自身だった。
「…………」
私はスペルビアさんを通じて『ラムダ=エンシェント』が抱える“悪意”を見てしまった。スペルビアさんが私に非道を働いた事実は、ラムダさん自身が悪意に手を染める可能性の証明そのものだからだ。
高潔で仲間想い、執着心故に複数の女性と関係を持つ悪癖がある。それが私が今まで見てきた『ラムダ=エンシェント』の“顔”だった。けど、それはラムダさんの顔の一部に過ぎなかった。
「…………」
恐れている、私はスペルビアさんを通じてラムダさんを恐れている。脳裏に浮かべた優しい彼の笑顔に、私に劣情を吐き出すスペルビアさんの歪んだ笑顔が重なってしまう。
怖い、怖い、怖い。
泣き叫ぶ私の頬を容赦なく殴るスペルビアさんが怖い。それをラムダさんがするんじゃないかという思うと怖い。ラムダさんも本当は私を“道具”だと思っているんじゃないかと思うと怖い。ただ怖かった。
「随分と手荒に扱われたみたいだね、ノア? 流石はスペルビア、君の扱いがよく分かっているようだ……」
たった一人で恐怖に怯えていてそれぐらいの時間が経ったのだろうか、不意に誰かが私に声を掛けてきた。俯いていた視線を上げて、目の前を見ると其処には見知った顔があった。
「トネリコ……!」
「やぁやぁ、お待ちかねの僕だよ。ふふふっ……無様な格好だね、ノア。同じ“人形”として恥ずかしい……」
「天空大陸でラストアークから逃げて何処に行ったのかと思えば……まさかアロガンティア帝国に、スペルビアさんに組みしていたなんて……」
「まぁ、星の巡り合わせってやつさ……」
トネリコ=アルカンシェル、アーカーシャ教団に席を置き、私やラムダさんに敵意を向ける“人形”。現状維持を求め『ぬるま湯の地獄』に浸り続ける人物。
天空大陸に迷い込んだ時、タウロスⅠⅤと共に戦艦ラストアークから脱走した人物が、何故かスペルビアさんの配下として、アロガンティア帝国軍の軍服を纏って私の前に姿を現していた。
「ふん……“幻想郷”で私たちに負けて教団に居づらくなって、次はアロガンティア帝国軍に尻尾を振るんだ。流されるだけの愚か者……」
「僕の立場を変えたのはお前だ、ノア。お前が女神アーカーシャに逆らわず、大人しく今の世界に順応していれば、僕たちがいがみ合うことはなかった」
「希望的観測ね。それとも貴女の願望かしら?」
「ふん……苦しいだけの道を征く愚か者が……。本当はここで今すぐに殺してやりたいよ。これ以上、君が壊れていく様は見たくないからね……」
懐から拳銃を取り出して、銃口を私の居る鳥籠に向けながらトネリコは優越感に浸った表情で私を煽ってくる。
負けじと煽って反撃したが、拘束された私は立場的に不利だった。少しでもトネリコの機嫌を損ねれば、私は耐え難い苦痛に曝されるだろう。
「…………」
「あれれ? 今日はあまり喋らないね? スペルビア……いいや、ラムダ=エンシェントに痛めつけられて少しは傲慢さにメスでも入ったのかな?」
「うるさい……黙って……」
「ふふふっ、その僕から視線を背ける仕草。どうやら想像以上に堪えたみたいだね? スペルビアの悪意に触れたのは……」
「…………ッ!」
私の方が立場が悪いと判断するや否や、トネリコは私をさらに罵倒し始めた。口角は酷く吊り上がり、憐れな生物を見るような蔑んだ眼でトネリコは私を見ている。
彼女はスペルビアさんの正体が『ラムダ=エンシェント』であることを知っていた。事前に彼から正体を明かされていたのだろう。そして、私がスペルビアさんに暴行された事も。
「スペルビアはラムダ=エンシェントの“本質”だ! あいつは結局、君をただの“目的を果たす為の道具”としてしか見ていないんだよ!」
「違う……ラムダさんはそんな人じゃ……」
「同じだよ! ラムダ=エンシェントが君を寵愛するのは『この素晴らしい女は俺のもの』だって周りに誇示したいからだ!! お前はただの、ラムダ=エンシェントの“名誉”を飾るトロフィーに過ぎないんだよ!!」
「違う……違うったら! 違う……違う…………」
「違わないさ! 現にお前は僕に誇示している、ラムダ=エンシェントは『素晴らしい私を寵愛する理想の騎士』だって! そうさ……他人は結局、自分の存在を誇示する為の存在なんだよ!!」
トネリコの言葉が胸に突き刺さる。彼女の言っていう事は正しい。私はラムダさんを『私を愛してくれる男性』だと周囲に誇示している。逆もまた然りなのだろう。
ラムダさんが私を愛しているのは『古代文明の生き残りを手元に置いている』という自己顕示や承認欲求が深く絡んでいる。否定できない。必要だから愛しているだけだ。
「いずれ君のラムダ=エンシェントもスペルビアのようになる。君を実力で支配しようとするだろう……」
「そんな事は……」
「あるさ。だって……スペルビアは『ラムダ=エンシェント』の生んだ心の闇。彼が辿る“可能性”の一つにして、彼が隠し持つ“別人格”なのだからね」
スペルビアさんは『ラムダ=エンシェントの側面』である。そんな、私が一番聞きたくなかった事実をトネリコは笑みを浮かべて言い放った。
そして、耐え難い真実に目を伏せた私の表情を見て、トネリコは勝ち誇ったように口角を大きく吊り上げた。さんざん辛酸を舐めさせられた私を言い負かして、さぞ満足なのだろう。
「…………」
「おおっと、絶望するのはまだ早いよ。君にはスペルビアの野望を達成して貰う為の“道具”になってもらわないといけないからね」
「…………」
「これからは……スペルビアに加えて僕も君を調教してあげる。二度と僕に逆らえないように……その後付けの人格を消去して、元の無感情な“人形”戻してあげるよ!」
「――――ッ! いや、やめて……!」
「おっ、いい反応だね? そんなに『ノア=ラストアーク』が消されるのは嫌なのかな? そんなに大事なんだ……ラムダ=エンシェントの好みに合わせた性格は?」
「消さないで……やめて、やめてトネリコ!」
「その恐怖に引き攣った表情、堪らないなぁ。あのノアが僕に恐怖している……ハハハッ、ハハハハハハハハハハハハッ!!」
そのままトネリコはさらに私を害しようしてきた。軍服のポケットから何かの薬剤が注入された注射器を取り出し、トネリコは嗜虐的な笑みを浮かべる。
どうやら私の人格を“初期化”するつもりらしい。その事に気が付いた私は恐怖してしまった。今の『私』が消されるかも知れないという恐怖が私を萎縮させた。
だが、トネリコが私に狂気を向け、鳥籠に入り込もうとした瞬間だった――――
「トネリコ! 何処に居るトネリコ!!」
「ん、今の声は……タウロスⅠⅤか?」
――――不意に部屋の外からトネリコを呼ぶ、少年の怒りのこもった怒号が飛び込んできた。
驚いたトネリコが後ろを振り返ると、白い騎士甲冑に身を包み、目元を仮面で隠した少年がづかづかと部屋に入ってきた。
タウロスⅠⅤ、トネリコと行動を共にするアーカーシャ教団の光導騎士『光導十二聖座』の一人。天空大陸でトネリコと共に戦艦ラストアークから脱走した人物だ。
「なんだい、タウロスⅠⅤ……僕はいま取り込み中なんだ。バル・リベルタスの戦いの報告書は送った筈だろ?」
「…………」
「なんだい、自分だけ除け者にされたこと、怒ってんの? あれは僕じゃなくてスペルビアの判断だよ」
タウロスⅠⅤは無言のままトネリコへと近付いてくる。それを見たトネリコはタウロスⅠⅤがバル・リベルタスの戦いで除け者にされた事に立腹しているものだろうと思ったのだろう。
だが、トネリコの予想は全くの見当違いだった。それを、トネリコは今から実感することになる。
「文句ならスペルビアに――」
「トネリコ……この大馬鹿野郎がぁーーッ!!」
「――えっ!? なに、がぺッ!!?」
距離が縮まった瞬間、タウロスⅠⅤは全力でトネリコの頬に鉄拳をぶち込み、彼女を思いっ切り殴り飛ばしたのだった。




