第801話:抜け殻
「エージェント・アウル、ノアを鳥籠から出せ」
「イエス、ユア・マジェスティ。スペルビア様」
――――スペルビアさんはエージェント・アウルに私を鳥籠から出すように命じ、エージェント・アウルはその命令に従って私を鳥籠から解放しだした。
エージェント・アウルの魔法で私を吊り下げていた鎖は緩められ、そのまま私はエージェント・アウルに強引に引き摺られてスペルビアさんの前に跪かされた。手首は拘束されて動かせず、首輪も着けられたまま、抵抗は出来ない。
「さぁ、頭を垂れてスペルビア様に忠誠を誓うのだ! 余計な事をすれば痛い目に遭わすのだ!」
「うっ……!? この……!!」
「その私を睨み付ける勇ましい表情、まだ“希望”を宿したままの燃えるような朱い瞳……変わらないな」
エージェント・アウルに髪を乱暴に掴まれて、私は無理やりスペルビアさんに頭を垂れさせられた。無理に反抗すれば痛い目に遭わすとエージェント・アウルが言って、スペルビアさんが彼女を窘めない以上、従わなければならない。
私にできるのはスペルビアを睨み付ける事ぐらい。だが、睨まれてもスペルビアさんは動じる事なく、逆に私の顎を掴んで顔を無理やり上げさせ、表情を観察するようにヘルメットで隠した顔を近付けてきていた。
「申し訳ございませんなのだ、スペルビア様。こいつ、まだ自分の立場を弁えていないようで……」
「…………っ!!」
「構わん、そうでなくては面白くない。だが……もう少し従順でなくてはならないな。どれ、私が直々に調教してやろうか……。エージェント・アウル、席を外せ」
「ご用命があればいつでもお呼びくださいなのだ」
スペルビアさんは私に顔を近付けたままエージェント・アウルに退出を命じ、エージェント・アウルはその命令に従うと足早に前皇帝の私室から立ち去ってしまった。
一人では手に余る大きな部屋に残ったのは私とスペルビアさんだけになってしまった。エージェント・アウルが退出し、部屋の扉が閉められたのを確認し、スペルビアさんは私の顎から指を離す。
「お前が大人しく私に従うなら、手荒な真似はせず丁重に扱ってやろう。ただし、少しでも反抗の意志を見せるのなら、その身に私の恐ろしさを刻んでやる」
「…………」
「不服そうな眼だな。私を恐れないのか? ラストアーク騎士団に打撃を与え、お前を鳥籠に捕らえたこの私、スペルビアを……」
エージェント・アウルが居なくなっても、私の自由はなに一つ許されていない。ここでスペルビアさんに反抗すれば、宣言通り酷い目に遭うだろう。凌辱されるか、拷問されるかのどちらかだ。
それでも、私はスペルビアさんに反抗的な眼を続けていた。仮に命が掛かった状態であっても、私は『ラムダ=エンシェントの所有物』である誇りだけは捨てたくなかったからだ。
だから、私はスペルビアさんに問うた――――
「どうしてこんな事をするのですか……ラムダさん」
――――彼が隠した名前を告げて。
その名前を告げられた瞬間、それまで威圧的だったスペルビアさんの雰囲気が僅かに落ち着いた。それまで吹き荒れていた突風が急にそよ風になるような感覚だ。
スペルビアさんは少しだけ沈黙し、仮面越しに私の顔を凝視した。私が告げた名を聞き届け、自分の行動を決めようとしている。
「どうしてか……か。どうしてだと思う、ノア?」
そして、スペルビアさんは寂しそうな言葉を呟きながら顔を覆っていたヘルメットを静かに脱いで、その素顔を私の前にさらしたのだった。
「ラムダ……さん…………」
「いいや、俺はもう『ラムダ』じゃない……」
その顔は間違いなく『ラムダ=エンシェント』のものだった。私を長い眠りから目覚めさせ、数多くの困難を乗り越え、孤独な私に“祝福”を授けてくれた愛しき人と同じ顔。
だけど、私が知るラムダさんよりも、スペルビアさんの顔は昏い“闇”に覆われていた。鮮やかな蒼色だった左眼すら朱い義眼に置き換わり、肌は色素が抜け落ちて真っ白になり、髪も艶も無い程の黒に染まり、額や頰、首筋にまで酷い戦傷の跡が生々しく残っていた。
「その顔……」
「ふふっ、醜いだろう? 大切な仲間を全て失い、護ると誓った“相棒”を死なせ、それでもおめおめと生き延びてしまった“負け犬”の顔だ……」
「なにが……あったんですか?」
「俺は……俺たちは負けた。何も成せず、ただ無慈悲に殺され、歴史の闇に葬られた……ただの敗者だ」
「…………」
スペルビアへと堕ちたラムダ=エンシェント、それが彼の正体。此の世界のラムダさんのように“騎士”を夢見て旅立ち、挫折と再起を繰り返し、女神アーカーシャへと挑み――――そして敗北して全てを失った者の成れの果て。
彼の素顔を見て私は悲しくなった。選択を誤った、最悪の結果を招いた『ラムダ=エンシェント』の可能性を見せ付けられて、まるで自分の“罪”と向き合わされている気分になってしまった。
「どうして……こんな酷いことを……?」
「酷いこと? それは……こうしてお前を捕らえたことか? それともアロガンティア帝国を滅ぼしたことか、ノア?」
「両方です。私の知っているラムダさんは……」
「そんなことはしない……か? 言っただろう、俺はもう『ラムダ』じゃない。私は『スペルビア』だ。私に慈悲は無い。慈悲深い『ラムダ=エンシェント』は敗北と共に死んだ。私はただの“抜け殻”だ……」
「ラムダさん……」
「その名で私を呼ぶな! もう終わったんだ、何もかも! お前が望んだ騎士はもういない、みんなが期待した英雄はもう死んだ、私はただの“復讐者”だ!!」
私が憐れみの眼を向けているのが気に食わなかったのだろうか、スペルビアさんは右手で私の首を絞め『ラムダと呼ぶな』と激昂する。
そして、首を絞められて宙吊りにされながら、私は気が付いてしまった。本来、生身である筈の右腕までもが、冷たい機械の義手になっている事に。冷え切ったその手が、私のか細い首を万力のように絞める。
「あっ……く、苦しい……やめて……ラムダさ……」
「私はお前のラムダじゃない、お前も私のノアじゃない。同情も憐憫も要らん! 私の野望の為に従え……それがお前に求める“役割”だ、ノア!」
「あぐ……っ、私は……貴方には…………!」
首を絞められ、酸欠になりながら必死にスペルビアに抗おうと試みる。だけど、鋼鉄の黒腕と化したスペルビアさんの握力には逆らえず、私はただ手足をジタバタさせて悶える事しか出来なかった。
「ふん……やはり“痛み”を以って調教するしかないな」
「あっ……何を……するつもりですか……!?」
スペルビアさんは酷く歪んだ笑みを浮かべると、私を背後に在ったベットへと投げ飛ばした。拘束具を着せられ、手首を拘束され、首輪で術式の発動を封じられた私は、成す術なくベットに仰向けに横たわるしかなかった。
そして、スペルビアさんは私を追ってベットへと上がると、布団の上に横たわる私の上へと跨がってきた。今まで感じたことの無い、鍛え抜かれた男性の恐怖をスペルビアさんが武器にした瞬間だった。
「助けは来ない、大人しく私を受け入れろ。お前はただの“道具”だ……私の野望を、私のノアを蘇らせる為のな!」
「いや……やめて! やめて……」
「その身体に、その心に刻み込め、お前の“所有者”が誰であるか! フッ、フフフッ……フハハハハハハハハハッ!!」
スペルビアさんが私の拘束衣を乱暴に引き裂いていく。抵抗する私の意志を無視し、圧倒的な力で抑えつける。
身を隠すものを剥がされ、無防備にされた私を嘲笑いながら、スペルビアさんは仮面の下に溜め続けた鬱憤を、容赦なく私にぶつけ続けた。ただ立場を分からせる為に、ただ力を誇示する為だけに、ただ私を屈服させたいが為に。
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「エージェント・アウル、ノアに新しい拘束衣を与え、この部屋に閉じ込めておけ。監視にトネリコ=アルカンシェルを付けさせろ」
「イエス、ユア・マジェスティ……!」
「ではな……ノア。お前の力が必要になったら呼びに来る。それまでは大人しくしていろ。さもなくば……また痛い目を見る羽目になるぞ?」
それから数時間が経って、スペルビアさんはエージェント・アウルに後始末を頼みつつ、仮面を被って部屋から去って行った。
その様子を私は、毛布に包まって傷だらけの身体を隠しながら、ただ憔悴しきった表情で見送る事しか出来なかった。
「…………」
何も出来なかった。抵抗してもスペルビアさんを悦ばすだけだった。ただ身体に“痛み”を刻まれ、心に“恐怖”を受け付けられただけだった。
「ラムダさん……貴方ならどうしましたか……?」
傷だらけの身体を見たくなくて毛布に包まり、ベットの上で蹲るように身体を丸めていた。
そして、『こんな時、彼ならどうしただろう?』という虚しい問いだけが、疲れ切った私の頭の中でぐるぐると、音も無く静かに巡るのだった。




