第779話:託される意志
「やぁ、宴会中に呼び出して悪いね、ラムダくん」
「なんだよ、リリス。こんな場所に呼び出して?」
――――魔王城エクスピアチオ、とあるバルコニー、時刻は夜。グラトニスの魔王再選を祝した宴会が行われている中、俺はリリスに人気の無いバルコニーに呼び出されていた。
リリスはそれまで身に着けていたサキュバスとしての蠱惑的な衣装ではなく、騎士然とした甲冑を纏っている。“原初の勇者”メア=アマリリスとして本来の装束なのだろう。
「改まった格好だな?」
「ずっと隠していたのさ……わたしの正体を誰にも悟られないようにする為にね」
「で、もう隠す必要も無くなったから着たと?」
「そう言う訳。最後くらいは“サキュバス騎士”じゃなくて“勇者”としていたいからね」
「…………」
リリスはどこか憂いた表情で魔界の空を眺めている。長い間、身分を偽って隠れ、アラヤ=ミコトを討つ機会を待ち続けてきた。そんな生き方に疲れ切っていたのだろう。
「本当は……“原初の魔王”の権能を持ち逃げしたレメゲトンを追うつもりだったんだろ。あの悪魔を倒して、アラヤ=ミコトの痕跡を全て抹消しないとわたしの戦いは終わらない……そんな気がしてね」
「けれど……それは叶わない」
「うん……アラヤ=ミコトを倒したら、なんだか気が抜けちゃってさ。もう“魂”が保たないんだ……今、こうして此処に立っているのも精一杯なんだ……」
宿敵アラヤ=ミコトを討った事でリリスの復讐は果たされた。だが、同時に彼女は繰り返される一万年を耐え続けてきた強烈な“復讐”という感情を失ってしまった。
その結果、リリスの“魂”は急激に劣化を始め、彼女はこの世界に留まれなくなっていた。今にも彼女の“魂”は穢れで汚染され、魔物になってしまうかもしれない。そんなギリギリの状況の中で、リリスは精一杯耐えていた。
「これ以上の現界は許されない、メア=アマリリス。“黄昏ノ森”ではイレヴンさんの顔を立てて見逃したけど、もう時間切れだ……」
「レスターさん……」
『メア=アマリリス……貴女が追っていた“原初の魔王”アラヤシキはレメゲトンに討たれました。“魂”の崩壊が始まっているのは貴女の“生きる理由”が失われたからに相違ありません……』
俺とリリスの前に大鎌を構えたレスターと、彼女の肩に乗る“邪眼”メメントが現れる。死神としてリリスを迎えに来たのだろう。
“黄昏ノ森”ではレスターは武器を収めてくれた。だが、今回はそうはいかない。今度は俺が止めても、レスターは何がなんでもリリスを刈る筈だ。
「もう保たないのは自分でも分かっている」
「なら……大人しく死を受け入れるんだね」
そして、俺にはリリスを庇う事は出来なかった。もう彼女が限界を迎えているのは分かっていたからだ。
これ以上、リリスをこの世に居続けさせても、それは彼女を苦しめる結果になるだけだ。それが理解できるぐらい、俺の眼から見てもリリスは儚い存在になっていた。
「けれど……わたしにはまだ、レメゲトンを討つという使命が残っている。あいつを倒して、“原初の魔王”の権能を完全に絶たないと……それはわたしの使命なんだ」
「まだ生にしがみつく気かい、アマリリス?」
「わたしがやらないと……“原初の魔王”を倒すのはわたしの使命なんだ。だから……わたしはまだ、戦わないとならないんだ……」
だけど、アマリリスは“原初の魔王”の権能を奪ったレメゲトンを追おうと言う気概だけは残っていた。責任を感じているのだろう。
自身の限界と“死”を受け入れている一方で、まだ世界に残った脅威と戦おうという使命感を未だに抱いている。そんな二律背反な感情にリリスは板挟みされていた。
「イレヴンさん、君の手でアマリリスを苦しみから解放してあげるんだ。それができるのは君だけだよ」
そんな苦しみからリリスを解き放てるのは俺だけだと、レスターは俺の眼をまっすぐに見つめて語る。
だから、俺は意を決してリリスへと語り掛ける為に、彼女の震える手をそっと自分のも右手を添えた。
「大丈夫……リリスの使命は俺が引き継ぐよ」
「…………ッ! ラムダくん……」
「レメゲトンは俺たちが追い掛けて、必ず決着を着ける。だから安心して任せて欲しい」
「それは……」
「リリスの意志は……俺が未来に持っていくよ」
アラヤ=ミコトを討った事でリリスの使命は終わった。だから、残ったレメゲトンとの因縁は俺たちが着けるべきだ。
そうリリスに伝えた瞬間、彼女は眼に大粒の涙を浮かべ始めた。
「リリスは十分に頑張った。長い間、たった一人で戦い続けてきたんだ。だから……今度は俺たちが頑張る番だ」
「でも……それはラムダくんの負担になるよ」
「平気さ、もう沢山の人の想いを背負ってるからね。今さら一人分、負担が増えたぐらいじゃびくともしないさ」
「わたしは……」
「なんでも一人で背負わなくても良いんだ。その為に俺たちが居るんだ。だから気負わなくても良い、後ろめたく思わなくても良い。ただ……頼れる後輩に遠慮なく使命を投げつけてくれたら良いんだ」
メア=アマリリスという人物はなんでもかんでも一人で背負い込む性格だ。それは理解できる。きっと俺も同じだから。
だから彼女の苦しみがなんとなく理解できてしまった。リリスは使命を一人で背負い込もうとしていた。そんな使命を引き継ぐのが、俺ができる彼女への贈り物だ。
「ラムダくん……任せても良いの?」
「もちろん、喜んで引き受けるよ」
そして、俺の意志の固さを確認したリリスは、漸く緊張から解き放たれた。
俺の右手を両手で強く包み込むと、リリスはボロボロと涙を零しながら、ぎこちない笑顔で俺に微笑んだ。
「なら……託すよ、わたしの想い、ラムダくん」
「ああ、たしかに受け取ったよ、メア……」
リリスの手から俺の右手に金色の歯車が手渡される。最後の“禁忌級遺物”【時の歯車“現”】だ。
大切なアーティファクトを俺に渡し、その想いも一緒に俺に託したのだろう。リリスは安心したように俺へと微笑む。あどけない無垢な少女のように。
「わたしの代わりに……どうかレメゲトンを倒して、“原初の魔王”との因縁に決着を。ラムダ=エンシェント……全ての魔王を討伐せし英雄よ」
「必ず……この命に代えても約束は果たすよ」
『レスター……冥界への“門”を開きなさい。偉大なる“原初の勇者”メア=アマリリスが使命を終えて、いま永遠の安らぎを手に入れるわ』
「はい、先代よ。開け……冥界の“門”よ」
そして、リリスが全ての使命を終えた事を確認したレスターは大鎌で何も無い空間を斬り裂き、真っ暗な空間へと続く空間の裂け目を作り出した。
その先は冥界、死者が眠る世界へと続いている。そこに足を踏み入れれば、もう元の世界には戻って来れなくなるだろう。
「じゃあ……もうそろそろ行くね。グラトニスたちにもよろしく言っておいてよ。急に居なくなったらびっくりするだろうし……」
「分かった」
「それと……負けちゃ駄目だよ。わたしが保証する、君は誰よりも強い。君ならきっと世界の果てに……女神アーカーシャの居る場所に辿り着ける」
「ああ、知ってるさ」
リリスはレスターが開いた冥界への“門”に向かって、一歩足を踏み出した。二度とは戻れぬ永遠の眠りに向かって。
俺ができるのは去りゆく彼女を笑顔で見送る事。背中を向けたリリスを、俺はただ黙って見送る事にした。
そんな俺に対して、リリスは突然振り返り――――
「最後にわたしの想い……伝えるね」
「メア……ッ、――――」
――――俺の唇に自分の唇を重ねてきた。
それは何度か彼女と肌を重ねた時のような貪るような口付けとは違う、想いを伝え合うような優しい口付けだった。
唇と唇だけを重ねて、別れを惜しむように、リリスはほんの数秒の短い時間、その胸に抱えていた感情を俺へと伝えていた。
「メア……」
「これで思い残す事は無くなった……大好きだよ、ラムダくん。どうかお幸せに……あっ、けど女の子を泣かすような真似はしちゃ駄目からね〜」
「あ、あぁ……肝に銘じとくよ……」
「忘れないでね、わたしの事。“原初の魔王”の影を追い続け……ずっと君に恋い焦がれ続けた勇者の事を」
「うん……ずっと忘れないよ、メア=アマリリス」
そして、唇をそっと離したリリスは最高の笑顔を俺に向けて、ゆっくりと歩き出して行った。腰に携えた聖剣を大事そうに左手で握り締め、右手で振って俺に最後の挨拶をしながら。
「メア=アマリリス……貴女の“魂”に安寧がある事を」
「さようなら、レスター。ラムダくんをよろしくね」
最後にレスターと軽く会話を交わし、リリスは“門”をくぐって冥界へと旅立って行った。こうして、俺の前に現れた少女は姿を消した。
「さようなら……メア=アマリリス……」
“サキュバス騎士”リリス=ナイトメア、またの名を“原初の勇者”メア=アマリリス。強大な悪を前に戦い続けた一人の少女は長い長い『現在』の楔から解き放たれ、その歩を『未来』へと向けて進めて行ったのだった。




