ラムダの記憶②:シータ=カミングと言う女の偶像
「さぁさぁ、ラムダ様! 今日はもうお休みの時間ですよ〜!」
「えー、僕まだ眠たくないよ……! もっと王立騎士団のお話を聞かせて!」
「ざーんねんっ♪ 子どもはもう寝る時間です! 早く寝ないと……明日、わたしがベットから転がり落として起こしちゃいますよ~!」
「むぅ……分かりました! 今日はもう寝るから……」
ツヴァイ姉さんの『神授の儀』と、オリビア=パルフェグラッセとの縁談――――俺にとっては驚き続きだったその日の夜。いつものようにシータから王立騎士団の騎士たちの武勇伝を聴かせてもらった俺は、彼女が綺麗に整えてくれたベットの上で床に就こうとしていた。
「ラムダ様……明日はちゃんと剣の稽古を付けて差し上げますので、今日の無礼はお許し下さいね……」
「別に怒ってないよ? だって、オリビアさんがぼくの“婚約者”になった日だもん……オリビアさんをもてなしてくれたシータさんは何にも悪くないから!」
「………………ありがとうございます、ラムダ様…………」
午後の稽古を付けれなかった事を悔いるシータ、それを許した俺――――貴族の子息とその使用人との少し変わった関係。
父さんも母さんも、シータを含めた使用人たちの事をまるで“駒”の様に扱っている。それが『立場の差』、『雇い主と使用人の差』と言ってしまえばその通りなのだけれど、少なくとも当時の俺はシータの事を“駒”とは考えた事も無かった。
むしろ――――禄に顔を合わせる事も無い父さんや、ツヴァイ姉さんとゼクス兄さんに構いっぱなしの母さんよりも、シータの方がずっと親しい存在だった。
まるで、彼女こそが本当の母親のような、そんな錯覚を感じるほどに。
だからだろうか――――俺に謝るときのシータの寂しそうな表情を見るのが辛くて、つい嘘を付いてでも許してしまう。
シータが俺に嫌われたくないと思っている以上に、俺もシータに嫌われたくなかったから。
「明日、いつもの時間に起こしに来ますね……お休みなさい、ラムダ様――――わたしの……かわいい…………」
「おやすみなさい……シータさん…………」
ベットに横たわった俺に布団を被せて、光の魔力で輝く照明を落として、眠りに就こうとしている俺の額に優しく口付けをして――――シータは静かに部屋から立ち去っていく。
いつもと同じ、就寝前の彼女の“日課”――――額に口付けをするときに決まって『かわいい……』まで言葉にして、そこから先が出なくて、誤魔化すように唇を額に押し当てる。
いつも明るいシータが不意に見せる奥ゆかしい仕草、彼女にどこか“神秘性”を感じてしまうような、隠された本心。
彼女が隠した『秘密』を当時の俺は知りたくて、でも知ってしまうと彼女がどこか遠くに行ってしまいそうで――――怖くて、訊けなかった。
「…………しまった、トイレに行きたくちゃった……!」
暫くして、ふと尿意を感じて俺は目覚めてしまう。いつもはそんな事は無く、朝までぐっすりと寝ているのだが、その日はオリビア達と会食をした為か普段より多く飲み食いをしたからだろう。
「お漏らしなんかしたら、シータさんに笑われちゃう……」
そう、羞恥心に駆られて俺はベットから抜け出して自室から出る。
照明が全て消えた真っ暗な屋敷、静寂に包まれた夜の帳――――使用人である【メイド】たちも家に帰り、シータを含めた数人の住み込みのメイド達も地下に設けられた共同部屋で寝ている頃。
恐らく、起きているのは執務室で帳簿を付けているであろうメイド長のみ――――そんな、草木も眠る丑三つ時(※この言い回しはノアから教わった)。
幸い、その夜は快晴で珍しく二つの月が顔を出している――――廊下の窓から差し込む月明かりは屋敷を柔らかに照らして、お陰か恐怖心は感じなかった。
――――今にして思えば、廊下が真っ暗で恐怖に怯えてベットに籠もって、お漏らしでも何でもした方が幾分かマシだったと深く後悔している。
「…………シータさん? こんな夜更けに父さんの部屋に何の用事なんだろう……?」
そして、トイレを目指して暫く歩いた俺は、寝静まった筈の屋敷で人影を目撃する。
月明かりに照らされた廊下の彼方に見えたのは、灯りを手に父さんの寝室の前で佇むシータの姿。
正確に言えば、とっくに寝たと思っていたシータがメイド服を着たまま屋敷を歩いていたのを見かけたので、不審に思って後を付けたのが理由だったが――――その時の俺は自分の知らないシータの姿に妙な好奇心を覚えて、彼女にバレないように後を追ってしまったのだ。
好奇心は猫を殺す――――ノアが教えてくれたこの諺は、その時の俺に正しくピッタリな言葉だったであろう。
「…………アハト様――――シータ=カミングです」
父さんの寝室の前で傅くシータ、その十秒後に開けられる扉――――顔を覗かせた父さんに招かれて、シータは寝室の中へと消えていく。
チラッと見えた父さんの表情は吐き気を催す程に悪辣で、父さんに強引に腕を掴まれたシータの表情は壊れてしまいそうな程に怯えていて――――俺は、その光景に我慢が出来なかった。
恐る恐る、寝室の扉へと近付く――――止めればいい、きっと後悔する羽目になる。そう本能が警告を出しているのに、足は止まらなかった。
「…………いけません、アハト様…………貴方にはツェーン様が…………」
「ツェーンは今頃、王都のエシャロットの実家に向かっておる…………それに、そんな事は今さら気にする事か? 散々、私に抱かれたお前が……んっ?」
「それは……!」
扉の向こうから聴こえてくるのは淫靡な“雄”と“雌”の声――――真夜中の情事、許されざる逢瀬、不義の密会。
「ほれ、早く服を脱がんか……いつまで私を待たせる気だ――――そう言う所は、騎士団時代から変わらんな、シータよ? それとも、無理やりが好みか?」
「…………んっ! わ、わたしは……アハト様…………どうかお慈悲を…………あの子に…………申し訳が…………!」
「お前の子が今も寵愛を受けておるのは、私の慈悲深さのお陰だ――――これはその見返りと思いなさい」
「いや……やめて…………ラム――――」
助けを求めているような気がした――――扉の向こうで、シータが俺の名前を呼んだような気がした。
彼女が苦しんでいる――――そう思って、俺は扉のノブに手を掛けようとする。行けば、何かが変わると思って。
「お父様の部屋の前で何をしているの、ラムダ?」
「――――ツヴァイお姉ちゃん……!」
「足音がしたから誰かと思ったら…………どうしたの? 眠れないの?」
「………………」
そう思ってドアノブを回そうとした瞬間――――俺は背後に立っていたツヴァイ姉さんに呼び止められた。
俺が立てた足音に気付いて目が覚めた――――気付かれ無いように極力足音を殺していたと言うのに、ツヴァイ姉さんはそれでも俺が立てた足音を察知したのだと言う。
「ぼく、おトイレに……」
「ならお手洗いは下の階よ? どうしてお父様の部屋に………………あぁ、そう言う事ね…………」
突然現れた姉さんに驚いた俺を案じたのか、近付こうと歩み寄る姉さん――――だが、あと一歩で俺の腕に手が届くと言う所で姉さんの足は止まり、何かを感じ取ったのか、扉の向こうを鋭い眼で睨み付け始める。
「ベットの軋む音……男の荒い鼻息……お母様とは違う女の声――――なんて穢らわしい……!! お父様、よくも……よくも…………!!」
「…………お姉ちゃん……」
「行きましょう、ラムダ……! 今日はお姉ちゃんが一緒に寝てあげる……」
父さんに向かって感情を吐き出して、姉さんは俺の腕を無理やり引っ張って部屋から離れていく――――俺の腕を引く姉さんの華奢な手は怒りに震え、その眼には涙を浮かべながら。
ツヴァイ姉さんは耳が良い――――廊下の端から反対側の端で落とした硬化の音を聴き取れるほどに。その耳の良さは扉の向こうで繰り広げられている男女の蜜月を聴き漏らさ無かった。
「…………あそこで見たことは忘れなさい、ラムダ」
「…………」
「忘れなさい…………じゃないとお姉ちゃん、ラムダのこと嫌いになるから……!」
「…………うん、分かった…………忘れる…………」
徐々に遠くなって行く父さんの寝室で、シータは父さんと肌を重ねる。母さんと言う人が居るのに関わらずシータの身体を求めた父さんの欲にも、それに応えたシータにも、少しだけ憤りを感じて、でも少しだけ悲しくて。
俺は何も言えずに、その感情を胸にしまい込んだ。
翌日、ツヴァイ姉さんの部屋で寝ていた俺を探しに来たシータの目の下には酷い隈ができており、それでも――――彼女はいつもと変わらない笑顔で、俺に接してくれた。
だから、俺はついぞ“あの夜”の出来事を言うことは無かった――――ノア達と旅をする今になっても、ずっと。
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