第217話:あなたの望む姿《SIDE:■■■■》
「…………此処はどこ? 妾は……私は誰……?」
――――気が付いた時、わたしは真っ暗な空間に居た。
見渡しても、見下げても、見上げても、果てもない黒、黒、黒。
自分の姿も認識できない、目に映る手足も胴体も真っ黒に染まって見えない。それどころか、わたしは自分が『何者』かも分からない。
わたしは……誰なの?
「何かを忘れている……? あぁ、思い出せない……誰か、大切な人が居たはずなのに……記憶に無い……」
頭には靄がかかって何も思い出せない。
何か、胸を打つような、胸をときめかせた、大切な『誰か』が居たような確信があるのに……わたしには何も思い出せなかった。
「一人ぼっちだ……なんでだろう? どうして『寂しい』なんて感情が湧くの……? わたしはただの“獣”なのに……」
分かるのは自分が『獣』であることと、今の現状を“寂しい”と思えることぐらい。
あとは何も分からない。
暗い闇の中で一人ぼっち、誰かが声を掛けているような気がするのに、振り向いても誰も居ない。それが寂しい。
「何も見えない……わたしは何処に行けば良いの? 何処に行けば寂しく無いの? 誰か……わたしの手を握って……」
何故か幻聴が聴こえる後ろには戻れない。そっちに行きたいのに足が進まない。見えない死神の手がわたしをより深い“黒”へと引っ張ってくる。
その手招きに無意識に従って、わたしは暗い闇の中へと歩みだす。行きたくないのに、そっちにしか進めないから。
『コレ――――目を覚ま――――お願――――ラム――――貴女―――待って――――』
『起き―――ットさん―――ムダ様――――このままじゃ――――ヴルムに殺――――』
『シュララ――――無駄――――お前たち――――此処で――――死ぬしかな――――ララララ――――』
『俺は――――死なな――――ルリ――――コレッ――――為にも――――絶対に――――諦めな――――』
幻聴が酷い、頭が痛い、胸が締まる、今すぐに戻りたい、精神の底から怒りが湧いてくる。
けれど、身体は後ろには戻せない。
深い闇へと引き摺り込まれるように進んでいく。
怖い、怖い、怖い――――聴こえてくる凄惨な幻聴がわたしの身体を蝕んでいく。声のする方に行きたい、懐かしい声がする方に行きたい、けど戻れない。
それは……わたしが『■■』だから?
わたしの理性が戻ることを拒んでいるから?
これ以上、一緒に居ると迷惑を掛けてしまいそうで、だから自ら命を断って、わたしは深い闇に沈もうとしているから。
けど、声を聴いて、わたしの本能は後悔を感じてしまった。だから……帰りたい。
『なら帰れば良いだろ? いつまでくだらねぇ意地張ってんだ……■■■■?』
「あっ……あなたは……!?」
そんなわたしの手を掴んで強引に呼び止めた男が居た。
顔は暗くてよく分からない。けれど、その粗暴な振る舞いを、気怠そうな声をわたしは知っている。
わたしの歩いた旅路の中で命を落とした黒き騎士、死んだはずの『■■■様』が其処に立っていた。
『てめぇ、■■■と約束しただろ? 死にませんって……あいつとの約束を破って死ぬ気なのか、アァ?』
「それは……でも……わたしは……『獣』で……」
『■■■は獣だからって理由でてめぇを拒絶したか? 勝手にあいつの心情を決め付けてんじゃねーよ!』
「わたしは……【■■■】失格です……! 主を傷付けて、裏切って、殺そうとした……だから、これはわたしに相応しい罰なのです……」
彼は怒りをわたしに向ける。
わたしが■■■様と交わした『約束』を蔑ろにしたと怒りを露わにしながら。
『■■■の征く路は険しい……だからてめえが一緒に居て支えてやれや! じゃなきゃ、あいつは俺のように惨めな死に方をすることになるぞ!!』
「わたしは……けれど……■■■様に敵対した“憤怒の魔王”で……だから……もう一緒には……」
本当は一緒に居たい、ずっと■■■様の側に居たかった。
けれど、そんな感情すらわたしの内に宿った“憤怒”の感情は塗り潰してしまった。魔王としての怒りが、大切な約束すら簡単に燃やしてしまったのだ。
そんな過失を冒したわたしが、今さら■■■様のお側に居るなんて烏滸がましいにも程がある。
だから……死して地獄に堕ちるのは、堕落したわたしに相応しい末路なのだ。
「わたしは……もう戻れません……! 申し訳ございません……」
『はぁ~……埒が明かねぇ……! おい、あんたからもなんか言ってやれ……教育係様!』
『■■■■ちゃん……聴こえる、■■■■ちゃん?』
「あなたは……誰……?」
そんなわたしのウジウジした態度に痺れを切らしたのだろう。■■■様は深い闇の向こう側に居る誰かに声を掛けた。
そして現れたのは、メイド服に身を包んだ一人の女性。相変わらず顔はよく見えない。ただ判るのは、その女性が黒髪であることぐらいだ。
わたしが出会ったことの無い、記憶にも存在しない、けれど何故か存在を知っている人物――――そんな彼女が、ゆっくりとわたしに近付いて来た。
『聴いて、コ■■■ちゃん? あなたはまだ戻れる……ラ■■の居る場所にまだ帰れるの……! だから……戻ってあげて……』
「わたしは……けど“憤怒の魔王”で……きっと迷惑を掛けてしまう……」
『掛けて良いの……迷惑を掛けても良いの……! あの子はきっと笑って許してくれるわ……! それに、あの子だってコ■■■ちゃんに迷惑を掛けているでしょう? おあいこ様よ……ねっ?』
「でも……いっぱい傷付けた! 身体に一生消えない傷痕を残してしまった……!!」
『傷を理由にあの子があなたを責めた? あなたを責めているのは……他ならぬ自分自身なのよ、コレ■■ちゃん……! だから……もう自分を許してあげて……』
「わたしは……わたしは……取り返しのつかない過ちを……犯してしまった……!!」
優しくわたしの頬に両手を添えて、優しく語り掛ける黒髪の天使のような女性。
母親の腹を喰い破って生まれた、正真正銘の『獣』であるわたしに“母親”を連想させるような不思議な女性。
彼女に諭されて、わたしが抑えていた感情は溢れてきた。涙が流れて、胸が苦しくなって、おぼろげだったラム■様の顔が鮮明に脳裏に蘇ってくる。
『あの子はコレッ■ちゃんとまだ一緒に居たがっているわ……だから一緒に居てあげて……! わたしは……もうあの子の側には居てあげられないから……わたしの代わりに……あの子を支えてあげて……!』
「わたしは……一緒に居ても良いの? また……傷付けてしまうかも……また自分を忘れてしまうかも知れないのに……?」
『そうなったら……もしあなたがまた“憤怒の魔王”になっても……ラム■はきっとあなたを助けるわ……何度でも、何度でも……! だから……安心してあの子に付いて行きなさい!』
「わたしは……私は……戻らなきゃ! ラム■様がいる場所に……戻らなきゃ!!」
あぁ……私はまだラム■様にお側に居たいと願っている。なんと浅ましいのだろうか。
けれど、彼はきっと私の浅ましさも愛してくれるのだろう。だから、彼の腕に抱かれた記憶は何よりも甘美で、心地良かったのだろう。
『てめぇの醜い本性が嫌なら、心地良い嘘で塗り固めた“仮面”を被っていろ! 最後まで仮面を被ってコレッ■=エピファネイアを演じ続けろ!!』
『大切な人の為に怒ることは何も間違っていないわ……! あなたの大切な人を護る為に……ありったけの怒りを解き放ちなさい!!』
「ゼクス様……■■■さん……私は……!!」
『あなたの望む姿をあの子に見せて来なさい! さぁ、向こう側でラムダがあなたを待っているわ……! 本能の赴くままに怒りなさい、コレット=エピファネイア!!』
その名を呼ばれた瞬間、私は死神の手を振りほどいて、来た道を引き返して走り出した。
気が付けば、振り向いた先には仄かに輝く小さな光が見える。其処に行きたい、其処に戻りたい、其処に帰りたい、ただそれだけを思ってわたしは獣のように駆け出した。
顔のよく見えない二人の男女との別れを惜しみながら、けど振り返らずに、ただがむしゃらに、本能に身を委ねて、怒りに従って、内に宿る“憤怒”を滾らせて。
『ラムダをよろしくねーーっ! コレットちゃーーん!!』
『絶対に死ぬんじゃねぇぞ、このアホ狐ェーーッ!!』
ありがとう……ゼクス様を、シータさん。私はようやく決心が付きました。
最後の最後まで……私は嘘をつき続けます。ラムダ=エンシェント様のメイドとして、最後まで職務を全うします。
それが……私が生きる理由なのだから。
私の名は“憤怒の魔王”『イラ』……そして『コレット=エピファネイア』――――ラムダ=エンシェント様に仕えるメイド。




