第963話:本能
「うっ……かは……っ!?」
――――それは一瞬の出来事だった。赤の天使スピカが放った斬撃は“レディ・ジャスティス”を真っ二つに切断した。
美しき光の女巨人は哀れ、胸から下を切断されてしまった。呆然とした表情で“レディ・ジャスティス”は動きを停止させていた。
「あ……」
そして、身体を真っ二つにされる“痛み”を共有してしまい、リブラⅠⅩは動きを完全に止めてしまっていた。
“レディ・ジャスティス”が味わった『身体を両断される痛み』を彼女自身も味わってしまったからだ。口から血を流して、リブラⅠⅩはただ呆然と立ち尽くす。
「リブラ……返事をなさい。リブラ……」
ヴァルゴⅤⅢは恐るおそるリブラⅠⅩに呼び掛ける。胴体を切断される激痛を味わった妹が死んだのではと疑念に思ったからだ。
リブラⅠⅩの心臓の鼓動は止まっていない。痛みを共有して動きこそ止まったものの、リブラⅠⅩの生命活動は失われてはいなかった。
「こ……これで理解できたでしょう、リブラ? 所詮、あなたではわたしには勝てない……最初からお姉ちゃんの言うことを聞いていれば痛い目に遭わずに済んだものを……」
「…………」
「あなたの“レディ・ジャスティス”は死んだわ……あなたの掲げた“正義”は負けたの。正しいのは“神”……アーカーシャ様の掲げる“正義”よ。あなたの“正義”は所詮……彷徨える子羊の気の迷いよ」
リブラⅠⅩが生きている事を認識して安堵したのか、ヴァルゴⅤⅢは悠々と戦意喪失したリブラⅠⅩへと御高説を語り始めた。
「やっぱり……あなたは世間知らずね。わたしと同じように、身体を売らせて『世界』の残酷さを刻ませるべきだったかしら? そうすれば、あなたもきっと、この『醜き世界』の“現実”を知れたでしょうに……」
「…………」
「男どもの言う“愛”なんてまやかしよ……結局はわたしたちを所有して、欲望の捌け口にしたいだけなのよ。ラムダ=エンシェントだってきっと同じ……あなたを性的に消費するだけに決まっているわ」
「…………」
「アーカーシャ様の掲げる愛が……“神”の愛こそが真の平等を齎すの! 打算なき“神”の愛こそが万人を救うのよ! さぁリブラ、もう一度その身を“神”に捧げなさい……それこそがわたしたち姉妹の努めです!」
ヴァルゴ|ⅤⅢを突き動かすのは、徹底した男性憎悪と“神”への狂信。信仰こそが世界を救うのだと、ヴァルゴⅤⅢは高らかに謳っていた。
「…………」
「リブラ、返事をしなさい……リブラ?」
だが、ヴァルゴⅤⅢの言葉にリブラⅠⅩはなんの反応も示さなかった。口から血を流しながら、リブラⅠⅩはただ佇んでいる。
「リブラ……たったまま気を失っているの? けど、なに……どうしてあの子から殺気が出たままになっているの? それに……“レディ・ジャスティス”が消滅していない……どうして?」
そこでようやく、ヴァルゴⅤⅢは違和感に気が付いた。赤の天使スピカによって両断された“レディ・ジャスティス”がいまだに消滅していない事に。
“レディ・ジャスティス”は身体を両断されるつつも、まだその存在を保ったままだった。それに気が付き、嫌な予感を感じたヴァルゴⅤⅢは静かに赤の天使スピカに剣を構えさせた。
次の瞬間だった――――
「うっ、おぉ……ぉぉぉあああああああっ!!」
――――リブラⅠⅩが咆哮をあげたのは。
リブラⅠⅩが血反吐を吐き出しながら叫んだ瞬間、倒された筈の“レディ・ジャスティス”が血にも似た赤い魔力を聖骸布で覆われた目元から流しながら咆哮した。
凄まじい衝撃波がデア・ウテルス大聖堂を震わせ、間近にいたヴァルゴⅤⅢはリブラⅠⅩの放つ狂気にも似た気迫に気圧されていた。
「な、なにが起こっているの!? なんなのよ、この気迫は!? リブラ、止めなさい! まだ抵抗を続ける気なの!? リブラ!!」
「うあぁぁ……あぁぁああああああ!!」
「うっ……なに? “レディ・ジャスティス”が……リブラに憑依していっている……!? な、何をする気なの……リブラ、リブラ答えなさい!!」
そして、ヴァルゴⅤⅢが狼狽える中で、その変化は起こった。活動を再開した“レディ・ジャスティス”は咆哮をあげながら魔力の粒子に分解され、そのままリブラⅠⅩに憑依するかにように纏わりついていったのだ。
次の瞬間、リブラⅠⅩからは凄まじい魔力が放出され、その風圧で赤の天使スピカは吹き飛ばされそうになっていた。
「なにこれ……こんな技、知らない。スピカ、リブラが何か良からぬ事をしてくるわ……構えなさい!!」
「がぁぁああああああああっ!!」
「さっきまでの“レディ・ジャスティス”に自分を操らせる技の発展系……? なんにせよ、リブラを止めなければ……あれ? あの子が消えた……!?」
凄まじい殺気を感じたヴァルゴⅤⅢは慌てて赤の天使スピカにリブラⅠⅩに警戒するように命令を発した。
その一瞬の余所見をした瞬間だった、リブラⅠⅩは忽然と姿を消して、ヴァルゴⅤⅢの視界から消え失せていたのだった。
「あの子はどこに……なによこれは……!?」
ヴァルゴⅤⅢは周囲を見渡した。女神像を拝する螺旋空間からは、絶えず壁を蹴り続ける音が鳴り響く。壁や女神像の一部が突然に砕け、何かが空気を切り裂く音を奏でる。
そして、ヴァルゴⅤⅢが大きく周囲を見渡し、リブラⅠⅩを完全に見失った周囲だった――――
「――――がぁぁ!!」
「リブラ!? いつの間に!?」
――――リブラⅠⅩがヴァルゴⅤⅢの眼前に現れ、彼女を護る結界に張り付いたのだった。
唸り声をあげながら結界に張り付いたリブラⅠⅩの姿は、まるで獰猛な“獣”だった。口から血をポタポタと結界に垂らしながら、リブラⅠⅩは障壁を隔てた先に居る姉に荒々しい殺気を向ける。
「がぁぁ……あぁぁああああああああっ!!」
「リブラ、あなた何をして……きゃあ!?」
そして、リブラⅠⅩは耳を劈くような雄叫びをあげながら、ヴァルゴⅤⅢを護る結界を力いっぱいに殴り始めたのだった。
凄まじい轟音が鳴り響き、ヴァルゴⅤⅢの結界に拳が振り下ろされる。透明な結界にリブラⅠⅩの拳から流れた血が付着する。
「な……馬鹿な事は止めなさい、リブラ! わたしの絶対守護領域は殴った程度じゃ……うっ、ヒビが入っている!? なんなの、この馬鹿力は……本当にリブラがこんな怪力を出しているの……!?」
「うぉぉ……おぉぉおおおおおおおッ!!」
「リブラ、まさかあなた……気を失ったまま暴れて……!? まさか……“レディ・ジャスティス”が憑依して、気を失ったリブラの身体を直接操っているの!?」
それは、リブラⅠⅩという少女が見せた最終手段だった。彼女は意識を失いつつも、“レディ・ジャスティス”を自分の身体に憑依させて無理やり操らせるという暴挙に及んだのだ。
ボロボロの身体を引き摺り、さらにボロボロにしながら、リブラⅠⅩはヴァルゴⅤⅢを護る結界を殴打し続ける。ゴォン、ゴォンと、まるで鐘が鳴り響くような音が鳴り響き、結界がその度にひび割れていく。
「リブラ、今すぐに止めなさい! 駄目だ……わたしの声が届いていない……!? リブラ、これはただの自傷行為よ……手遅れになる前に止めなさい!!」
「がぁぁああああああああッ!!」
「“レディ・ジャスティス”!! リブラから離れなさい! わたしの妹に何をさせているの……それが術者に対する仕打ちですか!? リブラを解放なさい、あなたはもう負けているのよ!!」
「がぁぁああああああああッ!!」
「そこまで……そこまであなたはラムダ=エンシェントに肩入れすると言うの!? 理性を捨てて、本能のままに暴れるまでに……!? 何があなたをそこまで狂わせるの……リブラ」
ヴァルゴⅤⅢの呼び掛けにリブラⅠⅩは答えない。ただ一心不乱に結界を殴り続けている。ヴァルゴⅤⅢはリブラⅠⅩの凄まじい執念にただ畏怖するしかなかった。
それはあまりにも恐ろしい光景だった。ヴァルゴⅤⅢの目の前で、理性的だった妹が獰猛な獣と化している。ヴァルゴⅤⅢから冷静さを奪うには十分な理由だった。
「スピカ……スピカ!! リブラを止めて!!」
「――――っ!!」
ヴァルゴⅤⅢは赤の天使スピカにリブラⅠⅩの動きを止めるように命じた。
そして、命令を受けた赤の天使スピカは剣を構え、結界を殴り続けるリブラⅠⅩ目掛けて突撃を開始するのだった。




