第962話:すれ違う声
「アルクトゥールスが一撃で……!?」
―――その光景を目の当たりにして、ヴァルゴⅤⅢは冷や汗をかいて驚愕していた。リブラⅠⅩの拘束に動いたはずの青の天使アルクトゥールスが返り討ちに遭ったからだ。
大盾を構えた天使はリブラⅠⅩの鉄拳で、足下の螺旋階段に埋められていた。盾で防御したにも関わらず、その防御の上から叩き潰されていたのだった。
(な、何が起こっているの……!? “レディ・ジャスティス”に自分を操らせるだけで、アルクトゥールスを一撃で粉砕するだけの膂力が出せるの……!? そんな馬鹿な……あり得ないわ!)
“レディ・ジャスティス”に自分を操らせるという前代未聞の行動にでたリブラⅠⅩは、ヴァルゴⅤⅢの想像を遥かに超える膂力を引き出していた。
それは今の今まで妹を見縊っていたヴァルゴⅤⅢにとっては不測の事態だった。さっきまで“信仰”に対する感情を暴走させていたヴァルゴⅤⅢは一転して、冷静に事態の対策を練り始めていた。
(アルクトゥールスは……駄目、完全に機能停止している。スピカは……多少ダメージを負っただけ。十全の状態なのはデネボラだけ……)
リブラⅠⅩに叩き潰された青の天使アルクトゥールスは完全に倒された。強烈な蹴りを喰らった赤の天使スピカはダメージこそ負っているが、じきに動き出せる状態になっている。まだヴァルゴⅤⅢの数的有利は変わらない。
だが、使い魔の一角が倒された事で、ヴァルゴⅤⅢはある危機感を抱かざるを得なくなっていた。
(天使たちが全員倒されれば……わたしを護る絶対守護領域“春天星座”が消滅してしまう。そうなればわたしは無防備になってしまう……)
ヴァルゴⅤⅢは極めて強力な結界魔法によって護られている。しかし、その結界の発生源は彼女が召喚した天使たちに在った。つまり、天使たちが倒されれば、ヴァルゴⅤⅢは鉄壁の防御を失うことになる。
そうなれば、今度はヴァルゴⅤⅢ自身が暴走するリブラⅠⅩに襲われることになりかねない。故に彼女は急いで対策を練らねばならなかった。
「うぅぅ……あぁぁああああああ!!」
「――――ッ!? デネボラ、攻撃を!!」
しかし、そんなヴァルゴⅤⅢの思考をかき乱すようにリブラⅠⅩは荒々しく叫び声をあげ、驚いたヴァルゴⅤⅢは緑の天使デネボラに思わず攻撃を命じてしまった。
命令を受けた緑の天使デネボラは弓矢を番い、螺旋階段上でふらふらと立っているリブラⅠⅩに狙いを定めた。そして、緑の天使デネボラは躊躇う事なく弓矢を放った。
(まずはリブラを無力化しないと……)
放たれた弓矢は空気を切り裂きながらリブラⅠⅩ目掛けて飛んでいく。リブラⅠⅩは俯いたまま、弓矢にはまったく気がついていない。
ヴァルゴⅤⅢはリブラⅠⅩの無力化を優先しようと考えていた。だが、そんな彼女の考えは浅はかだった。
「――――ッ! ウァァッ!!」
「なっ……デネボラの矢を素手で!?」
“レディ・ジャスティス”が左手で何かを掴むような動作をした瞬間、リブラⅠⅩの左手が連動して動いて迫りくる弓矢を素手で掴んで受け止めたのだった。
次の瞬間、弓矢を受け止めたリブラⅠⅩの左手がズタズタに引き裂かれた。緑の天使デネボラの放った弓矢こそ受け止めたが、その威力と無理な動きのせいで左腕が壊れてしまったのだ。
「ぐっ……あぁぁ!? つ、うぅぅ……」
「何をしているの、リブラ! 止めなさい!!」
筋肉の断裂、骨の複雑骨折、血管の破裂、それらが同時に発生してしまい、リブラⅠⅩの左腕はだらりと力を失った。
同時にリブラⅠⅩは苦悶に満ちた表情をして苦しみの声をあげた。それを見たヴァルゴⅤⅢは思わず声を荒げる。
「これ以上、無茶な動きをすればあなたの身体が保たないわ! 無駄な抵抗は止めなさい、リブラ! このままだと……二度と動けない身体になるわよ!!」
「ハァ……ハァ……ハァ……!!」
「なぜ……なぜラムダ=エンシェント如きの為にそこまでするの!? あんな反逆者の為に……あなたが自分を犠牲にする必要がどこにあると言うの!?」
リブラⅠⅩの行動は明らかな自殺行為だった。このまま“レディ・ジャスティス”に身体を委ね続ければ、リブラⅠⅩは壊れてしまうのは明白だ。
ヴァルゴⅤⅢは叫んだ、ラムダ=エンシェントの為に自分を犠牲にする意味があるのかと。それに対して、リブラⅠⅩは姉に対して、弱々しく視線を向ける。
「イレヴンさんは……お姉様の言う通り、完璧な人間ではありません。あまりにも不器用で……どうしようもなく愚直な人です……。何人もの女性にうつつを抜かす……軽薄な人です」
「なら何故……そんな男に価値など……!」
「それでも……それでも……私はあの人を……好きになってしまったのです。私に欠けたものを埋めてくれる……眩しい人。だから忘れたくない……自分を犠牲にしてでも、この“愛”だけは失いたく……ないのです」
「愛ですって……そんな感情の為に……」
「自分を犠牲にしてまで……私を育ててくれたお姉様なら、きっと理解できる筈です。愛する人の為なら……私たちはどんな逆境をも乗り越えられると」
「――――ッ!? そ、それは……」
「もう、私は……失いたくない。あの日、去りゆくサジタリウスに言えなかったから……今度はちゃんと言います。私は……ラムダ=エンシェントを愛しています。だから……もう私には“神”は必要ありません」
それは、リブラⅠⅩという“信仰”に生きた少女が“恋”に生きようとし始めた瞬間だった。ラムダ=エンシェントへの好意を隠す事なく口にして、リブラⅤⅢは姉への決別を言い渡した。
愛する人の為なら“神”への信仰を捨てても構わないと笑うリブラⅠⅩに対して、ヴァルゴⅤⅢは言葉を詰まらせてしまった。
「あり得ない……あり得ない、あり得ない!! あなたは騙されているのよ、リブラ! ラムダ=エンシェントはあなたを喰いものにして、飽きたら捨てるに決まっているわ! 目を覚ましなさい、リブラ!」
「この恋に生きれるなら……後悔はありません」
「くっ……スピカ、デネボラ! リブラを止めなさい! あの子がラムダ=エンシェントに壊される前に、何としてでも目を覚まさせるのよ!! リブラはわたしの……わたしだけの!!」
そして、リブラⅠⅩに自分の言葉が届かないと悟ったヴァルゴⅤⅢは二人の天使にリブラⅠⅩを強引に無力化するように命じた。
次の瞬間、赤の天使スピカが剣を構えて飛び上がり、同時に緑の天使デネボラが弓を再び構えた。それに対して、リブラⅠⅩは静かに息を整える。
そして、緑の天使デネボラが弓矢を放とうとした瞬間、リブラⅠⅩは折れた左腕を勢いよく振り抜き――――
「叩き潰しなさい、“レディ・ジャスティス”!」
「――――ッ!? つ……ッ!!?」
――――その動きに連動した“レディ・ジャスティス”の強力な殴打が緑の天使デネボラを遅い、彼女を勢いよく吹き飛ばしたのだった。
“レディ・ジャスティス”に殴られた緑の天使デネボラは凄まじい速度で壁に叩きつけられ、その衝撃で見るも無惨な姿になって機能停止に追い込まれてしまった。
「しまった……デネボラを直接……!?」
暴走するリブラⅠⅩにのみ意識を集中させていたヴァルゴⅤⅢは、“レディ・ジャスティス”による直接攻撃を失念していた。
その結果、緑の天使デネボラは倒され、絶対守護領域を護る天使は赤の天使スピカを残すのみになってしまった。だが、その状況に際して、ヴァルゴⅤⅢは冷静に打開の一手を導き出す。
「スピカ……“レディ・ジャスティス”を!!」
ヴァルゴⅤⅢは“レディ・ジャスティス”に狙いを定めた。満身創痍のリブラⅠⅩを操る“レディ・ジャスティス”を先に倒す事を考えたのだ。
ヴァルゴⅤⅢの命令を受けた赤の天使スピカは構えた剣の刀身に魔力を集束させ“レディ・ジャスティス”に狙いを定める。
そして、赤の天使スピカが剣を振り抜いた瞬間、剣からは白く輝く斬撃が放たれ――――
「これで抵抗は終わりよ、リブラ!!」
「“レディ・ジャスティス”……ぐっ、あぁ!?」
――――放たれた斬撃を喰らった“レディ・ジャスティス”は胸元から真っ二つに切断され、同時にリブラⅠⅩの苦悶の声が静かに響いたのだった。




