第961話:天秤の対価
「記憶を消す……大丈夫、痛くはないわ」
「お姉様……やめて、やめてください……」
――――満身創痍にされたリブラⅠⅩは赤の天使スピカによって首を掴まれて拘束され、絶体絶命の窮地に立たされていた。
リブラⅠⅩから数メートル離れた位置で浮遊しながら、ヴァルゴⅤⅢは魔法によって生成された小さな光球を指先に出現させた。触れた対象の記憶を消去する忘却魔法の一種である。
「ラムダ=エンシェントのことなんて忘れてしまいなさい。あなたはわたしの言うことを聞いて、アーカーシャ様に祈っていれば良いのよ……それがあなたの幸せよ、リブラ」
「ち、違います……私は…………」
「元の敬虔なあなたに戻れば、アーカーシャ様もきっとあなたをお赦しになられるわ。今からでも遅くない……やり直しなさい、リブラ」
ヴァルゴⅤⅢはリブラⅠⅩから数ヶ月、ラムダ=エンシェントと出逢った以降の記憶を消去しようと考えていた。そうすれば、妹はかつての敬虔な信徒へと戻ってくれると信じていた。
当然、それを是とするリブラⅠⅩではない。彼女は身を捩って、赤の天使スピカの拘束から逃れようとしていた。
「――――ッ!!」
「ぐっ、あぁぁ……!」
しかし、リブラⅠⅩが抵抗を試みるや否や、赤の天使スピカは首をさらに絞めてリブラⅠⅩの抵抗の意志を削ぎ落とそうとしてきていた。
万力のような握力で首を絞められ、気道を塞がれたリブラⅠⅩの意識は徐々に薄れていく。
(このままでは……私は忘れてしまう。イレヴンさんとの記憶を。そんなの嫌……忘れたら、また敵になってしまう。そんなの……耐えられない)
リブラⅠⅩは恐怖した。眼前の脅威よりも、記憶を消されてラムダ=エンシェントを忘れてしまう事に。
その恐怖を言語化してしまったリブラⅠⅩは否応なく自覚してしまった。自分の本当の“感情”に。
(ああ、そっか……私はイレヴンさんの事が……)
薄れいく意識の中でリブラⅠⅩが夢想したのは、彼女に対して屈託のない笑顔を向ける金髪蒼眼の少年の顔だった。目の前に居る姉よりも、その少年の事をリブラⅠⅩは想ってしまっていた。
(何もしなかったら忘れてしまう……なら、いっそのこと、命を賭してでも抗わなければ。ああ、そうなんだ……私は……死ぬことよりも、彼を忘れる方がよっぽど怖いんだ……)
リブラⅠⅩは“選択”を迫られた―――忘却か抵抗かを。姉であるヴァルゴⅤⅢとラムダ=エンシェントとを“天秤”に掛けて、彼女はある“選択”を選んだ。
“天秤”が傾いた方、リブラⅠⅩがより大事だと想った方に、彼女は命を賭ける事を選ぼうとしていた。
「さぁ、悪い記憶は忘れなさい、リブ……っ!?」
そして、ヴァルゴⅤⅢが生成した忘却魔法を投げようとした瞬間、リブラⅠⅩによる抵抗がついに始まった。
ヴァルゴⅤⅢは我が目を疑った。散々に痛めつけられていた筈のリブラⅠⅩが、赤の天使スピカの絞首を振り解こうとしていたからだ。
「あ、あぁ……がぁぁ!!」
「そんな……スピカが力負けする筈は……!?」
張り裂けそうな程に声を張り上げながら、リブラⅠⅩは自分の首を絞める赤の天使スピカの左手を握り潰そうとしていた。
その凄まじい握力に対して、赤の天使スピカは表情を顰め、走る痛みに屈して膝を足下に付いてしまっていた。その光景を見て、ヴァルゴⅤⅢは困惑していた。
(あの子にスピカを怯ませるだけの膂力なんてある筈がない。ましてや、抵抗できないように丁寧に痛めつけたのに……いったいどうして? 身体のリミッターが外れて、火事場の馬鹿力でも出したというの? いいや、違う……もっと別の何かが……)
ヴァルゴⅤⅢが使役する天使たちはいずれもが圧倒的な能力を有している。その怪力は巨人族にも匹敵する。なのに赤の天使スピカはリブラⅠⅩに押されていた。
リミッターが外れた事による火事場の馬鹿力の発露ではない、もっと恐ろしい何かがリブラⅠⅩを突き動かしている。そう考えたヴァルゴⅤⅢは、そしてある答えに辿り着いた。
「まさかあなた……“レディ・ジャスティス”に自分の身体を操らせて!? 何を考えているのあなたは!? そんな事をすれば……」
「“レディ・ジャスティス”……動きなさい!!」
「シンクロ率を逆手にとって……“レディ・ジャスティス”の動きに自分を合わせている。そんな芸当を……いいや、そんな事をすれば自分の身体が保たないわよ、リブラ!!」
ヴァルゴⅤⅢの視線の先で、壁に打ち付けられて倒れていたはずの“レディ・ジャスティス”が両手を動かして、視えない何かを振り解こうとする動作をしていた。リブラⅠⅩはその動きに連動して抵抗を続けていた。
そう、リブラⅠⅩは“レディ・ジャスティス”を操るのではなく、“レディ・ジャスティス”に自分を操らせるという暴挙に及んでいた。
「あっ、あぁぁ……!!」
それはヴァルゴⅤⅢから見ても、無謀と言える行為だった。本来、“レディ・ジャスティス”はリブラⅠⅩの動きをトレースして動く。リブラⅠⅩの身体能力以上の動きはできない。
しかし、逆の場合は違う。魔力体である“レディ・ジャスティス”が主体の場合、その動きに制限は無い。どんな無茶苦茶な行動もできてしまう。それにリブラⅠⅩは賭けて、自分の身体を委ねたのである。
「ぐっ、うぅぅ……あぁぁ……!?」
無論、無謀な行為である。“レディ・ジャスティス”の動きに付いていけず、リブラⅠⅩの身体は悲鳴をあげていた。
本来の身体能力以上の動きを強要され、リブラⅠⅩの身体が壊れていく。筋肉が裂け、骨が軋み、全身がズタズタになっていく。それでも、自分の意思では止まる事はできない。
「このままではリブラが自滅してしまう……!」
ヴァルゴⅤⅢは慌てて忘却魔法を放とうとした。このままではリブラⅠⅩが無理な抵抗をして自滅すると危惧したからだ。
彼女は指先に集束させた忘却魔法の光を躊躇う事なくリブラⅠⅩへと投擲した。しかし、すでにリブラⅠⅩは赤の天使スピカの拘束を完全に振り解いていた。
そして、迫りくる忘却魔法に対して“レディ・ジャスティス”は思いっきり右脚を振り上げる動作をして――――
「うぅぅああああああああああッ!!」
――――その動きに連動したリブラⅠⅩは勢いよく右脚を振り上げ、顔面を蹴り上げて赤の天使スピカを蹴り飛ばした。
その瞬間、あまりの勢い耐えきれず、リブラⅠⅩの右脚の骨が折れた。“レディ・ジャスティス”の蹴りの勢いに、彼女の華奢な身体は耐え切れていなかった。
それでも、耐え難い激痛と引き換えにリブラⅠⅩは赤の天使スピカを蹴り上げる事に成功した。そして、赤の天使スピカの蹴り上げられた先にはヴァルゴⅤⅢが放った忘却魔法が在った。
「しまった……スピカを盾に!?」
忘却魔法は打ち上げられた赤の天使スピカに直撃した。当然、何も起きない。赤の天使スピカはそのまま放物線を描いて螺旋階段の下段へと落下していった。
「くっ……アルクトゥールス!!」
赤の天使スピカの拘束から逃れたリブラⅠⅩは“レディ・ジャスティス”の動きと連動して、折れた脚を引き摺りながら立ち上がろうとしていた。
それを目撃したヴァルゴⅤⅢはリブラⅠⅩをもう一度取り抑えるべく、青の天使アルクトゥールスに拘束を命じた。命令を受けた青の天使アルクトゥールスは盾を構えてリブラⅠⅩ目掛けて空中から急降下を開始する。
「“レディ・ジャスティス”……!!」
「――――ッ!!」
青の天使アルクトゥールスが突っ込んでくるのを見て、リブラⅠⅩは叫んだ。そして、彼女の命令を受けた“レディ・ジャスティス”は大きく右腕を振り上げる。
その動きに連動してリブラⅠⅩも右脚を振り上げた。そして、掠れそうな意識を激痛で繋ぎ止めながら、リブラⅠⅩは迫りくる青の天使アルクトゥールスに狙いを定める。
そして、青の天使アルクトゥールスが間合いに入ろうとした刹那、“レディ・ジャスティス”は音速を超える速度で右腕を振り下ろし――――
「うぁぁ、あぁぁあああああああッ!!」
「――――ッ!? …………ッ!!」
――――その動きに連動して炸裂したリブラⅠⅩの鉄拳が、青の天使アルクトゥールスを盾ごと螺旋階段に沈めたのだった。




