第949話:神の贈り物
「うっ……何も出来なかった……僕……」
――――ラムダ=エンシェントが立ち去った後、トネリコはその場で立ち竦んでいた。拳銃を握った両手は震え、トネリコは怯えて涙ぐんでいた。
ラムダ=エンシェントが殺意を向けた時、トネリコは確かに“死”を覚悟した。彼が持つ“神殺しの魔剣”ラグナロクで首を刎ねられるのだと悟らされた。
「…………」
けれど、ラムダ=エンシェントは魔剣を振るう事なく、鋭い刃のような殺気を鎮めて立ち去っていった。その場所にトネリコの命を脅かす者はもう居ない。
ある騎士がトネリコを命懸けで護ったから。
両腕をもがれ、身体は電撃で炭化しても、なおも死に体を引きずってまでラムダ=エンシェントに噛み付いてまで主を護ろうと執念を見せた少年の献身によって。
「タウロス……タウロス!!」
ラムダ=エンシェントの畏敬の念を抱かせた少年騎士は力尽きてトネリコの前で倒れている。少年の姿を見て我に返ったトネリコは慌てて彼の元に駆け出した。
恐怖で脚が縺れて地面に倒れた、少年の側に近付くのが怖い。それでも、トネリコは這いつくばってでも彼の元に近付いていった。
「まだ逝かないで……まだ死なないで……」
これが最後、今生の別れになるとトネリコは理解できていたから。少年はもう助からない、まだ生きている事の方が奇跡なぐらいの傷を負っていたのだから。
自分が呟いた言葉なんて何の意味も無い“希望的観測”だと理解しながら、それでもトネリコは藁にも縋るような気持ちで叫び続けた。
「タウロス……起きてよ、タウロス……!!」
少年の身体を抱きかかえ、トネリコは必死に彼の名前を叫んだ。アーティファクトの装甲は華奢なトネリコには重かった。それでも、トネリコは少年を抱きかかえた。
間近で見た少年は酷い有様だった。
自慢の装甲はヒビ割れて、もがれた両腕からはもう血すら流れていない。真っ白になった素肌はボロボロと粒子になって崩れていっている。もはや、少年には一刻の猶予も残されていない。
「トネ……リコ…………居るの…………?」
「タウロス……そうだよ。お待ちかねの……僕だよ」
トネリコが少年に与えたアーティファクト『ゼウス』はラムダ=エンシェントによって破壊された。だが、装甲に残された僅かな電気が動力をかろうじて動かして、少年の命を繋いでいた。
その残された電気が尽きた時、少年の命の灯火は消える。それをトネリコも少年も悟っていた。だから、二人は延命という選択肢は選ばなかった。
「ア……ハハハッ……最後の最後に……あいつに……情けを掛けられるなんて…………なんて情けない。すまない、トネリコ……僕は……勝てなかった……」
「タウロス……」
「僕は……君の“騎士”…………失格だ。ラムダ=エンシェントを倒すなんて……大見得きって……結局このざまだ。せっかく造ってくれた……アーティファクト…………壊してごめん……」
トネリコに抱きかかえられ、少年は自虐的な笑みを浮かべた。彼は敗北した、ラムダ=エンシェントをついぞ倒すことはできず、いま命を落とそうとしている。
無念と無情感が少年に重くのしかかっていた。
少年はトネリコに詫びた、自分は“騎士”失格だと言って。トネリコは少年の慙悔を黙って聞いていた。彼が何を想い、死に逝こうとしているかを知ろうとしていた。
「ううん……そんな事ないよ。君は確かに“騎士”だ。だって……君は護り抜いてくれたじゃないか、僕を……」
「けど……僕は……」
「君の執念がラムダ=エンシェントの剣を鈍らせた……君は僕を護ったんだ。君は一番大切なものを護り抜いた。だからこの決闘……君の勝ちなんだ」
「トネリコ……」
「だから……君は失格なのかじゃない。君は……僕にとって最高の“騎士”だ。僕が認める、僕がそう決めた……君は僕の誇りだ」
そして、トネリコは死に逝く少年から慙悔の念を取り除いた。君は主を護り抜いた、だから君の勝ちなのだと言って。
その言葉は少年にとっては何よりの報酬だった。
少年が見せた執念とも言える意地は、彼を騎士たらしめた。“死”をも凌駕した少年の意地は、確かにトネリコの心を動かしていた。
「そっか…………なら……良かった…………」
トネリコの最大限の賛辞の言葉を耳にして、彼女の頬を伝って溢れ落ちた暖かな涙を肌で感じて、少年は自分を赦し……そして静かに微笑んだ。
「トネリコ……仮面……外して…………」
「タウロス……」
「君の顔……ちゃんと見たい。僕が護った……人の顔…………自分の眼で見たい……んだ。だから……お願い…………」
「…………うん、分かった…………」
もう時間はない、少年の息が浅くなっていく。それが分かっているからこそ、少年は最期の願いを良い、トネリコはその願いを聞き入れて少年の目元を覆っていた仮面を外した。
少年から『名前』と『顔』を奪っていた仮面を。
仮面を取り外され、少年は久方ぶりに『自分』を取り戻した。そして、金髪碧眼の少年は精一杯の笑みをトネリコに向けて、彼女との最期の時間を噛み締めた。
「トネリコ……最期に…………教えて。今も……この世界は……嫌い? 君の世界の……亡骸の上に築かれた……この世界は…………憎い?」
「それは……」
「裁判で……君が映像を真実だって……主張したのを見て…………何も言えなかった。だから……教えて……君は…………この世界をどう思っている……?」
少年の目蓋がゆっくりと降りていく。それでも少年は最期の力を振り絞って、トネリコに問うた――――この『世界』は君のとって価値はあるのかと。
裁判でトネリコは古代文明滅亡の映像を『真実だ』と宣言し、女神アーカーシャを追い詰めてしまった。それを少年は気に掛けていた。それを知って、トネリコは答えを言葉にする決意を固めた。
「僕は……ずっと亡霊だった。古代文明への郷愁に駆られていた。この世界は『ぬるま湯の地獄』だって……思っていた」
「…………」
「けれど……僕には君が居てくれた。だから、正直に言えば……ずっと楽しかった。君と一緒に世界を駆け巡った日々は……とても刺激的だった」
「…………」
「だから……ありがとう。僕を見捨てないでくれて、僕の手を握ってくれて……本当にありがとう。君が居てくれたから……きっと僕はこの『世界』を好きになれる」
「あぁ……」
「この世界にもまだまだたくさんの問題があるけれど……僕は言うよ。この世界は……きっと美しいのだと。君が愛した世界は……きっと美しい。僕は……好きだよ、この世界が……」
そして、トネリコが伝えた答えを聞いて、少年は静かに微笑んで目蓋を閉じた。彼は確かに“騎士”として、一人の少女を護り抜き、絶望の底に沈んでいた彼女の心を救ったのだと知って。
目蓋の裏には彼女との旅の記憶が蘇る。
それはきっと、満ち足りた走馬灯なのだろう。
トネリコに抱かれて、少年はゆっくりと眠りに落ちていく。もう痛みも悲しみも感じない、ただ安らかな安寧だけが彼を揺り籠のように包み込む。
「それなら……良かったよ…………――――」
「そうだよ……だから、安心していいよ……」
少年はアーカーシャ教団に拾われて、名前と素顔を奪われて、ずっと女神アーカーシャの“信仰”を守るために戦った。それが正しいのだと、その“信仰”の先に平和があるのだと信じて。
そして、その“信仰”は一人の少女を救った。
世界の終焉を看取って壊れてしまった少女に“希望”を見せて、彼女に思い出せたのだ……それでも『世界は美しい』のだと。
「おやすみ……僕の騎士…………テオ」
愛する少女の腕に抱かれて少年は眠る。少年の名はタウロスⅠⅤ――――その真の名はテオ。“神の贈り物”という願いを込められた名前。
愛した少年の“死”を看取り、トネリコの物語は一つの終わりを迎えた。喧騒が響く大聖堂の片隅で、ある少年と少女の物語は幕を閉じたのだった。




