幕間:審判の日
「さてさて……これで全ての準備が整いましたね」
――――デア・ウテルス大聖堂、ティオ=インヴィーズの私室にて。日の沈んだ雪夜、窓から差し込んだ月光だけが照らす部屋の中で、審問官リヒター=ヘキサグラムはひとり黄昏れていた。
彼の目の前のテーブルには栓を開けたばかりの高級ワインが置かれ、審問官ヘキサグラムは寂しそうにワインをグラスへと注いでいく。
「本当は……このワインはあなたと飲むつもりだったのですが……まぁ仕方ありませんね。もうこの部屋に隠す意味もありませんし、誰かに盗られるのも嫌ですので、私だけで飲んでしまいましょう」
その部屋には居ない誰かに語り掛けながら、審問官ヘキサグラムはグラスに注がれたワインをゆっくりと喉へと流し込んでいく。
酔いは回らない、高い度数のワインを摂取しても、審問官ヘキサグラムの意識は良好だった。或いは、彼は飲酒による現実逃避すら許されなかったのかも知れない。
「彼女に言われました……なんで迎えに来なかったのかって。ええ、ええ……分かっています、悪いのは私です。私は……あなたたちを迎えに行くのが遅すぎた。そう思われて当然です……さぞ私を恨んでいる事でしょう」
グラスを空にした審問官ヘキサグラムはソファーに座ったまま項垂れた。自分に向かって投げつけられた悪態を反芻しながら、審問官ヘキサグラムは深くため息をついている。
「私は……逃げてしまった。あなたもあの子も失って、何もかもが嫌になって……精神を殺して、教団の飼い犬として生きていた。いいや……生きたまま死んでしまった」
審問官ヘキサグラムの口から出るのは後悔の言葉。彼は誰も居ない部屋で、月明かりに照らされながら懺悔を吐息と共に漏らす。
「私は無責任だった……責任を果たしているつもりになっていた。結果がこれだ……教団がついにあの子に目を付けた。もう隠しきれない……決着を着けなければ」
二十年間、審問官ヘキサグラムはアーカーシャ教団の飼い犬として真面目に働いた。守るべき信念、守るべき信仰の為に、彼は“道化”を演じ続けた。
しかし、そんな偽りの日々が間もなく終わろうとしている。それを審問官ヘキサグラムはひしひしと感じていた。
「これは私の償いです。あの日、規律を破り、あなたと禁じられた愛に溺れた“罪”を……今こそ私は償わねばならない。あの日から、止まったままになった時間を……動かす時がやって来た」
審問官ヘキサグラムが黄昏る部屋は二十年前から時間が止まったまま。かつて、彼が信仰した聖女が過ごしたままで保存されている。
彼女を愛した男が思い出に浸る為に。
審問官ヘキサグラムの脳裏には、今も彼女の笑顔が浮かんでいる。審問官ヘキサグラムの耳には、今も彼女の柔らかな声が木霊する。その記憶だけが、彼をこの世に繋ぎ止めている。
「あの日、あなたに出逢ったその日から……私はあなたに恋をしていた。あなたに尽くす事こそが、私の生まれた意味。だから、たとえあなたが世を去ったとしても……あなたが遺した意志を、私は最期まで護りましょう」
懐から真っ黒な短剣を取り出して、審問官ヘキサグラムは祈るように言葉を紡ぐ。今は亡き聖女に向かって、彼は祈りの言葉を捧げる。
彼の決意を褒め称える者は誰もおらず、彼の覚悟を罵る者は誰もおらず、審問官ヘキサグラムはただ一人、自らが信じた信仰の為に殉じる事を誓う。
「どうか私を導いてください……そして、どうかあの子をお守りください。あの日、守りきれなかったあなたたちを、今度こそ私に護らせてください。聖女ティオよ……我が最愛の妻よ」
審問官ヘキサグラムは祈りを捧げた、目の前に掛けられた肖像画に。その肖像画に写るのは朱い髪のエルフの女性、彼が愛した麗しき聖女。
彼の信仰は彼女にのみ捧げられる。たとえそれが“神”に認められないのだとしても、審問官ヘキサグラムは決して祈りを止めないであろう。
「我が旅路に、我が復讐に……苦しみがあらん事を」
間もなく夜が明ける、審問官ヘキサグラムの復讐が幕を上げる。
審判の日の始まりと共に、自らの信仰に殉じる者たちの長い一日が始まろうとしていたのであった。