第920話:居場所
「ふん……まったく、ノアもホープも賢いくせに愚かだ。ラムダ=エンシェントに付いて『世界』に抗ったって、結局は潰されるだけなのに……」
――――デア・ウテルス大聖堂第一階層、トネリコの客室。ノアたちとの会合を終えたトネリコは悪態をつきながら部屋へと戻ってきた。
部屋は宿泊用の家具などが置かれた、巡礼者用の宿泊部屋だ。内装は至極一般的なホテルとさして変わらない。ただ、トネリコの泊まる客室には一点だけ異質な物が設置されていた。
「さて、作業の続きでもするか……」
部屋の中央にはトネリコが設置した巨大な機械が置かれていた。ちょうど人間が一人入れそうな筒状のカプセルが置かれ、周囲には装甲と思われる部品がケースに入れられている。トネリコ用の小型の研究施設だ。
トネリコはカプセルの前に設置されたデスクに掛けると、カップに注がれた紅茶を飲みながら、何かの情報が映されたモニターを眺めだした。
《トネリコ……ノア=ラストアークとの話し合いは終わったのか? その顰めっ面では……僕の予想通り喧嘩別れになったようだな》
「うるさいよ……黙ってなよ、タウロス」
《ふっ……そう言うなよ。カプセルの中で大人しく眠っているのも暇なんだ。お前の一喜一憂ぐらいしか楽しみがないんだ》
そんな折、トネリコを誂う少年の声がカプセルから響いた。声の主はタウロスⅠⅤ、アーカーシャ教団が誇る十二騎士『光導十二聖座』の一角を担う少年だ。
タウロスⅠⅤに誂われたトネリコは表情をさらに顰めてカプセルを睨みつけていた。
「それでタウロス……身体の調子は?」
《ああ……すこぶる悪いよ。今までの人生の中で一番の不快感だ。自分が別の存在に変質するのがここまで不快だったとは……事前に言って欲しかったな》
「契約書には記載してたよ……書面下部に小さくね」
《ほぼ詐欺じゃないか……まったく、メリットばかり強調して、デメリットについて触れないとか、君は悪徳業者か何かか? まぁいいけど……》
「安心しなよ……僕は失敗しないから」
タウロスⅠⅤと他愛のない罵りあいをしながら、トネリコはキーボードに必要なデータを打ち込んでいく。
モニターに映されていたタウロスⅠⅤの身体データが次々と書き換わっていく。その様子を見て、トネリコは少しだけ後ろめたい表情になっていた。
「本当に後悔はしないんだね……タウロス?」
《くどい、何度も言った筈だ……構わないと。僕はさらに強くなる、アクエリアスⅠやカプリコーンⅩⅡ、そしてヴァルゴⅤⅢにも負けない最強の光導騎士へとね》
「けど、それは……」
《お前ならできるんだろう、トネリコ……僕はお前を信じている。だから……人間を辞める事だって怖くはないさ》
「それでいいのか……本当にこんな事をして……」
筒状のカプセルは“蛹”である。その中に入ったタウロスⅠⅤはトネリコの手で新たな存在に羽化しようとしていた。
しかし、トネリコはいい知れぬ不安を抱いていた。彼女はタウロスⅠⅤの強引な申し出を断れず、やむを得ずに彼を実験台にしていた。それが罪悪感を後押ししていた。
《トネリコ……僕は勝つ。君が僕の為に造ってくれたアーティファクトがあれば……僕はラムダ=エンシェントにも引けを取らない存在になれる。僕がアーカーシャ教団に……そして君に勝利を贈ろう》
「けど、この改造の果てに君は……」
《女神アーカーシャ様の『世界』を護れるなら……この“魂”を捧げる事は惜しくはない。僕の寿命……存分に使ってくれ、トネリコ。それで勝てるなら本望さ》
トネリコが行なった改造は重大な“代償”を伴う。タウロスⅠⅤはラムダ=エンシェントに匹敵する力を得る代わりに、その寿命の大半を失おうとしていた。
けれど、タウロスⅠⅤには“恐怖”は無かった。彼はただ、女神アーカーシャへの忠誠に殉ずる事を喜んでいた。
「僕は……どうしてこんな事を……」
《トネリコ……僕はお前の為に戦いたい。君は前に言ったね……“最大多数の幸福”の為に自分は我慢していると。僕はそれが許せない……君の態度が我慢ならない》
「タウロス……?」
《僕は……君に笑っていて欲しい。“最大多数の幸福”を……それは切り捨てる為の思想ではない。一人でも多くの人を救うための思想だ……救えるなら救いたい》
「それは……」
《僕は君を救いたい……君がこの『世界』に居場所を感じないなら、僕が君の居場所を作ってやる。君が“少数派”だと言うのなら……僕がその手を引っ張ってやる》
「…………っ」
《君はたしかに『普通』じゃない……他の連中よりも『特別』なだけさ。決して劣っていない……だから自分に誇りを持て。この僕が信じる、お前自身を信じてやれ……トネリコ》
タウロスⅠⅤが掛けた優しくも力強い激励の言葉に、目頭が熱くなったトネリコは顔を俯けた。彼女は静かに、息を殺すように咽んでいた。
居場所を作ると言ったタウロスⅠⅤの言葉に、この世の全てを諦めていたトネリコは感情を揺さぶれつつあった。
《ノア=ラストアークになんて言われたかは知らない……けど、真に受ける必要はない。君は君の為に生きるべきだ、トネリコ……君が本当に望むものの為に戦うべきだ》
「僕の……本当に望むものの為に……」
《僕はその為の“剣”となろう……ああ、きっと僕はその為に生まれてきた。トネリコ、一緒にこの『美しい世界』で生きよう……共に世界を護る“盾”になるんだ》
トネリコは何もかもに絶望して、ずっと『ぬるま湯のような地獄』という“現状”に甘んじて生きていた。どんなに居心地が悪くても、それを自分自身で変える“勇気”が無かった。
そんなトネリコにタウロスⅠⅤは手を差し伸ばした。トネリコにとってタウロスⅠⅤは、自分が愛した『世界』の屍の上に立つ存在だ。だけど、そんな彼が真剣にトネリコを案じている。
《言え、トネリコ……君の願いを》
「僕は……許せない。僕の『世界』を壊したノア=ラストアークが……! もう取り戻せないって分かっていても……あいつに“罪”を償わせたいんだ」
《その願いの先は……》
「分からない……何も考えていない。ねぇ、タウロス……教えてよ。僕は……この『世界』には必要なのかな? ……生きていて良いのかな?」
《当たり前だろ……まず、僕が君を必要としている》
トネリコは取り戻せない『過去』を懐かしみ、タウロスⅠⅤが差し伸ばした『未来』を思ってしまった。自分が本当は何が欲しいのか、今のトネリコには分からなくなっていた。
「それなら……まずは君の期待に応えないとね。待っててよ、タウロス……明日には調整は終わる。そしたら、そこからは武装の試運転を……うっ!? ゲホッゲホッ……!!」
《トネリコ……大丈夫か!?》
「あ、ああ……心配ないさ。ただの持病だ……じきに楽になれる。僕の心配よりも、自分の心配をしなよ……タウロス。勝つんだろう……ラムダ=エンシェントに?」
残された“寿命”は少ない。咳を抑えた時に手に付着した鮮血を少しだけ寂しさそうな表情を見つめて、その手をデスクの影に隠して、口元に付いて血を拭いながらトネリコは笑った。
死ぬまでに『答え』が欲しいと願い、残された生命を燃やしながら……トネリコ=アルカンシェルはノア=ラストアークに立ち塞がる最大の“敵”になろうとしていたのだった。