第915話:父と子と
「在った、此処ね……ママの住んでいた部屋は」
――――デア・ウテルス大聖堂、ティオ=インヴィーズの私室。ラムダ卿の裁判を二日後に控える中、あたしは一人、かつて母が大聖堂に居る時に暮らしていた部屋を訪ねていた。
聖人聖女に与えられる広々とした私室。母が住んでいたのはもう二十年も前の話だが、その部屋はまるで時間が止まったかのように、当時の母の足跡を今も残していた。
「今も誰かが住んでいるよう……」
聞けば、その部屋は聖女ティオの失踪以降、誰も住んでおらず閉鎖されているのだとか。けれど、部屋には今も生活感が残っている。
テーブルに並べられたティーセット、埃の被っていない綺麗なピアノ、手入れの行き届いた花々。誰も住んでいないのに、明らかに管理されている形跡がある。誰かが母を偲んでいるのだろうか。
「ママ……」
部屋の中をひとしきり見て回ったあたしは、暖炉の上に掛けられたある肖像画に目を引かれた。白い法衣を纏った朱い髪のエルフ族の女性、聖女だった母を描いた肖像画だ。
肖像画に描かれた母は優しい笑顔をしている。見覚えがある、幼い頃のあたしによく向けてくれていた笑顔そのものだ。その肖像画を見て、過去を懐かしんだあたしは思わず涙を流していた。
「おやおや、いけませんねぇ……勝手にこの部屋に入られては。この部屋は封印されています……困るんですよ、土足で踏み荒らされてはねぇ」
「テメェ……リヒター=ヘキサグラム……!!」
「どうもどうも、ルチアさん……おはようございます。朝から母親の足跡辿りですかぁ? やる事が無くて暇そうですねぇ……クッククク!」
そんな感傷に浸るあたしの邪魔をするように、リヒター=ヘキサグラムがいつの間にか部屋の内部へと侵入していた。
あいも変わらず胡散臭い笑みを浮かべて、祭服を着た糸目の男があたしを見ている。不愉快極まりない、にやけた表情を見るたびに殴りたくなる。
「どのツラ下げて……今すぐに殺してやる!」
「おおっと、駄目ですよぉ〜……ラストアーク騎士団とアーカーシャ教団は現在、停戦中の筈。ここで私に手を出せば、教団はあなた達への攻撃の名目を得てしまいますよぉ〜」
「…………っ!!」
「ラムダ=エンシェントさんにご迷惑をお掛けするつもりですかぁ、ルチアさん? 身勝手な行動は周囲の人間に迷惑を掛けると……ご理解なさってはどうでしょうかね?」
「テメェに言われなくても分かってるっての……!」
手に魔力を溜め始めた瞬間、リヒター=ヘキサグラムはあたしの行動を咎めた。ここで暴力沙汰を起こせば、ラストアーク騎士団とアーカーシャ教団の停戦協定が白紙になる。そうなればラムダ卿に迷惑が掛かると。
あたしは手を引っ込めるしか出来なかった。あたしが大人しく引き下がったのを見て、リヒター=ヘキサグラムは口角を吊り上げて嫌味そうに笑っていた。
「ちっ……あたしを馬鹿にしに来たの?」
「聖女ティオの私室に勝手に入るのを目撃しましたのでねぇ。困るんですよ、室内を勝手に荒らされては……一応、この部屋は聖女ティオの失踪当時の状況を保存するように言われていますので……」
「じゃあ、物に触らなきゃ良いのね?」
「あ~……部外者が勝手に室内を物色するのはご遠慮願いたいのですが……。それにあなたはラストアーク騎士団の所属……教皇ヴェーダはいい顔をしませんよぉ?」
「あたしは聖女ティオの娘よ……問題あんの?」
勝手に聖女ティオの部屋を物色するな、そうリヒター=ヘキサグラムはあたしに忠告してきた。なんでも失踪当時の状況を保存しているのだとか。生活感が残っているのはその為だろう。
けど、それじゃああたしは納得できない。
巡り会えた母の痕跡を辿るまたとない機会だ。あたしは少しでも母の『思い出』を手に入れようと、リヒター=ヘキサグラムに食いかかっていた。
「問題大有りですとも……聖女ティオに娘がいた、それもラストアーク騎士団の所属のハーフエルフ。そんな事がアーカーシャ教団に知られれば、教皇ヴェーダは見逃しはしないでしょう……」
「…………それが何よ?」
「ティオ=インヴィーズさんは教皇ヴェーダの後を継ぐ大聖女の候補……つまりは女神アーカーシャ様の新たな“器”の候補です。その血を引くあなたとあらば……どうなると思います?」
「…………」
「まぁ……余計なトラブルに巻き込まれたくなければ、聖女ティオとの血縁関係は伏せるのが賢明でしょう。無論……私との関係もね。臭いものに蓋を……厄介な火種は『闇』に葬るのが一番だとは思いませんかぁ?」
「お互いの保身の為に黙ってろって事?」
「そう言う事です……私も首が掛かってますのでねぇ。しばらくは……せめて二日後の裁判が終わるまでは黙っていただけると都合が良いのですが……」
つらつらと、リヒター=ヘキサグラムは保身の為の詭弁を口にしている。あたしの存在を、聖女ティオの娘の存在を露呈させたくないのだろう。
あたしの出自が知られれば、アーカーシャ教団はあたしに手を出すだろうと奴は言う。けれど、そんな心配なんて、あたしは微塵にも考えていなかった。
「はっ……バッカじゃないの? あたしが聖女ティオの娘だから何? 次の聖女様にでもして貰えんの? キャハハハハハハ……なにそれウケる」
「…………」
「あたしは魔女……“朱の魔女”ルチア=ヘキサグラム。ママのような穢れを知らぬ聖女じゃない……恋多く、色んな男を宿り木に生きてきた売女。そんな穢れた女……アーカーシャ教団もお断りでしょう?」
「…………っ」
「あたしがどんな人生を送ったか、どんな地獄を過ごした知らない癖に……勝手にあたしを値踏みしてんじゃないわよ!! あたし達を見捨てたクソ親父の分際でェェ!!」
あたしは母のような聖女じゃない、色んな男に食い漁られた卑しい女。今さら“聖女の娘”なんて肩書きで語られても虫唾が走るだけだった。
だからあたしは怒りに身を任せて叫んだ。
リヒター=ヘキサグラムは黙ってあたしの癇癪を眺めていた。何も感じぬよう、何も考えないように『笑顔』を顔面に貼り付けて。それがあたしの怒りをより一層刺激していた。
「さぁ、着いたわよ……このお部屋が聖女ティオ様の私室。あっ、あたしが入れたって内緒よ……この部屋の管理はリヒター=ヘキサグラムがしてるから……」
「ありがとうございます、カプリコーンさん」
「あれ……誰か中に居てますね? 先客でしょうか……ああ、待ってください、イレヴンさん。そんな焦って扉を開けては……」
「――――ッ!? ルチア……どうして此処に……」
そんな修羅場の最中だった、扉を開いてラムダ卿を含めた三人の男女がぞろぞろと部屋に入って来たのは。
「あっ……もしかして修羅場? お邪魔しました〜」
「待ちなさい、ラムダ卿! しれ~っと帰ろうとすんな!!」




