ヘキサグラムの記憶㉒:遅すぎた出逢い
「ルチア卿、台所を借りても良いですか?」
「あ~、お好きにどうぞ。散らかさないでね」
「一緒に紅茶を淹れましょうか?」
「お願い……茶葉は? 自前である……そう」
――――ラムダ卿はあたしの家に入ってくると『リンゴを切り分ける』と台所に立った。部屋着に着替えたあたしは彼が台所で作業している様子を椅子に座って、テーブルに肘をついて眺めていた。
(貴族の子どもなのに台所に立つんだ……)
ラムダ=エンシェント――――騎士の名家であるエンシェント辺境伯家の第四子、つい最近王立ダモクレス騎士団に団長として迎え入れられた、古代文明の遺物『アーティファクト』を操る“アーティファクトの騎士”。
あたしが嫌いな“貴族”の立場を持つ少年だ。
だけど、彼には不思議と嫌な感じはしない。
ラムダ卿は優秀なメイドを抱えているにも関わらず、彼女たちを引き連れずにあたしの下を訪ねて、自分自身の手で食事の準備を始めていた。あたしみたいなろくでなしのお見舞いだけの為に。
「さぁ、ルチア卿、リンゴを切り分けましたよ。温かい紅茶もお淹れしたのでどうぞ。消化に良いものを食べて早く良くなってくださいね」
「このリンゴ……けっこう値が張るやつじゃない?」
「え、ええ……まぁそうですけど。あ、ああ……今回の『時の幻影』での魔王軍最高幹部撃破の功績を認められて、フレイムヘイズ卿から報酬を頂いたんです。そのお金で奮発して……」
あたしの見舞いの為だとラムダ卿が買ってきたリンゴは、王都に住む貴族の為に売られている高級な物だった。あたしなら『高っか』と言って手を出さないような代物だ。
貴族としての嫌味なのだろうか。
だって、あたしにそんな価値は無いのに。
ラムダ卿からの好意を素直に受け止められず疑心暗鬼になっている自分が居た。そんな素敵な贈り物をされるような良い女じゃないのにって自分を卑下した。
「ねぇ、ラムダ卿……なんであたしのお見舞いなんてすんの? 別に怪我したのはあたしだけじゃないし……あたしはラムダ卿の足を引っ張ったぐらいだ。だから、こんな施しを受ける立場じゃ……」
「それは……それはですね……」
あたしは卑しい、ラムダ卿の気持ちを感じ取れず、つい問い詰める形で彼に真意を問うてしまった。あたしにはそんな価値はないって思っていたから、きっと裏があるんだって疑って。
だって、あたしはラムダ卿に迷惑を掛けたから。
本来、あたしはラムダ卿に謝らないといけないから。
あたし達は“暴食の魔王”グラトニスとの戦争の最中、魔王軍とのアーティファクトの争奪戦に勝つためにエルフ族の聖地であるサン・シルヴァーエ大森林へと向かい、そこで“嫉妬の魔王”インヴィディアと対峙した。
“嫉妬の魔王”インヴィディア、ママを殺した仇。
あたしの祖母、ディアナ=インヴィーズと。
四年前、ママが死んだ日に“嫉妬の魔王”はあたしの胸に“魔女の烙印”を刻まれた。そして、再会したディアナ=インヴィーズは自らの正体を秘匿してあたりに近付き、あたしを“魔女の烙印”で操って利用した。
結果、あたしはラムダ卿の婚約者を傷付けた。
ラムダ卿が“嫉妬の魔王”倒してくれたおかげであたし、そして教会で共に育ったラナは“魔女の烙印”から解放された。けど、あたしがラムダ卿に迷惑を掛けた事実は変わらない。
「その……俺、ルチア卿に謝りたくて。敵対してしまったとは言え、俺はルチア卿の祖母であるディアナさんを殺めてしまった……ルチア卿の家族を死なせてしまった。だから、謝りたくて……」
「えっ……? な、なんで……」
「ルチア卿……申し訳ございませんでした! 俺は……俺は取り返しのつかない事をしてしまいました! 本当に申し訳ございません……申し訳ございません……」
けれど、ラムダ卿はあたしに対して頭を下げて謝ってきた。あたしの祖母ディアナ=インヴィーズを殺めた事を謝罪していた。
それが彼があたしの下を訪ねた真意だった。
この訪問は彼なりの『贖罪』だったのだ。
その真意を知った瞬間、あたしはラムダ卿を疑ってしまった事を恥じた。こんなに誠実だったラムダ卿に何か下心があるんじゃないかと、あたしは内心で怯えてしまっていたのだと。
「べ、別に……あたしは怒ってないわ。むしろ感謝しているぐらい……あのクソ女はあたしのお母さんの仇、倒してくれてむしろ清々したわ。だからラムダ卿が気に病む必要なんてないのよ……」
「けど……」
「あたしが気にすんなって言ったら気にしなくて良いの! むしろ謝らなきゃいけないのはあたしよ……うちのクソババアが迷惑掛けましたってね」
あたしは馬鹿だ、素直に好意を受け取って『ありがとう』って言えたら良いのに、つい悪態をついてしまう。あたしには好意を受ける資格なんて無いって意地を張って突っぱねてしまう。
あたしは“無償の愛”を向けられるのを恐れた。
あたしのような“愛玩人形”にはそんな価値なんて無いのだと、あたしは幸せになんてなってはいけないのだと、ラムダ卿の好意を受け取ってはいけないのだと、無意識に思って彼を拒絶しようとしていた。
「…………っ」
ラムダ卿はあたしにとっては“英雄”だ。あたしを奴隷として売り払った【死の商人】を討ち取り、あたしのママを死なせた“嫉妬の魔王”をも打ち破った。
あたしを『闇』に落とした巨悪を倒した。
あたしを蝕む呪縛を二つ壊してくれた。
本当なら謝罪をするのは、お礼をしなければならないにはあたしの方だ。だけど、あたしにはラムダ卿に返せるものが思い浮かばなかった……身体を差し出す以外は。
「…………」
あたしはきっとラムダ卿に好意を抱いている。この男性は特別だ、あたしを喰い漁る他の男たちとは違うんだって確信を持てる。けど、あたしの恋心は叶えてはいけない願いだ。
だって、ラムダ卿は輝かしい“英雄”で、
あたしは堕ちに堕ちた“娼婦”なのだから。
釣り合う筈がない、あたしはラムダ卿に出逢うのが遅すぎた。そもそも、ラムダ卿にはすでに将来を誓い合った婚約者が居る……今さら卑しいあたしが突け入る隙なんてありはしない。
「なんで……なんであたしになんて構うのさ? 別に……あたしは大した女なんかじゃない。誰にでも抱かれる尻軽で、それを悪いとも思っていない……」
「それは違う、俺はそんなつもりじゃ……」
「あたしはたまたまラムダ卿に救われただけ……単なる偶然よ、偶然! だからあたしなんて気にしないで……その、リンゴはありがたく頂くわ。それで十分だから……」
これ以上、好意を向けられたら、あたしはきっと勘違いをしてしまう。ラムダ卿はあたしの事を好きなんだって思い込んでしまう。
だけど、それはきっと幻想だ。
あたしには愛される資格は無い。
だからあたしはラムダ卿を遠ざけようとした。それが“愛玩人形”であるあたしに相応しい“罰”なんだと、あの“悪夢”の声に従うように。
「ルチア卿、ラナから話は聞いています……四年前、ルチア卿はお母様を……聖女ティオ=ヘキサグラムを亡くされていると」
「ラナのやつ余計な事を……で、それが何?」
「俺は……俺も、四年前に母を失っています。父を狙った賊に襲われた俺とオリビアを護る為に……我が身を犠牲にして……」
「…………っ!? それって……」
「だからその……ルチア卿の事を他人だってどうしても思えなくて。祖母を亡くされて、きっと傷付いているんじゃないかって思ったら、居ても立ってもいられなくなって……」
けれど、あたしはラムダ卿の“動機”を知ってしまった。ラムダ卿はあたしと同じだった、彼はあたしと同じように母親を失っていたのだった。
「でも、あんたの母親は存命の筈じゃ……」
「ツェーン=エンシェントは確かに存命です。だけど……彼女は継母で、本当の母親は父さんがメイドとして雇っていた女性だったんです。俺はそのメイドと父さんとの間にできた隠し子で……」
「…………」
「母さんは……【死の商人】に壊された奴隷でした。そんな母さんを父さんが買い取って、身籠らせたのが俺です。だから、ルチア卿がお母様を亡くされた気持ちは良く分かります……」
「それで……父親にも捨てられたの?」
「はは……そうですね、そうなります。俺は父さんの期待に添えられず故郷を追い出されました。何かを失ってばかりです、俺は……きっと弱いから」
その告白を聞いた時、あたしは運命を感じた。
ラムダ卿はあたしと同じ“痛み”を抱えていた。
あたしと同じように母親を目の前で亡くし、あたしと同じように父親から見捨てられた。ラムダ卿は今も『過去』に囚われている、あたしと同じように。
「あっ、あぁ…………」
ラムダ卿はあたしを救うだけじゃなく、あたしの“心の傷”までもを映し出してくれた。これほどまでにあたしを救ってくれた男性が他にどれだけいようか。
その時、あたしは強く後悔した。
もっと早く、綺麗な内に彼に逢いたかった。
「ご、ごめんなさい……まさかラムダ卿があたしと同じ痛みを抱えていたなんて思ってもなかった。ごめんなさい……あたしの考えが浅はかだったわ」
「良いんです、言ってない俺が悪いんだから……」
「ね、ねぇ……その、ラムダ卿……ラムダ卿のお母様の話、話してくれない? あたしもお母さんの……ママの話をしたいの。どうせ自宅療養で暇だし……ラムダ卿も今日はお休みなんでしょ?」
「そ、それはそうですけど……」
「ついでに父親の愚痴も言っていきなよ、あたしもクソ親父の愚痴を言いたいからさ。良いでしょ、オリビアにはあたしの部下に連絡を入れさせるわ。だから良いでしょ……もうちょっと此処に居なよ」
あたしはもっと『ラムダ=エンシェント』を知りたかった。きっとあたしは彼とは結ばれない、だからせめて彼をもっと知りたかった。
あたしは本当に卑しい女だ。
無意識の内にラムダ卿に救いを求めた。
それでも、ラムダ卿は困った表情をしながらもあたしの側に居てくれる事を承知してくれた。あたしの強引な誘いに応じてくれたのだった。




