ヘキサグラムの記憶⑱:あたしが死んだ日
【お願い】今回のエピソードはセンシティブな内容を含んでいます。
物語上、必要な描写なので執筆していますが、特に虐待に関する描写を多分に含みますので、内容に不安のある方は閲覧をお控えいただくか、十分にご留意の上でお読みください。
「ふぅ……流石は若いエルフだ。何度抱いても飽きなぁ……まったくいい買い物をした。【死の商人】には感謝せんとな……」
「…………」
「お前も愛して貰えて幸せだろう、ルチア? さぁ、私の身体を綺麗にしたらさっさと“檻”に戻れ……寝るのに邪魔だ」
――――あの日、貴族の男に買われたあたしはグランティアーゼ王国の地方都市に建つ男の邸宅に軟禁された。あたしの居場所はあたしを買った男の……“ご主人様”の寝室だった。
けれど、あたしは寝室で自由に過ごせる訳じゃない。
あたしの寝床は部屋の隅に置かれた小さな“檻”だった。
縦1メートル、横1メートル20センチの小さな“檻”、立つことも身体を横にする事も出来ない窮屈な居場所。あたしはそんな“檻”に鎖で繋がれた。衣服の着用なんて当たり前のように認められない。
「…………」
日中、あたしは“檻”に閉じ込められて、“ご主人様”が寝室に入ってきた時だけ“檻”から出ることを許される。
“ご主人様”に身体を使って奉仕する為に。
それが“愛玩人形”の存在価値だった。
“ご主人様”の恥垢や汗を舌で丁寧に舐め取り、“ご主人様”の溜まった情欲を吐き出させるように彼の上で腰を振る。それがあたしに求められた役割だった。
「…………」
“ご主人様”を満足させなければ首輪から電撃を流されて折檻される。だからあたしは男を悦ばせる技を否が応でも習得せざるを得なかった。
怖かった、苦痛に曝されるのが。
従順じゃないと酷い仕打ちを受けた。
大人しく“ご主人様”に従えば、自分の身体を使って“ご主人様”を悦ばせれば、少なくとも痛い目には遭わない。“ご主人様”が満足すれば許して貰える。
「…………」
寝室に閉じ込められて数ヶ月も経てば、あたしは身も心も“愛玩人形”に成り果てていた。泣きも喚きもしない、“ご主人様”に身体で奉仕するだけの奴隷。
それが『ルチア=ヘキサグラム』だった。
教会に居た『あたし』はもうどこにも居ない。
来る日も来る日も“ご主人様”に抱かれて、来る日も来る日も“ご主人様”の情欲を受け止めて、いつの間にかあたしは考える事が億劫になっていた。
「…………」
いつしかあたしは考える事を止めていた。“ご主人様”に奉仕して“檻”に戻り、寝室の灯りが消えて“ご主人様”のいびきの音だけが不快に響く中で、あたしは教会での日々を思い出しながら過ごしていた。
帰りたい、帰りたい、帰りたい、あの場所に。
会いたい、会いたい、会いたい、お母さんに。
この屋敷にはあたしを助けてくれる人は居ない。此処にはあたしの身体を貪る醜悪な“ご主人様”と、あたしをメンテナンスする従者しか居ない。あたしを愛してくれる人は居ない。
「…………」
ふと、“檻”の中に置かれた手付かずの“食事”に視線を向ける。小皿に注がれた水と、市販のドックフード……それがあたしの食事だった。完全に“奴隷”扱いだった。
それならまだマシな方だった。
酷い日には“ご主人様”の体液が混入されていた。
あたしには排泄の自由すらなかった。『健康管理』だと称して、あたしは屋敷のメイド達に排泄を常に監視されていた。あたしには“人権”なんてものは無かった。
『お前の価値は“身体”だけだ……人形。学なぞ要らん、男を……私を悦ばせる術だけを覚えろ』
ママが教えてくれた勉学も魔法も、“愛玩人形”になったあたしには何の意味も無かった。あたしの価値は“身体”しかなかった。
だからあたしは教会では教わらなかった性技のみを覚えていった。“ご主人様”を悦ばせて満足してもらって、酷い目に遭わないようにする為に。
〜〜〜〜
「ルチア、今日はお前が下になりなさい。たまには運動をせんとな……さぁ、何をしている? さっさと股を開かんか……それしかお前には価値はないのだぞ?」
「はい……申し訳ございません、ご主人様……」
「まったく……最初は挿れただけで泣き叫んでいたのに、最近はめっきり反応が薄くなったな? ふぅむ……そろそろマンネリしてきた頃か?」
その日も、いつも通りあたしは“ご主人様”に奉仕をしていた。“ご主人様”の身体を隅から隅まで自分の身体で綺麗にして、あたしはベッドに横になって“ご主人様”を自分の身体に受け入れた。
「…………ッ」
“ご主人様”の身体があたしの中に在るのが甚だしく不快だった。あたしの視界で揺れ動く醜い肥えた身体が、あたしの鼻腔を刺激する腐った魚のような体臭が、あたしの身体を舐めまわす粘ついた舌が、甚だしく不快だった。
好きでもない相手に抱かれるのは不愉快だ。
どんなに身体を交えてもそこには“愛”が無い。
「うっ……ぁ…………」
あたしの心は完全に死んでいた。
ただ奉仕するだけの“人形”になっていた。
“ご主人様”を受け入れている間、あたしは虚ろな瞳で天井のシミを眺めていた。嬌声も上げない、時おり横隔膜が刺激されて息が漏れる程度だった。
「なんだ……声は上げんし、股の締まりも悪い。ルチア、お前の役目は私を悦ばす事だ……何を呆けている? 電撃を流されてお仕置きされたいのか?」
「…………」
「これは……なんだ、もう壊れたのか? 呆れた女だ……誰が壊れて良いと言った? まったく、少しは奴隷根性でも見せたらどうだ……身体しか取り柄の無いゴミ屑が」
“ご主人様”があたしの頬を平手打ちした。だけど、あたしは何の反応もしなかった……いや、何の反応も出来なくなっていた。
終わりの無い搾取にあたしは疲弊し切っていた。
身体だけ求められた結果、あたしの心は壊れた。
それを“ご主人様”は不快に思ったのか、息を荒くして乱暴にあたしを揺さぶった。あたしの三倍以上はある巨体があたしの身体に重くのしかかる。それでもあたしは浅く吐息を吐くだけだった。
そして、業を煮やした“ご主人様”は言った――――
「せっかく大枚を叩いて買ったエルフだと言うのに、まったく以って身勝手な奴だ……買って貰った“恩”を忘れたのか? ううむ、それなら新しい奴隷を……」
「…………」
「……いや、そうだ! 妙案があるぞ……子を産ませれば良い! 女児を産ませれば新しい奴隷が手に入るではないか……ハハハッ!!」
――――身の毛もよだつ悪魔の一言を。
彼はあたしを孕ませようとしていた。あたしに女児を産ませて、その子をあたしの代わりに“愛玩人形”にしようとしていた。
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
あたしは“死”よりも恐ろしい悪意を目にした。
“ご主人様”はあたしを搾取するだけに飽き足らず、あたしに子を産ませて、その子どもまで毒牙に掛けようとしていたのだった。
「いや……いや、嫌ァ!! なんでそんな悪魔みたいな事が言えるの!? あんたなんて人間じゃない……人間の皮を被った悪魔だ……!!」
「おっ……締まりが良くなった! そうか……これが好みか?」
「あたしを慰め者にして、さんざんに嬲って……そればかりか、あたしから母親になる資格すら奪うの!? 奪わないで……もうあたしから“未来”を奪わないでよォォ!!」
あたしはママのような『母親』になる資格すら奪われそうになった。もし、“ご主人様”の歪んだ欲望を叶えてしまえば、あたしはママのような『母親』にすらなれなくなる。
そう考えた瞬間、あたしは完全に錯乱した。
手脚をバタつかせて抵抗を始めた。
怖い、怖い、怖い、妊娠するのが怖い。
あたしは妊娠する事に恐怖してしまった。
その瞬間、あたしは『母親』になる資格を失った。
何度も“ご主人様”の脂ぎった身体を殴り付けて、その場から逃げようとした。鎖で繋がれている事も忘れて、あたしはベッドの上という“地獄”から逃れようとした。
「そうか……そうか、そうか……妊娠するのが怖いか。ならば、この私が孕ませてやろう……喜びなさい、お前のような下賤の身分の奴隷が子爵である私の子を孕めるのだぞ……!」
「やめて、やめて、やめてったら……ぐっ!?」
「今日は避妊も許さん……私の子を孕むが良い。四分の一とは言え、エルフはエルフ……お前と同じき若く美しい子が産まれるだろう。男なら【死の商人】に売り飛ばすがな……」
「やめで……息が……がっ、あぁぁ……あぁぁ……」
「首を絞めたらさらに締まりが良くなったな……良いぞ、もっと苦しめ、私を悦ばせろ! お前の価値は”性“にしかないとその魂に刻め……愛玩人形がァ!!」
そんなあたしの首輪を体重を掛けた腕で抑えつけて、“ご主人様”はあたしの首を締め出した。
苦しみ、手脚をバタつかせて暴れるあたしを見て加虐心を擽られたのか、“ご主人様”は醜悪な笑みをあたしに向けてきた。
「あっ……がっ……あぁぁ……ぁぁ……!!」
「ほれ、もっと抵抗せんと死ぬぞ……!」
「あっ、あぁ……ぅ、ぁ……ぁぅ…………」
「お前は私の所有物だ、ルチア! ハハハハッ!」
「だ、誰か……助け…………ママ、パパ…………」
意識が朦朧としてくる、目の前が真っ暗になっていく。あたしの存在の全てが”暴力“によって塗り潰されていく。手脚の感覚が無くなっていく、ベッドの上に居る筈なのに深い『闇』の中に沈んでいるような感覚がし始める。
(あたし……死ぬの? こんなあっさりと……良いように辱められて、ママのような母親にもなれずに? こんな気持ち悪い男に何もかも奪われながら死ぬの……?)
「泡を吹いてきたぞ……これは面白い!」
(あたしは……なんの為に生まれてきたの? こんなブタみたいな男を満足させる為に生まれてきたの? 教えてよ、ママ……あたしはいったいなんの為に生まれたの!?)
もう手脚がほとんど動かない、視界には狂った笑みを浮かべる“ご主人様”の顔だけが映る。それがあたしの人生なのかと自問する、そんな死に方で良いのかと逡巡する。
嫌だ、まだ死にたくない。
こんな惨めな死に方は嫌だ。
「あぁ、あぁぁ……あぁぁあああああああッ!!」
生きたい、まだ生きていたい。
もう何も奪われたくない。
最後の力を振り絞って、あたしは最後の抵抗を試みた。ありったけの力で手脚を振り回して暴れた。生きてこの”地獄“から抜け出す為に。
そして、あたしは最後の一線を踏み越えた――――
「やめて……もうやめてぇぇええええええッ!!」
「この、抵抗を……なっ!? がッ、あぁぁ!?」
――――手に掴んだ灰皿で“ご主人様”を殴って。
暴れた拍子にあたしの手元に落ちてきたのだろう、“ご主人様”が愛用している硝子製の大きな灰皿。それであたしは“ご主人様”の側頭部を殴打した。
硝子の灰皿が粉々に砕けてあたしの肌を切った。
殴られた“ご主人様”が血を流して転がっていった。
一瞬の出来事だった、殴られた“ご主人様”は側頭部から血を流しながらあたしの真横でうめき声をあげている。その様子を見て、あたしは意識を朦朧とさせながらも動揺していた。
「き、貴様ぁ……“愛玩人形”の分際で私に何をしたぁぁ!! 身の程を弁えろ……人形風情がァァ!!」
「――――ッ!? あぁぁあああああっ!!?」
「貴族である私に傷を付けた“罪”……その安い命で贖わせてやる! 首輪の電撃で焼き殺してやる!!」
次の瞬間、“ご主人様”は右手で術式を発動し、あたしの首輪に高出力の電撃を流し始めた。首輪から放電を発するほどの電撃が発生してあたしに襲い掛かる。
疲弊し切った身体が壊れていく。
あたしが壊れていく。
もう退路は断たれた、このままだとあたしは“ご主人様”に殺される。それを直感で理解してしまい、あたしの中で『倫理の境界』は壊れた。
「ゔぅ、ゔぅぅぅ……あぁぁああああああっ!!」
「コイツ……電撃に怯んでいないのか……!?」
痛みも感覚も麻痺して、あたしは湧き上がる本能に身を委ねて叫んだ。血反吐を吐きながら咆哮して、魔女のような殺意に満ちた視線で“ご主人様”を睨みつけた。
そして、あたしはベッドの真横のテーブルに置いて在ったフルーツの盛り合わせの中から――――
「あっ、あぁ……がぁぁあああああああっ!!」
「ひっ……やめろ、来るな……来るなぁぁ!!」
――――小さな果物ナイフを手にして“ご主人様”に無我夢中で襲いかかった、あたしという存在を護る為に。
“ご主人様”の胸に果物ナイフを突き立てながら突進して、あたしはそのまま倒れた“ご主人様”に馬乗りになる。
電撃で今にも途切れそうな意識を舌を噛んで繋ぎながら、あたしは刺さった果物ナイフを乱暴に抜いてまた振り上げる。
「ウゥ……アァァアアアアアアアアッ!!」
「うわぁぁ……やめ……痛い!? やめて……」
「アァァ、アァァアアアアアアアアア!!」
「痛い……誰か、助け……殺される……誰か……!」
「アァァ、ウワァァァアアアアアアアア!!」
何度も果物ナイフを振り下ろした、生きたいという衝動に駆られて何度も凶刃を振り下ろした。
寝室内に男女の絶叫が響き渡る。
寝室内に何度も鮮血が舞い散る。
“ご主人様”のうめき声が段々と小さくなっていく。それでもあたしは果物ナイフを振り下ろし続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ……! はぁ、はぁ、はぁ……」
「――――――――」
「はぁ、はぁ、はぁ……あっ……えっ……?」
我に返った時、あたしは“ご主人様”の死体に跨がっていた。あたしの身体は返り血に塗れていた。“ご主人様”は息絶えていた。
身体には数え切れないほどの刺し傷があった。
全部、あたしが刺した傷だった。
手には真っ赤に染まった果物ナイフが握られていた。相当に刺したのか、刃はボロボロに溢れていた。
「あたしが……殺したの……?」
生きたくて必死だった。その結果、あたしは“殺人”を犯してしまった。あたしは“ご主人様”をこの手で殺してしまっていた。
その事に気が付いた瞬間、あたしは思考が凍り付いた。ただ呆然と果物ナイフを見つけていた。
『いい、ルチアちゃん……何があっても、絶対に他の人を傷付けては駄目よ。ママとの約束……みんな仲良く、手を取り合って助け合うの……オッケー?』
頭の中にママの声が木霊した。他の人を傷付けてはならないとあたしにキツく言いつけた母の教えが響き渡った。
今さら響いても手遅れだった。
あたしはママの教えを破ってしまった。
あたしはこの手で人を殺してしまった。ママとの約束を破ってしまった。あたしは“罪人”だ、許されない。
「あっ……あは……あははは……あはははははは!」
自分の“罪”を自覚した瞬間、あたしの中で何かが壊れた。もうあたしは『美しい世界』には戻れない……完全に『醜い世界』に染まり切ってしまった。
「あはは、あははは……キャハハハハハ!! ザマァ見ろ、うすぎたねぇブタ野郎が!! あたしを食いものにした“罰”だ! 死ね、死ね、死んじゃえ……キャハハ、キャハハハハハハハッ!!」
ケラケラとあたしは笑った、あたしに殺された雑魚を嘲笑った。涙を流しながらあたしは叫んだ。
そうだ、あたしは悪くない。
あたしを買ったコイツが悪いんだ。
それが、あたしの始まり。“朱の魔女”と呼ばれたあたしが完全に『闇』に染まりきった日の出来事。
――――ママが愛した『あたし』は、その日死んだ。
 




