ヘキサグラムの記憶⑬:女神に見捨てられた教会で
「あ~……雨って退屈……。じめじめしてるし……」
「天気に文句言ってもしょうがないよ、ルチアちゃん」
――――あたしが15歳を間近に迎えたある冬の日の夜、あたしの運命が“理不尽”に壊された日。その日は雷鳴を伴う雨が朝から降り続いていた。
あたし達は朝から教会の雨漏りの修繕に追われていた。元々打ち捨てられた教会をママが再利用して間借りしている場所だ、雨漏りの一つや二つ在って然るべきだとラナは言う。
「ママの結界で雨は防げないの……?」
「ティオ様の結界は魔物が教会にやって来ない“魔除け”の為の結界であって、便利な障壁なんかじゃないよ、ルチアちゃん……」
「うっさいわね……んなもん知ってるし!」
「なら贅沢言わないのです。ティオ様が教会を魔物から守ってくれているからこそ、私たちは安全に生きられるのですから」
「あたしが言いたいのはそう言う事じゃ……」
「今、ティオ様と下の子たちが晩御飯の用意をしてくれてます。その間に私たちは礼拝堂の修繕を続けますよ。自分たちの『家』は自分たちの手で守らないと!」
あたしはラナ、それと四人の子ども達と一緒に礼拝堂を掃除していた。軋んだ壁が風雨に煽られてガタガタと音を鳴らし、燭台の僅かな光源だけが頼りの薄暗い礼拝堂を時折、稲妻の閃光が照らす。
窓から閃光が差し込んだ数秒後、教会にけたたましい雷鳴が轟き、その度にあたしの気持ちをざわめかせていく。
(なんだろう……この胸騒ぎ? なにかすごく嫌な予感がする……嫌だな、吐きそう。早く晩御飯を食べてお風呂に入って、ママと一緒に寝たい……)
なにか得体の知れない存在が近付いて来ているような気がした。あたし達の『居場所』を奪うような、壊すようなナニカが迫っているような気がした。
一緒に女神像を掃除するラナや、床に滴った雨水を拭き取っている子ども達は感じてはいない。時折鳴り響く稲妻の音に黄色い声をあげているだけだ。
そんな不穏な不安に苛まれていた時だった――――
「……! 誰かが教会の扉を叩いている?」
「こんな日も暮れる時間に……誰よ一体?」
――――教会の扉を誰かが叩く音がした。
コンコン、コンコンと何者かがあたし達の居る礼拝堂へと続く扉をノックしている。扉の向こう側からは何者かの気配を感じる。
魔物ではないのは確実、ママの結界に阻まれて魔物は教会には近付けない。それに扉をノックしている以上、何者かは人間の可能性が極めて高かった。
「もしかしたら……この雷雨から逃げてきた人かも! ルチアおねーちゃん、ラナおねーちゃん、開けてあげようよ!」
「ちょっと待ちなさい。先にママに報告を……」
「けどお外は雨が降ってるよ。そんな場所にいつまでも置き去りにしてたら、お外に居る人が風邪引いちゃうよ! 先に入れてあげようよ、おねーちゃん!」
この教会に来訪者が現れたのは、あたしが記憶する分には初めてだった。そもそも、この教会の周囲には何も無い、近場の街との距離も大きく離れ、周囲には冒険者御用達の狩り場も迷宮の類も存在していない。
加えて、当時のあたし達には致命的な弱点があった。
それは教会育ちが故に『悪』を知らなかったこと。
その場にいた全員が扉をノックする人を『困っている人』だと信じて疑わなかった。ママが教える『美しい世界』しか知らないあたし達は訪問者の“正体”が判別できなかった。
「どうしよう、ルチアちゃん……?」
「とりあえずママに報告しなきゃ……」
子ども達は来訪者を教会に入れてあげようと言っているが、妙な不安を覚えていたあたしは先にママに相談しようと思っていた。
日和っているのはあたしの方だ。
みんな『優しさ』で他者を救おうとしている。
あたしはお人好しなママの娘なのに、誰よりもママの精神を体現できていなかった。その事に気が付いた瞬間、あたしは自分が恥ずかしくなった。
「入れてあげよう! 待っててね〜!」
「ラナ……あたしママに報せてくる。ラナはなにかあったら対処できるように此処に残ってて……」
「う、うん……分かった、ルチアちゃん……」
扉の近くに居た子ども達が我先にと扉へと駆け寄って行く。その光景をあたしは黙って見てる事しか出来なかった。
あたしはママのような聖母にはなれない。
あたしはどうしようもないぐらいに悲観的だった。
だからあたしはラナに対処を任せて、礼拝堂を後にしてキッチンに居るママを呼ぼうとした。扉へと向かって歩きだしたラナを見送り、踵を返して歩き出そうとした。
次の瞬間だった、あたしの背後で――――
「えっ……誰? ゆ、幽霊……!?」
「待って……全員、扉から離れなさ――――」
――――子ども達の悲鳴が聴こえた。
後ろを振り返ったあたしは目撃した。紫色に輝く火焔を食らって吹っ飛ぶラナの姿と、火焔に灼かれて倒れた子ども達の姿を。
「ウッ、ウゥゥ……感ジル、我ガ血族ノ気配ヲ……」
そして、雷光と共に現れた不気味な来訪者、開かれた扉の向こう側から現れた朱い髪をした亡霊の悍ましい姿だった。
朱い髪は地面を擦る程に伸び、前髪で隠れた顔からは金色の瞳がギョロリとあたしを睨みつける。服装はボロボロの白い布切れ、裸足のまま礼拝堂の床を踏みしめて、血塗れの白く華奢な腕からは怨嗟の声をあげる紫色の焔が燃え盛っている。
「誰なのよあんた! よくもあたしの家族を!!」
朱い髪の亡霊は扉が開かれると同時に紫色の火焔を放ち、幼い子ども達を庇おうとしたラナが火焔に襲われて倒された。顔に焔を受けたのだろうか、ラナは顔に酷い火傷を負っていた。
特に右眼が酷いことになっている、いまだに小さな焔が燻ったように燃えている。大切な家族が傷付けられた光景を目の当たりにして、あたしは激昂せずにはいられなかった。
「先ズハ一人……“刻印”ハ刻ンダ……」
「あたしの『家』に入って来んな、化け物!!」
気が付いた時には、あたしは右の太腿に装備していた護身用の短剣を手にして朱い髪の亡霊に向かって走り出していた。
許せなかった、あたしの家族を傷付けられた事が。
怖くなっった、あたしの『世界』が壊れる事が。
朱い髪の亡霊は明確な“悪意”を持って教会を襲撃している。初めて“悪意”に触れるのに、あたしはそれを直感で理解して脅威を排除しようとしていた。
だけど、そんなあたしの激情は――――
「あたしの『世界』から出て行……えっ?」
「フフッ……今ノ私ニハ効カズ……」
「刃先がすり抜け……きゃあッ!?」
――――朱い髪の亡霊には通じなかった。
朱い髪の亡霊の胸元に突き立てようと振り下ろした短剣の刃先は亡霊の身体をすり抜けてしまい、そのままあたしは朱い髪の亡霊によって首根っこを掴まれて拘束されてしまった。
「ぐっ……は、離せぇぇ……!!」
「コノ魔力……私ニ似テイル? ヨモヤ……」
振り解こうと藻掻いても朱い髪の亡霊の腕力を振り解けず、万力のような握力に気道を締められたまま、あたしは宙吊りにされてしまった。
息ができない、足も地面につかない。
意識が遠くなる、“死”が迫ってくる。
持ち上げられたあたしが苦しみながら目撃したのは、朱い髪の亡霊が放った紫色の焔が礼拝堂に広がっていく光景。そして、倒れた子ども達が焔に灼かれて死んでいく光景だった。
「あっ、あぁぁ……やめ、やめて……」
「フン……ヤハリ人間ノ童ノ“魂”ヲ喰ッテモ腹ノ足シニハナラナイカ……。シカシ、我ガ血肉ヲ分ケタ“器”サエ手二入レバ……!」
「壊さないで……あたしの『世界』を……」
「クククッ……感謝スルゾ、アラヤ=ミコト……私ハ漸ク復活デキル。三百年ノ復讐ヲ果タスベク……“嫉妬ノ魔王”インヴィディアガ蘇ルゾ!」
「お願い……やめてよ……やめてってば……!!」
あたしには何も出来なかった。呆気なく捕まり、大切な家族が殺されていく光景を目の当たりにするしか出来なかった。
あたしの『世界』が理不尽に壊れる。
あたしの『美しい世界』が崩れていく。
やめてと懇願しても朱い髪の亡霊は教会を、子ども達を殺すのをやめない。礼拝堂に置かれた女神像が燃えていく光景をギョロリとした金色の瞳で見つけて、下卑た笑みを浮かべている。
女神像は焔に灼かれて崩れていく。
もう、この教会には女神の加護は届かない。
女神アーカーシャはあたし達を見捨てた。燃え盛る教会に無力なあたしは取り残さた。燃え盛る“魔女”と一緒に。なのに女神様は沈黙して、この『現実』から目を逸らした。
「なんで……こんな酷い事をするの……」
「ソレハナ……“復讐”ダヨ、我ガ縁者ヨ。我ガ“嫉妬”ハ『世界』ヲ妬キ尽クスノダ。フフフッ、折角ダ……貴様ニモ我ガ“刻印”ヲクレテヤロウ。私ト同ジ怨嗟二悶エルガ善イ……」
「やめて、やめ……ッ!? あぁぁああああッ!!?」
そして、礼拝堂を紫色の焔で包み込んで満足したのか、朱い髪の亡霊は次はあたしに向かって笑みを浮かべて燃え盛る左手をあたしの胸に押し当ててきた。
灼熱の焔があたしの身体を灼いていく。
あたしはただ激痛に悶え叫ぶしかできない。
朱い髪の亡霊の悍ましい魔力があたしに流れ込んでいく。穢れを知らずに生きてきた筈のあたしが“悪意”に晒されていく。
熱い、熱い、熱い、身体が灼けていく。
痛い、痛い、痛い、あたしが壊れていく。
あたしには抵抗する手段も、体力も残されていない。手にしていた筈の短剣は足下に落ちて、必死に振り回した手脚は朱い髪の亡霊を虚しくすり抜けていく。
「助けて……ママ、ママぁぁあああああッ!!」
「ソウダ、呼べ……聖女ヲ! 我ガ“器”ヲ!!」
あたしには助けを求めて泣き叫ぶ事しか出来なかった。あたしは“死”に怯えながら必死にママを呼ぶ、それを朱い髪の亡霊も望んでいると理解しながら。
そして、そんなあたしの声に誘われて――――
「わたしの娘から手を……離しなさいッ!!」
「コノ魔力……間違イナイ、我ガ娘……グッ!?」
――――ママが死地にその姿を晒したのだった。
怒りに満ちたママの声が礼拝堂に響いた瞬間、背後から放たれた眩い光の閃光があたしと朱い髪の亡霊を貫き、朱い髪の亡霊だけを吹き飛ばした。
解放されたあたしは床にへと落ちていく。
そんなあたしを優しい腕が受け止めてくれた。
ふと見上げれば、そこにはあたしを抱きかかえるママの姿があった。目の前に広がる惨劇に涙を滲ませながら、ママは鋭い眼光で朱い髪の亡霊を睨みつけている。
「待ッテイタゾ……我ガ“器”ヨ……!!」
「よくもわたしの家族を……絶対に許さない!!」
その日、あたしの『美しい世界』に終焉がやって来た。紫色に輝く“嫉妬の焔”を携えて、’“嫉妬の魔王”インヴィディアがあたしの大事なものを奪いに来たのだった。




