ヘキサグラムの記憶⑩:約束
「サジタリウスさん、用意は良いですか?」
「いつでも行けます、リヒターさん……!」
――――デア・ウテルス大聖堂外周防壁、時刻は深夜。身籠ったティオを聖都から逃がすべく、私とサジタリウスⅩⅠは大聖堂の中で最も警備が手薄である外周防壁の内側に足を運んでいた。
日は完全に沈み、天候は猛吹雪、視界は十メートル先も禄に視認できない程だ。聖堂騎士団に気取られずに逃げるにはうってつけのシチュエーションだった。
「ティオは体調不良で私室に籠もっている……と、私がギリギリまで失踪の情報を伏せます。加えて、審問官たちの動きもなるべく撹乱します。そうすれば、最低でも一日は時間を稼げるでしょう……」
「その間に……僕たちは聖都を抜けて、旅人に扮して港で定期船に乗り込む。任せてください、リヒターさん……必ずティオ様を例の教会まで連れて行きます」
「頼みます、サジタリウスさん……」
「デア・ウテルス大聖堂の外周警備……今日は僕とリブラだった筈だ。つまり、今の大聖堂の守りは僕が抜けた分、手薄になっている筈だ。リブラとさえ鉢合わせなければ上手く大聖堂からは抜けれるでしょう」
ティオとサジタリウスⅩⅠは旅人用の外套を羽織り、フードで顔を隠している。荷物はサジタリウスⅩⅠが手にしたトランクに収まるだけ、ほぼ着の身着のままの状態だ。
このまま二人は吹雪に乗じて大聖堂を抜け出し、聖都デオ・ヴォレンテに布陣した聖堂騎士団を躱して港まで向かい、そこから各地に出ている定期船に乗り込んで行方を暗ます。私はデア・ウテルス大聖堂に残り、ティオたちが脱走した情報や痕跡をできる限り隠蔽する。
「リヒターさん……」
「ティオ……大丈夫ですよ、私があなたに施した“封印”があれば、如何に女神アーカーシャ様と言えどあなたには意識を降ろせない……それはすでに実証済みでしょう」
「それはそうですが……それでも不安で……」
「アーカーシャ教団の中にあなたが身籠った事を知っている者は居ません……私以外は。だから安心してください……私たちの子どもは誰の手にも渡しません」
加えて、私はティオに自らの術式で幾つもの“封印”を施した。女神アーカーシャの降臨によってティオの五感が共有され、彼女たちの居場所が悟られないようにする為だ。
それでもティオは不安がっている。
私と離れ離れになるのが不安なのだろう。
だけど、アーカーシャ教団に残るのは私の使命だ。誰かが教団に残って真実を隠さねば、誰かが“汚れ役”をしなければ神から聖女を奪うことは叶わない。
「ティオ……愛しています。いつか必ず、あなた達を迎えに行きます。だから待っていてください……約束の場所で」
「…………っ」
「何年掛かっても、何十年掛かっても……必ずあなたに“自由”を取り戻します。そして、いつか赦される日が来るのなら……家族三人で静かに暮らしましょう」
吹雪が降り注ぎ、真夜中の極寒が体温を容赦なく奪う中で、私はティオの手を握ってお互いの体温と感情を交換し合う。長い別れの前に、お互いの存在を強く“魂”に刻み込むように。
「ティオ、あなたは私の“光”だ……あなたが生きている限り、私はどんな“闇”の中でも希望を抱いて生きていける。生まれてくる子どものこと、よろしく頼みます……」
「はい……分かっています」
「私は……あなたから聖女としての生き方を奪ってしまった。これからも、あなたは身を隠して生きていかざるを得ない……そうしてしまい、本当に申し訳ございません……」
ティオの手を握り、彼女の美しい金色の瞳を見つめた時、私は自分のしでかした“罪”を深く後悔してしまった。
神の所有物であるティオを愛してしまい、禁断の愛の果てに彼女を身籠らせた事を。私はただ悔いるように懺悔していた。
「リヒターさん……わたしはあなたを愛しています。あなたと結ばれて、この子を授かった事は……聖女として生きるよりも嬉しい事です」
「ティオ……」
「待っています……ずっと待っています。あなたが迎えに来てくれる事を。ずっとずっと待っています……この子と一緒に。だから……だから、わたし……どんな困難が待ち構えていてもへっちゃらです♪」
そんな私の手を優しく握り返して、ティオは流した涙でぐしゃぐしゃになった顔で精一杯はにかんでくれた。私を心配させないように、私の犯した“罪”を赦すように。
そして、私たちは最後に唇を重ね合わせ――――
「さようなら、ティオ……愛しき我が妻よ」
「さようなら、リヒターさん……愛しき我が夫よ」
――――名残り惜しそうにその手を離した。
不安はなかった、サジタリウスⅩⅠなら必ずやティオを逃がしてくれるだろうという確信があった。グランティアーゼ王国の辺境に忘れ去られたように建つ廃教会、そこならきっと誰にも見つからない。
「ティオ様……そろそろ行きますよ……」
「はい、よろしくお願いします、サジタリウスくん」
「サジタリウスさん、どうかティオの事を頼みます」
「言われなくても……それとリヒターさん、ありがとうございます。あなたが提案してくれた名前、とても気に入りました。ウィル=サジタリウス……新しい僕にぴったりの名前だ」
「気に入ってくれたらのなら、なにより……」
「僕は僕の生き方を見つけます……だからこれでお別れです、リヒターさん。ああ、それと……幾つか頂いた僕の推薦状、ありがたく使わせて貰います」
ティオを任せられたサジタリウスⅩⅠが笑顔で挨拶をして、出発の準備をし始める。ティオの手を優しく掴んで、ティオも彼の手を掴み返して、ゆっくりと歩き始めていく。
私の愛した聖女が吹雪の闇に紛れていく。
名残り惜しそうに私を見つめ続けながら。
そんな愛情深い彼女だからこそ、そんな彼女との間に授かった子どもだからこそ、私は護りたかった。だから寂しくはあれど、後悔は無かった。
「ティオ……最後に教えてください! 生まれてくる子どもの……名前は考えていますか? 私には良い名前が思い付かなかった……」
「もう子どもの名前なら決めています……昔、エリスさんが考えてくれた素敵な名前が。男の子ならルシアン、女の子ならルチア……それがわたし達の子どもの名前です」
「ルシアンかルチア……良い名前ですね」
「産まれたら手紙を送ります! だから楽しみに待っていてください……そしていつか絶対に迎えに来て、この子の事を抱きしめてあげてくださいね!」
そして、吹雪をかき分けるように最後に子どもの名前を伝えて、私の最愛の妻ティオ=ヘキサグラムはデア・ウテルス大聖堂から去っていった。
私は再び『闇』の中へと戻っていった。
けど、ティオという“光”が私を導いてくれる。
彼女と繋がった、愛の結晶を授かった今なら言える――――『世界は美しい』と。私という罪人はティオという聖女と出逢い、漸くこの『世界』に存在意義を見出す事ができたのだった。
「ティオ、いつか必ず……迎えに行きます」
それが私、リヒター=ヘキサグラムが聖女ティオとの逢瀬の中で見出した“答え”だった。




