ヘキサグラムの記憶⑨:血の味
「他の光導騎士は……よし、居ませんね……」
――――私室を飛び出した私が向かった先はデア・ウテルス大聖堂の中で最も血生臭い場所、聖堂騎士団の宿舎だった。その中でもさらに特別な場所、十二人の精鋭『光導十二聖座』の居住区画に足を運んでいた。
そこは選ばれし十二人の騎士が寝食を共にする場所だが現在は日中、殆どの光導騎士たちは任務でデア・ウテルス大聖堂か聖都デオ・ヴォレンテの警備に当たっている。
今、この宿舎に居るのはただ一人――――
「失礼します……入りますよ、サジタリウスさん」
「はぁ……はぁ……っ! リヒター……さん……」
――――サジタリウスⅩⅠだけだ。
光導騎士たちの宿舎に足を踏み入れた私が目撃したのは、談話室を無茶苦茶に破壊して怒り狂うサジタリウスⅩⅠの姿だった。
朝、私との会話で記憶の改竄に気が付いてしまった彼は休むことなくただ暴れていたのだろう。光導騎士たちが語らう部屋は荒らされ、ソファやテーブルがぐちゃぐちゃの状態で散乱していた。
「何の用ですか……? 僕は今、虫の居所が悪い」
「ええ、見れば分かります……」
「分かっているなら放って置いてくれないかなァ!! 頭が痛い……すごく頭が痛いんだ。だからさぁ……今日は放って置いてくれないかな……リヒターさん」
「そう言う訳にはいきません……平にご容赦を」
サジタリウスⅩⅠは仮面越しに私に殺意の籠もった視線を向けている。私が不用意に記憶の“封印”を紐解いたばかりに、彼は錯乱状態に陥ってしまったらしい。
「思い出せない……家族の事が何も思い出せないんだ。思い出せるのは此の大聖堂での日々だけ……まるで最初から僕の人生は大聖堂にしか存在しないような感覚だ。うぅ……気持ち悪い」
「…………」
「リヒターさん……貴方のせいだ!! 貴方が僕に余計な事を教えたせいで……僕は気付かない方が良かった事に気が付いてしまった! どうしてくれるんだ……僕はもう、この大聖堂の人間を誰も信じられなくなった」
一度『記憶』の改竄を認識してしまった以上、サジタリウスⅩⅠはもうアーカーシャ教団への“疑念”を払拭出来なくなっていた。自暴自棄になって談話室を荒らしたのはそれが原因だ。
彼の言う通り、これは私の責任だ。
私が不用意に『闇』に踏み込んでしまった。
サジタリウスⅩⅠから見れば、アーカーシャ教団の誰かが記憶を改竄した、だけど犯人は誰も分からない、だから誰も信用できないような状態だ。
「ええ、信用できませんね……この大聖堂は“嘘”が蔓延している、まるで私たちを蝕む病理のように。私たちは気が付いてしまった……誰もが目を背ける“現実”に」
「それで……貴方はどうなんですか、リヒターさん?」
「ええ、私も“嘘”に塗れています……私は空虚で不完全な存在だ。だけど、私は真実に気が付いてしまった……だから戦わねばならぬのです」
「それが僕を訪ねた理由ですか……?」
「私の不用意な発言が原因ですが……貴方は真実と向き合う準備ができた。サジタリウスさん、どうか……私の我が儘な贖罪に付き合ってはいただけないでしょうか……」
私のほんの僅かな好奇心がサジタリウスⅩⅠを惑わせてしまった。だけど同時に、彼はアーカーシャ教団に対して不信感を募らせていた。
私は“賭け”に出ることにした。
負ければ破滅一直線の大博打だ。
散らばった家具を避けながら私はサジタリウスⅩⅠの元へと歩み寄り、そして彼の目の前に立った。息を乱すサジタリウスⅩⅠから怒り、混乱、殺気といった感情が私に向けられる。
「正直にお話します……サジタリウスさん、ティオ=インヴィーズをこのデア・ウテルス大聖堂から逃がしては貰えないでしょうか。今、私と彼女は理由あって危機に瀕している……どうか助けては頂けないでしょうか」
「ティオ様が……!? いったい何が……」
「ティオは……妊娠しています、私との子を。このままでは我々はアーカーシャ教団の禁忌を破った咎人として裁かれてしまう。だから、そうなる前に……妻と子どもだけでも助けて欲しいのです!」
「えっ……? ティオ様が……妊娠……?」
だが、私が真実を何もかも洗いざらい告げた瞬間、サジタリウスⅩⅠから発せられる感情は混乱と動揺のみになってしまった。
女神アーカーシャの“所有物”である筈の聖女ティオ=インヴィーズが身籠り、孕ませた相手である私が急に『聖女を逃がして欲しい』と言ってきたのだ。動揺するのは必然だろう。
「なっ……なにを言っているんだ? それは……」
「真実です。私とティオは……愛を誓い合った夫婦です」
「――――ッ! そんな……馬鹿か貴方はッ!! 聖女であらせられるティオ様を娶ったばかりか身籠らせたのか!? なにを考えているんだ、この裏切り者がッ!!」
「――――ッ!? つぅっ……」
ティオの身に起きた真実を知った瞬間、サジタリウスⅩⅠは私の胸ぐらを掴んで、同時に右手で私の頬を全力で殴りつけてきた。
頬を殴られた私はそのままぶっ飛ばされて、後方に在ったテーブルに倒れ込んだ。私が倒れ込んだ拍子に木製のテーブルが真っ二つに折れ、天板に置かれていたティーカップなどが床に散乱する。
「見損なったぞ、リヒターさん……ティオ様に拾われて改心して、真面目に働いていると思っていたのに! この事実が表に出れば貴方は裁かれる……貴方だけじゃない、ティオ様にも重い処罰が下される……」
「知っています……だからあなたを頼ったのです」
「貴方は……僕まで巻き込むつもりか! ふざけるな!! 貴方は自分の独善の為にティオ様と僕の人生を無茶苦茶にするつもりか!? 何様のつもりだ……!!」
談話室にサジタリウスⅩⅠの怒号が響き渡り、頬がズキズキと痛む。殴られた際に切った唇から血が滲み、口内に血の味が広がっていく。
サジタリウスⅩⅠの反応は至極真っ当だ。
それだけの大罪を私は犯してしまった。
そして、私は愛する妻と子を護る為に、サジタリウスⅩⅠの人生まで狂わせようとしている。あまりにも罪深い、殴られた程度などまだまだ甘いぐらいだ。
「私は……ティオと生まれてくる子どもを護りたい。だけど……私だけでは教団からティオを逃がし切ることは困難だ。だから……貴方の力を貸して頂けないでしょうか、サジタリウスさん。私には……他に頼れる人が居ない」
「僕に囮になれと……?」
「いいえ、囮になるのは私です。サジタリウスさん、貴方にはティオをこのデア・ウテルス大聖堂から連れ出して欲しいのです」
「――――ッ! 僕が……ティオ様を……」
「私の術式ならティオの逃走の痕跡を隠す事ができる。私はこのまま教団に留まって、内部から情報操作を行なってティオが安全に逃げ切れるように工作を施します」
「それで……僕に何の得があると言うんだ……?」
「貴方の痕跡も隠します……貴方の人生を大きく変えてしまう責任は負います。だからどうか……ティオを助けてください!! お願いします、お願いします……!!」
私は額を床に擦りつけてサジタリウスⅩⅠに必死にティオの救助を嘆願していた。
なりふりなんて構ってはいられない、どんな代償を払ってでも救いたい、その想いだけで私は頭を垂れていた。
「…………ティオ様の子どもの存在が教皇ヴェーダ様に知られれば、きっとその子どもは取り上げられてアーカーシャ教団の“所有物”とされてしまうだろう。どうなるかなんて容易に想像がつく……」
「だから救いたい……お願いします、助けてください」
「…………リヒターさん、貴方はクズだ。教団の意向に従わず、ティオ様とお腹の子を救いたいと宣って無様に足掻いている。そのせいでティオ様は人生を無茶苦茶にされた……挙句、僕まで共犯者にしようとしている」
「裁きは受けます。悪いのは全て、この私です」
サジタリウスⅩⅠの冷ややかな視線が突き刺さる。彼の言う通り、私は無様に足掻く人でなしのクズなのだろう。
だけど、救いようのないクズだとしても愛する家族だけは護りたい。その感情にだけはどうしても嘘をつきたくはなかった。だからプライドも保身も何もかも捨てて、私はサジタリウスⅩⅠに救いを乞い続けた。
「僕は……ティオ様を敬愛している。彼女ほど誠実な方は存在していない……だから、このままティオ様が貴方のせいで破滅するのは見たくない」
「お願いします……ティオを助けてください……」
「…………はぁ、分かりました。ティオ様を大聖堂から連れ出します。貴方がしでかした“罪”の尻拭いだけはしてあげます、リヒターさん」
「――――ッ! 本当ですか!?」
「あくまでもティオ様の為です。貴方は自分のした“罪”に相応しい“罰”を受けろ。その代わり、僕がティオ様を安全な場所まで逃がす……どうせ僕も教団には不信感を抱いてしまった。もう大聖堂に居るのは苦しいだけだと思うから……」
「あ、ありがとうございます……!!」
そして、私の嘆願に渋々ではあるが、サジタリウスⅩⅠはため息交じりにティオを逃がす協力をしてくれる事を了承してくれた。
あくまでも敬愛するティオの為にと。
私は相応しい“罰”を受けろと彼は言う。
けれど、それでもティオと子どもの未来に一筋の“希望”が見えた事で私は心の底から安堵できた。愛する家族の命を護れるかも知れないという感情が私を歓喜させていた。
「決行は何時ですか……猶予は殆ど無いでしょう?」
「時間の猶予はあまり……」
「なら……今日の夜に決行しましょう。聖堂騎士団の動向は僕なら把握できる……僕なら目をかい潜ってティオ様を連れて行ける筈だ」
「なら、私は最後の仕込みの準備を……」
「約束します……ティオ様とお腹の子どもは僕が必ず守ります。だからリヒターさんは……リヒターさんにしかできない事でティオ様をお守りしてください」
「ええ、ええ……! もちろんそのつもりです!」
ティオとサジタリウスⅩⅠの『体調不良』という“手札”が切れるのは今日しかない。故に決行は今日の夜になった。
こうして、ティオと子どもを護るための戦いが、私の贖罪が。サジタリウスⅩⅠという共犯者の協力を得て、静かに始まろうとしていたのだった。




