ヘキサグラムの記憶⑧:未来福音
「はい……分かりました。ティオ様の体調不良については、私から教皇ヴェーダ様にご報告します。ヘキサグラムさんはティオ様の看病をお願いします」
「お願いします、リブラさん……」
――――ティオの妊娠が発覚した直後、私は彼女を私室へと連れ帰り、今日の公務を休ませる旨をリブラⅠⅩ経由で教皇ヴェーダへと伝えた。
「ティオ、大丈夫ですか?」
「うっ……」
しかし、ティオの不調を装って凌げるのは今日だけだ。私たちが抱える問題は山積みになっている。
妊娠の初期症状だろうか、ソファに横たわったティオは苦しそうにしている。苦しみティオを視界に収めるようにして私は椅子に腰掛け、頭を抱えていた。
(子どもの話は散々話し合った……ティオは子どもを欲しがっていた。妊娠はいずれは通る道だった……しかし時期が悪い。避妊は怠っていなかったが不十分だったか? いや、保身を考えている場合ではない! このままでは教皇ヴェーダはおろか教団に私たちの関係が……)
私とティオが“夫婦”を演じているのは幾らでも隠し通せる。だが妊娠となれば話は別、如何に隠蔽工作を仕掛けようがティオの妊娠は露見してしまうだろう。
(過去、アーカーシャ教団に在籍した聖女・聖人が子を成した記録は当然だが残っていない。彼女たちは等しく女神アーカーシャの“所有物”……余人が手を触れていい存在ではないからだ。つまり、ティオの妊娠は前代未聞……女神アーカーシャがどのような裁定を下すかは未知数だ)
もし露見すれば私とティオには重い処罰が下されるだろう。しかし、私たちの処罰はまだ納得ができる。問題はティオが身籠った子どもの処遇についてだ。
母体のティオごと消されて闇に葬られるか。
それなら可哀想だがまだマシだ。
私が最も恐れているのは、私たちの子どもが取り上げられてティオの身代わりとして教団に利用されるという末路だった。
(アーカーシャ教団はティオやサジタリウスたちを誘拐し、過去を抹消した上で“駒”として利用している。もし、生まれた子どもが私たちから引き離され、教団の“駒”にされたら……)
私はアーカーシャ教団が行なっている“欺瞞”に気が付いてしまった。だから、生まれてくる子どもが無条件で祝福されない事を察してしまった。
私は不安で仕方がなかった。
生まれてくる子の将来が不安だった。
このままアーカーシャ教団の下でティオが出産しても、生まれた子がまともに扱われる可能性は極めて低い。
聖人・聖女は女神アーカーシャの所有物でなければならない、そんな戒律の中で生まれた聖女の子どもの行く末がろくでもないのは容易に想像できる。
「リ、リヒターさん……わたし……」
「ティオ……まだ起きてはいけません!」
「ごめんなさい……わたしが避妊を徹底しなかったから……リヒターさんに負担を掛けてしまいました。ごめんなさい……わたしのせいで……」
「なにを言っているのですか……身体を痛めているのはティオの方ではありませんか……」
「だけど……わたしが妊娠したせいで……」
おそらくはティオも同じ危機感を抱いていた。気怠い身体を無理やり起こしたティオは私に対して……そして、お腹の子に対して懺悔をしていた。
お腹を撫でて、胎の中で脈動する子どもに対してティオは申し訳なさそうな表情をしている。
私たちには“選択肢”が一つある。
それは堕胎して妊娠を無かった事にすること。
そうすれば私たちの関係はまだ隠し通せる。ティオの不調の理由など後から幾らでも見繕える。
ティオはきっと私と同じ“選択肢”を考えているのだろう。今は仕方がない、子どもはいつかの機会にと……割り切ろうとしている。
(だけど……それは“両親”の都合だ。生まれてくる子どもに何の“罪”が在ると言うのか? 私たちは……自分たちの自己保身の為に無垢な赤子に手を掛けるのか?)
けれど、その“選択肢”は親の身勝手な選択だ。お腹の子には“罪”は無い。なのに、関係の露見を恐れた私たちが子どもを死なせるなどあってはならぬ傲慢だ。
その選択は“神”の暴虐にも等しい。
選べば私たちは同じ畜生に堕ちる。
一抹の不安はある、かつて数多の人間を殺害した罪深き私に、果たして新たな生命を育くむ『資格』は在るのだろうか。いいや、たとえ資格が無くとも私は成らねばならない。
だから、私は不安がるティオの手を取って――――
「ティオ……この子に“罪”はありません。産んであげて下さい……“父親と母親”が祝福せず、誰がこの子の未来を祝福するのですか……」
「リヒター……さん……」
「私が護ります、あなたと子どもを必ず護ります。だからどうか……私たちの子に祝福を。罪深き私が……親になる事をどうか赦してください……」
――――“親”になる覚悟を決めた。
きっと『世界』は、『神』は私を赦してくれないのかも知れない。それでも、生まれてくる子には祝福が、そして両親が必要だ。
私は“親”に成らねばならない
たとえ誰からも望まれなくても。
それが愛する妻を身籠らせた私の責任であるならば、私自身の“罪”を問うている暇は無い。私は生まれてくる子を護らねばならない、それが父親としての責務ならば。
「ティオ、教団から逃げましょう……決断の時だ」
「リヒターさん……」
「この日の為に準備は進めてきました……あと少し、あとは後詰めをすれば全ての準備が整う。一緒に家族になって、神の眼すら届かぬ場所で子どもを育てましょう……」
「うっ、うぅぅ……」
「愛しています、ティオ……そして我が子よ」
私はティオをアーカーシャ教団から逃がす事を決意した。愛する妻と生まれてくる愛しい我が子の為に、私は女神アーカーシャと敵対する事を決意した。
すでに逃走の為の準備は整えつつある。
あとは最後の“欠片”を埋めるだけだ。
不安がるティオを落ち着かせるように口付けをして、ティオを再び寝かし付けた私は私室を後にして大聖堂を駆け始めてた。
(ただ二人で逃避行を続けても、いずれは審問官に捕捉されて追いつかれる。協力者が必要だ……私たちの足跡を消す、いいえ……ティオを安全な場所まで逃がす“騎士”が! そして、私たちに協力してくれそうなのは……アーカーシャ教団に懐疑心を抱く者……つまり!)
もはや残された猶予は少ない、私は“親”になる為の行動を開始した。ティオの脱走を手助けする為の協力者を見繕うべく、私は私室に居るであろう“彼”の下へと駆けていく。
それは、罪深き殺人鬼である私が始めて“生命”を護るべく起こした決死の反逆、生まれくる子どもの“未来”を護るべく起こした『贖罪』の始まりだった。




