狐面の少年
いつからだったか。朝起きて、仕事をして、家路につき、帰るという何の変哲もない毎日を、じっと誰かに見られているような気がするようになった。
べったりと背中に張り付くような視線は、窓にカーテンを引いても途切れることはなく、いつ、どこにいても、何時であっても俺をじっと見つめているのだ。
もちろん、俺を監視する目を見たわけじゃない。どんな奴が見たとか、どこから見ているのかも検討すらつかない。
もしかしたら部屋の中に監視カメラでもしかけてあるのかもしれないと思い、機械に詳しい友人の手を借りて、それらしい所を調べたこともあった。
しかし、結果は変わらず。友人には自意識過剰だと鼻で笑われていいことがひとつも無い。
仕事は毎日積み重なり、自分を慰めてくれる可愛い彼女もおらず、気の許せる血縁は遠い田舎町だ。
今日も、粘り着くような嫌な視線が俺にまとわりついている。ぞくりと、気持ちの悪いものを感じて、気を紛らわすためにテレビのリモコンを探したが、今朝出勤の時に蹴飛ばしてしまったのか、部屋の端っこにころがっていて、立ち上がる気も失せてため息をついた。
しんと、静まり返る部屋の中。俺は、自分のため息しか聞こえないその部屋で、ぼんやりと座り込んでいる。
ひとりきり、と、寂しい言葉がぽつりと浮かぶが、考えたくなくて、乱暴に布団の中に潜り込んだ。
ーーーーー
カーテンの隙間から、朝日がまぶたを焼く。スマホの画面には午前六時四十分の表示。……休日だっていうのに、随分健康的な時間に起きてしまった。かわいた瞼を擦ってこじ開け、俺は疲れた体を起こした。
ベッド脇の電気スタンドの棚に放り投げていたペンとノートを手繰り寄せ、いつもの日課を書きこなしながら、冷蔵庫の中身を思い出す。……そういえば、なんも無いな。
昨日のうちに買い物に行っておけばよかった、と今更な後悔をしながら、句点で締め括ったノートをまた電気スタンドの棚に放り投げて、ベッドから立ち上がった。
……しっかりと眠ったはずなのに、体が重い。最近疲れが取れなくなってきたのは歳のせいだろうか。そんなことにもうんざりしながら、パーカーをはおり、財布をポケットに押し込んで、玄関に足を向ける。
胃が痛くなるような空腹を紛らわすべく、コンビニへ向かおうと扉を開ける。部屋の中からなのか外からなのか、俺に絡みつく視線は相変わらずで、苛立ちすら覚えながら、俺は扉に施錠した。
休日の、比較的早い朝の時間帯だ。
人通りも少なく、車もぽつりぽつりとしか通らない静かな道を、だるい体を引き摺って歩く。ポケットの財布の重みすら辛いほどの疲れた体。頭痛まで感じるような気がして、俺は思わず頭を抱えた。
その時。
ひたり、ひたり。
音がする。俺の後ろ、ほんの2、3メートル後ろからだ。
なんの音なのかと振り返る。……何もいない。何も無い。
ただの聞き間違いかと顔を元に戻す。幻聴まで聞こえるようになってしまったのか。体調を崩したんだろうかと、コンビニへの道を進もうとした。
ひたり。ひたり。
再び聞こえたその音。同じテンポで、同じ距離から聞こえる。
どくりと心臓が暴れ、息を飲んで慌ててふりかえった。ーー何も、いない。何も無い。
不思議なくらいに、当たりが静まり返っている。人の気配も、車の音も、鳥の声もしない。今日は天気が良かったはずなのに、太陽は頭上で輝いているはずなのに、とても寒い。とても。凍えるくらいに。
止まっていた呼吸が、ゆっくり、浅く、深くなる。
ひゅ、ひゅ、と喉がなり、上手く酸素を取り込めない。俺の後ろに、何かがいた、何かがあったはずなのに、確かに音がしたはずなのに、俺の目には何も映らない。……そうだ。似たようなこと、ごく最近にあったじゃないか。何も見えないのに、確かに感じるあの粘り尽く視線。考えてみれば、さっきの音。
あれは、足音じゃないのか?
そこまでたどり着くと、俺はもう居てもたってもいられなかった。
弾かれたように走り出す体。どこへともなく、俺は逃げていた。後にいたはずの何か、……いや、誰かから。俺を執拗にじっとみつめ、遂には俺の後ろまで来た何者か。それから少しでも離れたくて、必死で足を動かした。
あれほど重く、疲れていた体も、言い知れぬ命の危機に全て忘れてしまったかのようだ。
前方に見えてきた目的地であったコンビニに飛び込んで、コミックラックに縋り付く。レジに立つ店員が怪訝そうにこちらを見ているが、気にしている余裕はなかった。……というか、コンビニに逃げ込んでどうにかなるものでも無いのに、俺は何を休憩しているんだ。
というか、こんな変なこと、どこに行けば解決するっていうんだ。
冷静になった途端、急に不安感が押し寄せる。酷使した足は鉛のように重く、突然乱雑に扱われた肺は刺されたように痛む。忘れていた空腹感まで俺を苛むように唸りを上げて、俺は目に入ったゼリー飲料を引っ掴んでレジへ歩いた。
適当に会計を済ませながら、スマホの画面にうつる検索バーをつつく。
……なんて調べればいいんだよ。怪奇現象、解決、方法?
ズラズラと並べられた検索結果のページは、怪しげな勧誘や宣伝なんかがほとんどで、信用しても良いものか悩んでしまう。有名なオカルト板に相談……なんて、真面目に取り合ってももらえなさそうなことを試してみるかと、震える唇を噛みしめながら、ゼリー飲料と一緒にコンビニを出た。
ひたり。
一歩。コンビニから一歩出た直後だ。
俺の背後から、確実に聞こえたそれは、先ほどと変わらぬ足音を立てる。ぞくり。背筋を氷が滑り落ちているような寒気が走る。
たった今出てきたコンビニの、自動ドアの向こうにそれはいる。俺がすぐ傍にいるせいで閉まりそうなところでまた開く自動ドアが、ガタガタと音を立てた。
きっと、レジの店員が迷惑そうな顔をしていることだろう。しかし、彼の視線に混じって、背中に刺さるもう一つの視線が、舐めるように俺の全身を見ているのも感じた。
ひたり。
ひゅっと、息をのむ。
足音が近づいた。
確実に、先ほどよりも一歩、俺に近づいてきている。自動ドアが、俺の存在に気づいてまた閉まりかけた扉を開けた。
身体が凍えそうなほど冷えているのに、指先は震えもせず、石のように固まっている。
逃げなければ。わかっているのに、身体は動かない。
はあ。
首の後ろに、吐息がかかった。すぐ後ろにいる。感じる。なのに、逃げられない。冷たい冷たい呼吸が、うなじに吹きかけられていた。
「あんた、何引き連れてんの?」
不意に、左隣から掛けられた言葉が、不思議なほど強く頭の中に響いた。固まっていた身体に電流のように熱がほとばしり、突然自由が戻ってくる。コンビニの自動ドアから飛び退くように離れて、勢い余ってコンクリートに這いつくばる俺の傍には、少年が立っていた。
「気持ち悪い感じがすると思ったら、なにそれ。あんた、何してんの?」
いつの間にそこにいたのか、その少年は、とても異様な格好をしていた。派手な色のパーカーに、派手な髪色まではいい。顔を覆う紅色の狐面だ。質感から言って、素人目に見ても玩具のようなちゃちな作りはしていないように見える。つやつやと漆のような光沢のある赤に、複雑な模様が頬や額に塗り込まれている。神社の祭事に用いられそうなお面をしっかりと被った少年が、面の内側からくぐもった声で嫌そうにそう言っていた。
「なに、言って……君、何か見えてるのか……?」
「見えているも何も、あんたも感じてんでしょ? だからそんなにビビってる。」
つい、と、俺の後ろを指さす少年に、確実に俺が感じていた何かの存在を見ているのだとわかり、俺は慌てて少年に這い寄る。
表現しようもない恐怖から逃げられるなら、自分よりも年下の少年に縋る事も気にならなかった。あの心臓がゆっくりと凍らされるような恐怖から、ただただ逃げたい一心で、プライドをかなぐり捨てて少年の足にすがりつく。
「何か知っているなら、教えてくれないか!! これはどうすればどっか行ってくれるんだ!? 前からずっとつきまとわれてる!! もうおかしくなりそうなんだよッ!!」
「……はあぁ……絶対こうなると思った。くそめんどくさ……やっぱ話しかけなきゃ良かった……。」
「頼むよッ!! お礼はするから! アレは一体何なんだ!? 何で俺についてくる!!」
「いやまず落ち着いてよ。こんなとこで地べたに座ってべらべらおしゃべりするの、俺絶対やなんだけど? ひとまずさあ、場所変えよ?」
「い゛っ……!!」
少年はすがりつく俺を振り払い、さっさと踵を返す。かと思えば、俺の方を振り返りもせずにさっさと歩き遠のいていき、俺は慌てて立ち上がってその背中を追いかけた。
俺を置いてどんどん歩いて行ってしまう少年に必死でついて行く。恐怖でもつれる足はあまり言うことを聞いてくれず、震えてバカになってしまっている。……しかし、少年は、俺の役立たずな足のスピードに合わせ、遠すぎない距離で少し立ち止まって待ってくれた。
狐面の奥からの、表情を見なくても分かるあきれた視線が痛いが、小脇に抱えていたらしいスケートボードを使わず、徒歩で移動してくれているところに優しさを感じる。苛立つようにトントンと地面を打つつま先に急かされながら、俺と少年は、近くのファミリーレストランへと入店した。
入店直後に席を案内に来る店員をあしらいながら、疲れ切った身体を座席に放り投げるように座る。はあ、と、大きなため息を吐くと、隣の女性客がちらりと俺を見た。
水はセルフサービス。……面倒くさい。しかし、飲みたい。折角落ち着けた腰を上げ、水を取りに行こうと立ち上がると、少年から声がかかる。
「俺、ジンジャーエール。」
「……まだドリンクバー頼んでないけど……。」
「頼んでから取りに行けば良いでしょ。それくらいも待てないの?」
「いや……喉が渇いてるから……。」
「とりあえず、座れば。」
ぴ、と、指を伸ばし、今し方立ち上がった席を指さされる。何も考えずに少年の足にすがりついた手前、言うのも考えるのも憚られるが、……年下のくせに、なかなか生意気だ。
口に出さずに、少年の言葉に従い席に着く。ピンポーン。呼び出し音が店内に鳴り響き、スッと寄ってきた店員にドリンクバーを頼む少年が、俺に向かってアイコンタクトをとってきたので、俺は首を横に振った。少年はそれを見て、温玉のせドリアを頼んで注文を締め切った。
正直コーヒーを飲んでいる余裕もない。とにかく、喉を潤せる水がいい。
「はい。注文したから行ってきて良いよ。」
「……はいはい。」
ふてぶてしくメニュー表を放り投げた少年に、多少疲れも恐怖も収まり、余裕の出てきた俺はため息をかみ殺す。助けを求めた立場ではあるが、不遜すぎる態度はどうなんだろうか。こみ上げる苛立ちをぐっと飲み込みながら、少年ご所望のジンジャーエールと、二、三個氷を放り込んだコップに水を注いだ。まず、その場でそれを飲みほす。ただの水だが、とても美味い。染み渡るような冷たさが心地よくて、もう一杯注いだ。………そういえば、俺は腹が減っていたんだった。胃を突くような空腹を忘れてしまっていたとは、俺の頭はふたつのことを同時に考えられんようにできているんだろうか。我ながら呆れるが、ポケットには先程のゼリー飲料もあるし、今更何か食べたいとも思わず、諦めてテーブルに戻る。座るなり、また水を飲み干した俺に、少年は頬杖をついて視線を向けた。
「……で。あんたは何をしたわけ?なんであんな面倒くさそうなのをくっつけてんの。」
「何をした、……と言われても、俺にはなんの心当たりもないんだよ。別に心霊スポットとかに言ったわけでも、こっくりさん? みたいな降霊術をしたわけでもない。本当になんの悪いこともしてないと思う。……思っている。」
「いやいや、マジでそんなレベルじゃ無いと思うんだけど。」
ちらり、と、俺の横に顔を向け、すぐに大きなため息を吐いてストローでジンジャーエールをすする少年。その意味深な視線のやり方に、まさか隣にいるのかと背筋が冷たくなったが、俺の目には何も見えず、俺の耳には何も聞こえなかった。
「感じないと思うよ。多分、あんたが一人じゃないと自己主張してこない。そういう感じの奴。一人の人間に固執するやつって、独占欲が強いか、そいつだけが欲しいか、力が弱いやつだ。ほんで多分、真ん中。」
「……そ、そんな……こと言われても。」
「まあでもずっといる。あんたを見てる。……俺がここにいても、何も気にしてないから、そんなに知性は無いみたいだけど。」
ずるずるとジンジャーエールを啜り、空っぽになったコップの底をストローの先がつるつる滑る。
お面の内側からストローを吐き出して、少年は頭の後ろで腕を組んで背もたれに体重を預ける。
「……そう、いえば、君。なんでそんな目立つ格好なのに、誰も何も言わないんだろうな。」
ふと、気になったことが口をついて出る。乱暴に座って、大きなため息を吐いた俺には、一瞬といえど批難するような視線が向けられた。……なのに、一緒にいる、俺よりも奇抜な格好の少年には一瞥も向けられず、注文を取りに来た店員のお姉さんでさえも、何もおかしな様子もなく、全く普通の様子で帰ってしまった。俺の感性がおかしいだけなのか、と、不安になってしまう。
しかし、少年は、ああ、となんらおかしな事を聞いた風もなく答えた。
「そりゃ、俺がずらしてるから。」
「……ずらす?」
「そう。影をずらしてる。影が薄いとか、そういう人いるでしょ。いるのに意識に入ってこない人。簡単に言うとそんな感じで、俺が意図的に影をずらして認識を阻害させてる。説明面倒くさいし、どうせあんたに言ったって正確に理解出来ないだろうから、俺は俺を見せたい相手を選べるって感じで覚えといてくれれば良いよ。」
「……はあ。」
少年のいう通り、聞いてもよく分からなかった。まあ、俺以外には少年の事がうまく認識できてないってことなんだろう。俺の感性がゆがんでいるわけじゃなくて良かった。……いや、こんなことより、どうにか助けて貰わなければいけない。水飲んでゆっくり休んでいる暇はないだろうが。
「あ~~~いや、いいよ言わなくて。さっきの聞いて大体分かったし、助けて助けてってあんた、さっきからいっぱい言ってたからやって欲しいこともちゃんと分かってる。次は、俺があんたに聞く番だろ。」
口を開き掛けたら、少年の小さな手が顔の前に突き出された。ぐっと口をつぐむと、少年がそうつっけんどんに言う。言うな、と言われても、少年が俺に聞く番だと言われても、それなら俺はただ黙って聞いていれば良いだけなのだろうか。所在なくて、つい唇を噛む。
店員が持ってきた、湯気の立つドリアをスプーンでぐちぐち混ぜながら、少年は俺に視線もくれずに言った。
「俺があんたを助けたら、あんたは俺に何をしてくれんの?」
「えっ……?」
「俺はあんたを助けられる。けど、助けないこともできんの。こういうのは俺の専門だけど。だからって、やって疲れない事でも無いわけ。あんた、仕事してんでしょ? 対価に何をくれるのかって言いたいんだよね。」
「そ……そんなこと、突然言われても……。俺だって、こういうことを調べ始めたばっかりで、相場も何も分からない。君の働きに、俺はどんなことで報いたら良いのかも分からないんだ。」
「ふーん。そう。ほんじゃ、とりあえず紙に書き起こそう。はんこでも押してさ、契約書みたいなもん書こう。ねえ、なんか紙持ってる? ペンも。」
少年に言われて、体中のポケットをパタパタ触ってみたが、それらしい感触はない。それはそうだ。コンビニに行くだけの装備だ。財布とスマホくらいしか持ってきていない。
面をずらしながらドリアを食べ進める少年は、俺の様子を見て、またため息を吐く。責められている気がして、思わず肩をすくめた。少年は、通りかかった店員さんに、ボールペンを貸してくれと頼み、レジに備え付けてあったらしいペンを受け取って、あろうことか紙ナプキンに書き始めた。
「おい……それでいいのか?」
「別に文字が読めてはんこが押せれば何でも良いでしょ。……おし、これでいい。ね? ほら読んで。」
さらさらとペンを走らせ、突き出された紙ナプキンをのぞき込む。
『貴殿の恐れる心霊現象の解決を条件とし、**神社の規定の元、相応の報酬を支払う。』
「……**神社?」
「俺、そこに行く予定だったの。連絡は入れてるから気にしないで。報酬の目安が欲しいならネットで調べて。」
「あ、うん……。」
言われるがまま、スマホで検索する。……が、当然ながら出てこない。……まあ、これで出てくるなら、最初の検索の時に出てきてもおかしくない。
じとりと少年を見て、出てこないんだけど、と言えば、首をかしげて俺のスマホを手に取った。
「え~~?おかしいな。……んー、隠しページだったっけ。忘れちゃったわ。今から神社行く……っつっても、間に合わんかもしれないけどさ。」
「間に合わないんじゃ意味ないだろ……!!」
「でも、契約しないと俺はなんもしないよ。どうすんの?」
「……~~~ッ!!」
こてん。と首をかしげる少年が憎たらしいが、……他に頼れる人がいないことも事実だ。まさか、詐欺かなんかだったりしないだろうなと胸の奥がざわつくが、……だからといって、他に宛てがあるわけでもない。テーブルの真ん中のナプキンを引き寄せて、ペンを取る。
「サインでも良いよな。」
「俺は良いよ。」
少年の返事を聞く前に、がりがりと名前を書き込む。破けそうでも気にしなかった。助けてくれる人がいない自分が情けなく、悲しく、寂しく、不安だ。しかし、仕方ない。自己責任、だ。
ナプキンを突き返せば、少年は面を下に向け、俺のサインをじっと見る。そして、面の奥の目を、すう、と細めた。
「確かに確認した。あんたのそれは、俺が取っ払ってやろう。」
言うやいなや、ドリアの皿を煽ってがつがつと流し込む。器用に面に触れずに完食した少年は、レシートを俺の胸にぺしんと押しつけた。
「そうと決まればさっさと行こう。そんなに時間ないし。」
「はっ? ……あ、ええ……。」
支払い俺か……いや、子供の食ったもんだし、まあ別に良いけど、もうちょいなんか言うことあっても良いでしょ……。
腑に落ちないながらもレジで支払いを済ませ、さっさと店を出て行く少年の背中を追いかける。また先ほどのように後ろをついて行くことになるのかと思えば、今度は少年が、さっき歩いてきた道を指さした。
「今度はあんたが先を歩いて。いつもあんたが通ってる道が知りたい。」
「道……? って、通勤経路とか?」
「そう。普段買い物に行くところとか、最近行った友達の家とか、全部ね。ここのところ変なことした訳じゃないんでしょ? だったら虱潰ししか方法無いんだよね。……つーか、あんたの後ろにぴったりついてきすぎてて、気配も何もかも均一すぎるから、一個一個調べる。」
「あ、そ、そう……。」
少年は俺を怯えさせたくてわざわざそういう言葉選びをしているのかと思うほど、背筋が寒くなる。俺の後ろに、ぴったり、ね。……確かに、店の中にいたときよりも、視線を感じるような気がする。一人の時ほどではないにしろ、意識すれば、感じるような。……少年の言ったとおり、俺が独りの時に、より顕著に感じるようだ。今少年がいるのに少し感じるのは、さっきの、「影をずらす」とかいうのが関係しているからなんだろうか。
俺が深く考えたとて、正確な答えが出せるわけでもない。俺は、少年の言うとおりに、いつも通る道をたどる。通勤経路と、通り道のコンビニと、たまに寄ってコーヒーを飲む公園と。
俺の背中をじっと見つめながら、たまに周囲を眺める少年。脇に抱えたスケートボードを、とん、とん、と指でたたくのは癖だろうか。相変わらず、通り過ぎる人々は少年に目もくれず、何事もなく過ぎていく。認識されないというのは、どんな気分なんだろうか。誰の目にもとまらずに、すり抜けていく人々を見るのは。透明人間のような特別な気分だろうか。……想像も出来ない。けれど、さみしい、ような気もした。
「……なあ、それ、とらないの?」
「それ? ……ああ、お面のこと?」
最後、俺の家に向かう途中で、たまらず尋ねてしまった俺に、少年は自分の面をこつんと弾いた。
「まあ別に取っちゃいけない訳じゃないけどさ。いろいろとさ、便利なんだよね。あると。」
「ふうん……でも、息しづらいとか、視界が悪いとか悪条件もあると思うんだけど……便利って、例えばどんな?」
「ん~~~~~…………。」
スケートボードを背中に回し、腕で挟み込んだ少年が、空を見上げる。長く唸ったあと、何を言うのかと振り返れば、顔をこちらに向けた少年から放たれた言葉に息をのんだ。
「言わない。」
「えっ……。」
「なんであんたに言わなきゃいけないわけ? 別に仲が良いわけでも、これからずっと一緒にいるわけでもないのに。それを教えて、俺になんかメリットあんの?」
「いや……べつ、に。」
「だったら別に良いでしょ。さっさと歩いて。」
なにやら、突然突き放されたような物言いになってしまい、俺は慌てて前を向いた。……なにか、嫌なことを聞いたんだろうか。お面を取ることは、お面にまつわることは地雷だったと言うことか。……それにしたって、あんなに冷たいことを言わなくても良いだろうに。勝手に傷つけられた気分になって、俺は情けなくも少し落ち込む。助けてくれると言ってくれたから、勝手に心を許していたんだろうか。……ここのところ、人と関わることが少なかったこともあったかもしれない。
友人にも小馬鹿にされたことを、少年は信じてくれたから。
俺の背中が丸まったのが背後から分かったのか、少年の大きなため息が、お面の内側から聞こえてくる。俺は少年にため息を吐かせすぎかもしれない。
肩越しに振り返れば、がりがりと頭を掻いた少年が、苛立ったように言った。
「あのさあ。あんたが俺に勝手に親近感湧くのはしゃーないことなんだよね。俺たちはあんたの魂に寄り添えちゃうから。そういう系統を普段相手にしてるから、無駄に距離が近く感じちゃうらしいわけ。だから勘違いして、あんたたちが俺たちをめっちゃ仲いい友達みたいに思っちゃうのも、めっちゃ近しい存在だと思っちゃうのもしょーがないんだよ。……でもさあ、こっちからしたら、普通に迷惑だわ。勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になられても、俺たち何もしてないし。」
「……そ、ういわれても、俺だって別に、そうしたくてしているわけじゃ……。」
「じゃあ何? 俺が冷たく突き放して、ショックを受けて、『そんな風に言わなくても良いだろ』って思わなかった? そっちが助けを求めてきて、その上俺のことを探ってきてるくせに、実際近しい存在でもないくせに、俺のことを聞いて何がしたかったの?」
ズバズバと、少年の言葉が俺の身体を切り裂いているかのように、とても痛い。ごもっともだが、それこそ、まさしく、『そんな風に言わなくても』だ。
ぴたり。足を止める。少年の足も、それに習って止まった。
「……ねえ。あんたさ。ちょっとは考えてみた? 普段と違う不思議なことが起きてんだよ、今。あんたの身に。その変化は、本当にそれだけなのか?あんた自身には、なんの変化も起きてないか?」
「……? どういう……」
「あんたは、出会って数時間の相手に、そんな、気に障りそうなことを聞く奴だったのか? 俺の面について触れたのは、本当にあんたの意思か?」
ひやりと、喉の奥を冷たい氷が滑り落ちていくような感覚。
少年の言葉に、ゆっくりと振り返った。背後の少年は、俺ではなく、進行方向の……俺のアパートを指さしていた。
「あんたの家。あそこの二階の右から二番目でしょ。やっとわかった。原因はあそこにある。」
どうやら俺は、知らぬ間に、何かに操られて言葉を口にしていたようだった。
*
「本体がだんだん近くなってきたから、やっと俺の危険性に気づいて、なんか弱点とか無いか探り出したんじゃねーかな。ま、気にしなくて良いよ。」
もうすでに俺を追い抜いて、教えてもないのに、俺の部屋の前にたどり着く少年。何かを感じているらしいのは明らかで、俺は、震え出す手で鍵を開けた。少年に指摘されてから、視線が強くなっている。俺たちの足音に紛れて、あの足音も聞こえている気がする。扉を開けたら、もっとひどくなるかもしれない。そう思うと恐ろしくて、つい、ノブを持つ手に力が入らない。
「俺が開けようか。」
「……いや、大丈夫だ。」
少年の申し出はありがたかったが、さっきから情けないところばかり見せている少年に、すべて頼り切る気にもなれず、意を決してドアノブをひねる。
ガチャ、と、少しだけ空いた隙間。ひといきに扉を開けきれば、……目の前に、誰か。
「ッひ……!!」
「落ち着いて。……まだ気配だけだ。」
とん、と、少年に背をたたかれる。……目の前にいた誰かは、……幻覚だったようだ。誰も、いない。
けど確かに、俺の目の前に、誰かの目が見開かれた目があった気がしたんだ。あの距離なら普通は焦点も合わず、鼻も髪も触れてしまっていただろうに、ただはっきりと、俺を見る目が顔の前にあった。
ごくり、と、無理矢理つばを飲み込んで、少年に背を押されながら部屋に入る。
特に何も変わったところなんて無いはずの自分の部屋なのに、今朝出てきたときと、少年とともに戻ってきた今とでは、なんというか……暗さが違う。
カーテンは閉め切っているから、確かに暗いのだが、部屋の隅が見えないほどの、闇が確かにあるのだ。
「なん、だこれ……本当に俺の部屋か?」
「そうだろ、鍵合ってたし。つーか早く入ってくれない? 言ったよね、時間ないからさっさと済ませたいの。」
「えっ、うわっ!!」
ぐいっと背中を押され、玄関に押し込まれる。扉がバタンと閉められ、感じていた闇が一層近くに来た気がして、慌てて電気をつけた。………電気をつけても、何故か、暗いまま、な気がする。
少年は、さっさと靴を脱いで、まるで自宅であるかのような気軽さで部屋に上がる。それを追いかけるように、俺も靴を脱ぎ捨てた。
「ちょっ、と、待って!」
「もう良いよ別に。つーか原因分かったし。……ねえ、あんた、これに何書いてんの?」
すたすたと歩いて、まっすぐ向かったさきは、俺のベッド脇の電気スタンドの棚だった。汚いものでもつまむように、少年はそれを持ち上げる。暗い部屋の真ん中で、俺に向かって突き出されたものは、俺の、日記だった。
「いや……普通に、日記だけど。」
「ただの日記がこんな呪いを放つわけねーだろ。何を、何故、書いているのかを聞いてんの。」
「何を…………、それは、俺の、」
俺の、夢を。
俺は、その日見た夢を、朝、日記に書くようにしていた。そういえば、書く前は夢って、不確かな、起きると忘れているようなものだったような気がする。けれど、書き記すようにしてから、とても鮮明な夢を見るようになったのだ。不思議なことに、はじめから最後まで、しっかり記憶している。
面白くなって、つい続けて、日課になった。朝起きて、まずするのは、夢を、文字に起こして、毎日毎日、毎日書き記すことだ。
少年は、つまんだ日記をばさりと床に放り落とす。なんて事をするんだと、俺は慌てて拾い上げようとするが、少年の足がそれを阻んだ。俺の日記を、踏みつけにしているのだ。
「ッ……!! て、めえ!! 何しやがる!! 俺の日記に!!」
「夢日記、なんて、そこそこ有名だと思ってたわ。狂気を呼び寄せる簡単な呪法の一つだよ。いつからやってんのか知らないけど、随分と溜まってきてる。そりゃこんな気持ちの悪いもんがつきまとってんのも分かるわ。」
「足をどかせ!! 今すぐどかせ!! なんてことを、俺の大切な日記に!! 汚れる! 触れるな! おい!! ぶっ殺すぞ!!」
「ねえ、何でやり始めたの? わざわざ自分から狂いに行くとか、そこからすでに正気の沙汰じゃねえけどさ。誰の勧め? 何からの情報?」
少年が何かを聞いている。……頭には入ってくるのに、口に出すまでが出来ない。誰から?何から?そういえば、何かで見た気がする。ヤバイからやっちゃいけないって。でも、だめって言われると、やりたくなっちゃうだろう?
言いたい言葉は口から出ていかずに、俺は少年をただなじり続ける。口汚く罵る俺に、少年はまた、ため息を吐いた。
「ま、そんなんはどうでもいいか。」
言った瞬間、少年の足下からバチバチと光がほとばしる。暗い部屋の中、電流のように弾ける光が目に痛い。ぐずぐずと、何かが煮立つような音と、どぶのような、腐った泥のような、嫌なにおいが立ちこめた。
「あんたみたいな、一般人如きの呪いなんて、痛くも痒くもないんだよね。こっちはさ。ただ臭くて汚くて面倒くさい。俺に害を為したかった? 俺を苦しめて貶めたかった? 残念だったね。あんたは何も出来ない。俺になんの影響も与えられない。ただ無くなっていくんだ。あんたの作り出した呪いは。」
どこからか、誰かが叫ぶ声がする。
とてもうるさい。……もしかしたら、俺の後ろをついて回っていた奴の声か?
ハッとして、俺は後ろを振り返った。
声は、俺の真後ろから聞こえてきていたから。
声の主は、
俺だった。
口を目一杯開き、目を目一杯開き、苦しさに絶叫する俺の姿がそこにあった。自分の声が、すり切れんばかりの悲鳴が、自分に向かって吐きかけられる。俺を見開いた目で見つめ、痛みを訴えかけてくる。
「あんたは自分にずっと追いかけられてたんだよ。……追いつかれなくてよかったね。そうしたら、もう手遅れだった。」
バチンッ
ひときわ強い音とともに、弾けていた光が消える。俺の目の前にいたはずの俺は、影も形もなくなっていた。少年が、すたすたと俺の横を通り抜け、部屋の隅のゴミ箱に何かを放り込んだ。……日記だった。
黒く、真っ黒にすすけた、表紙も確認できないほどの日記帳、だったもの。ゴミ箱にかぶせていたビニール袋をぐるぐる縛って、少年は俺の前に突き出してくる。
「早く処分した方が良いよ。匂いがしてくる前にあんたから離さないと、多分、振り出しに戻るだけだから。」
それをきき、俺は慌てて袋を受け取る。そして、部屋を飛び出した。
どこに捨てれば俺から離れていくかを、回らぬ頭で考える。……そうだ、コンビニ。コンビニのゴミ箱だ。
走って、備え付けの大きなゴミ箱に押し込む。店員の視線が痛かったが、そんなことよりも、捨てられた安堵感の方が大きい。はあ、と、一息ついたところで、……少年を部屋に置いてきてしまったことに気づいた。
しまった、また少年に嫌みを言われそうだ。急いでアパートへの道を引き返す。今日何度目の道だろうか。しかし、今日一番、素早く帰れた気がした。
アパートの階段を駆け上がり、自室の扉を開ける。
「すまん! なんか、急いで捨て……ないと、……って。」
勢いよく開いた部屋の中には、誰もいなかった。誰も。
玄関には少年の靴もなく、部屋の中のどこにも、あの小さな背中はない。……帰った、んだろうか。俺の部屋の鍵、俺が持ってて掛けられないのに。何にも気にせず、全部ほったらかしで。
身体の力が抜ける。不用心、だけど、何故か少年なら、人が入らない仕掛けをしているような気がして、怒る気も起きなかった。
「……ん?」
ふと、視界の端に、紙ナプキンが写る。ベッド脇の電気スタンドの棚の上に、たたまれて置いてあるそれは、少しくしゃくしゃになっている。
開いてみれば、……ファミレスで見たあの文字の下に、書き加えられた言葉があった。
『落ち着いたら、あの神社に来て。受付の巫女さんにちゃんと支払ってね。』
「……本当に、つめてえ奴だなぁ……。」
別れの挨拶も、お礼もさせてもらえないようだ。
身体の重さも、気だるさも消えたはずなのに、俺は、ばったりと部屋の中に倒れてしまった。