ノーチラス
25作目です。時系列的には「水葬」の後です。
1
静かに時間が移ろいで行く。時間の移ろいと共に世界は生まれ、壊れ、生まれ、次々に変わっていく。それが普通のことなのだろう。しかし、この冷たい水底には時間の移ろいはない。何も生まれず、何も死なず、ただ、無に近い永遠が流れては戻ってくるばかりだ。水草が流れに揺れると、無駄だとはわかっていても、時間の移ろいを期待してしまう。上を見れば太陽が、外の世界に移ろいを齎している。水の中における朝から夜、夜から朝への変化は、単に外の移ろいを借りた擬似的なものでしかない。
だから、今、水底を照らす冷たい透明な光は本物ではない。フィルターを通した検閲済みの擬似の陽光。けれど、それでいい。この水底では、誰も主張しない。何故なら、みんな言葉を持たないか、持っていても主張することに意味を感じていないからだ。つまりは、それで幸せなのだ。魚は銀の鱗にお零れの光を受けて鰭を揺らし、半透明なエビは一枚の細い葉の上に居場所を見出だしている。
私は悩み過ぎているのだろうか?
構造が他の生命よりも優れているが故に、私たちは喜怒哀楽に依存する。構造が高度でも耐久に問題を抱えているので、喜怒哀楽と外部環境のハーモニーは刻々と狂ってしまう。
例えば、あなたは死にたくなった時、笑うだろうか、怒るだろうか、悲しむだろうか。
きっと、何も考えないだろう。喜怒哀楽に依存しているという「標準状態」が壊れ、サポート的立ち位置の「無」が顔を出す。私たちは高性能だから、そのふたつを同時に出すことができる。でも、低耐久だから、すぐに狂ってしまう。
この水底には「無」しかない。誰も彼も無だけを抱えて生きる亡霊。移ろうのは見かけ倒しの時間の概念。盲目のあなたは小石に足を取られて転んでしまう。そして、怪我をするだろう。あなただけが知っている傷を負うだろう。
傷を負うだろう。
時々、夜みたいに暗くなって、遠く遠くで汽車の音がして、誰かが迎えに来ると期待して、灯を灯しても意味はなくて、不意に緩やかに落ちてくる濁った金のロザリオを手に取って、冷たい冷たい水底に落ちていく。
観覧車の回る音が遥かな皺の寄った藍色に見える。きっと、距離は違うだろう。魚が一匹やって来て、その銀の鱗を自慢して去っていく。
星は滲み、星座は見えず。透明なだけの水の中、私は悴む手を温めようと擦った。擦ると水が揺れた。水が揺れると命が生まれる。誰も死なないのに命は次々と生まれていく。無責任に、夜の闇に隠すように。しかし、大多数は生まれても透明なまま、自分の存在を知るのは自分だけしかいない世界で永遠を生きることになる。
私は手を擦るのを止めた。
無駄に命を生み出すものじゃない。
モノには生まれる場所があり、死ぬ場所がある。けれど、始まりを探せばキリがなく、終わりを探してもキリはない。動かない時間の中ならば幾らでも探せる、そう、あなたは思うだろう。だけど、考えてみて欲しい。動かない時間の中には始まりも終わりもないということを。
簡素な造りの灯台の最上部で、道楽のような償いをする。誰も生まれず、死なない世界で光を揺らす。時々、船が通って、半透明なクルーが手を振っている。船は帆も張らず、船底には大穴が開いていたりするけれど、誰も不安げな様子は見せない。
船は外の時間で表現すれば、一週間に一度くらいの頻度で、蛍の墓場のような光る都市から何処かへ向かって灯台の前を通る。大概の船の船長には会ったことがないが、ひとりだけ、私と親しくしてくれる人物がいる。その人はひとりだけで船を操り、何処かへ行くのだ。その人は不定期に現れては私を驚かせる。
私は待っている。
その人の訪れを。
この冷たい水の底、誰かの温度を感じられる機会を。その為に、毎晩、光を揺らし揺らしているのだ。
誰かが階段を上ってくる音が聞こえて、振り返ると、眼を擦る少女が蹌踉めきながらやって来た。
「船は通ってるの?」
「まだ。眠っているといい」
「まだ待ってるの?」
「ずっと、待つさ。ここには死はないんだから」
2
あれは透明な日だった。透明度が高い日ほど温度がない。私は朝食を作って、少女とそれを食べた。少女は盲目なので、私が食べさせてあげた。彼女の温度は微弱で、私は似た者同士だと思っている。
「美味しいね」とスープを口にした彼女は言った。
「それは良かった」と私は少女の頭を撫でた。
少女は食事を終えると散歩に出掛けた。白い猫に先導して貰って、蹌踉めきながらも透明な水底を健気に歩いていった。
私は食器を片付けて、掃除をして、それが終わって紅茶を飲んだ。朝食のスープも、この紅茶にも温度はあるけれど、私は、それが偽りにしか思えない。そう思うと、紅茶の味はなくなり、私は半分ほど液体を残して外に出た。
外は明るかった。足元の細かな砂粒が流れに弄ばれて舞っている。魚は鱗を輝かせて嬉しそうに燥いでいる。
灯台から正面に進むと哀れな桟橋がある。意味など皆無なのだが、この灯台が移った時に、可哀想に一緒に来てしまったものだ。踏むとギシリと軋むので、あまり行かないようにしているが、今日はそこに船が泊まっていた。船が停泊しているということが珍しい、というより、私は一度も見たことがない。
座礁したのか? 故障したのか? しかし、そんな概念などどうにでもなるのではないだろうか?
私はそう思いながらも桟橋に向かった。
やはり、ギシリと哀れな音がする桟橋を半分ほど進み、船に近付いた。見れば、奇妙な形をした船で、帆もなければ、甲板といえる場所もない。まるで棺のような姿をしている。
私は取り敢えず、船体を軽く叩いた。金属質な感触がした。
「はい」と野太い声がして、船体上部のハッチが開いた。顔を覗かせたのは真っ白な口髭を蓄えた男で、一見すると、かなり老齢に見えた。
男はハッチから全身をぬるりと出し、小さな突起を器用に降りてきた。身体はそこまで大きくはなくて、寧ろ細かった。
男は私の前に立った。背が高く、私は彼を見上げなければならなかった。肌は浅黒く、真っ白な口髭と対照的だ。眼は灰色に近く、形は柔和な雰囲気を醸し出していた。服装は襤褸布のようなものを羽織っており、その下には痩せて肋骨の浮き出た身体が見えた。
「何か?」と男。見た目とは裏腹に、声には威厳がある。声を聞いた後で風貌を観察すれば、豪胆な大男に見えなくもない。
「えっと、どうしました? 座礁ですか? 故障ですか?」
私がそう訊くと、男は首を僅かに傾げた。
「いや、座礁でも故障でもないよ。不思議なことを訊くもんだな。船はずっと漂ってなきゃいけないのかい?」
「いえ、そんなことはないですけれど、船が泊まっているのは非常に珍しいことなので、何かあったのかと思ったわけです」
「へぇ? 船が泊まることが珍しいって? ははは、いいねぇ。ん、あんた、見たところ灯台守のようだな。そうだ、少しばかり、船をここに置かせてくれやしないかね。さっきも言った通り、故障なんぞの類いじゃない。船乗りだって陸が恋しいのさ。見返りなら多少はある。遠く遠くの街からの希少な品さ」
「見返りなんて大丈夫です。どうぞ、期限など気にせず自由に泊めても結構です。ここは私の場所ではありませんからね」
「そうかそうか。なら、その通りに気にしないよ。まぁ、それでも見返りは受け取ってくれ。おれの偶の優しさだ」
男はそう言うと、また小さな突起を上ってハッチの中に消えた。そして、すぐに出て来て、私の前に幾つかの麻袋を示した。
「中を見てくれ」と男。
私は袋をひとつひとつ開けて中を見た。ひとつは真っ赤な粉、ひとつは黄色い粉、ひとつは黒い粉。黒い粉の袋は三つもあった。
「どれでも好きなのを……いや、面倒だ、全部あんたにやろう。これらが何かわかるかい? 香辛料ってんだ。料理をするなら鍋にぶち込めばいい。いい具合に味がつく」
「それは良いですね。今晩の料理が楽しみですよ」
私は男から麻袋を受け取った。どれもずしりと重い。
「あ、そういえば、あんた名前は何だい? 長居するかもしれないのに、名前のひとつも知らないのは失礼だろうからね」
「私ですか? 私は……」
名前。名前。名前……。
何と言っただろう。
疾うに忘れてしまった。
「……すいません。長いこと名乗らずにいたら忘れてしまいました。どうぞ、灯台守、と呼んでください」
「そうかそうか。忘れたなら仕方がない。おれも色々なことを置いてきちまったからね。実はおれも名前は憶えていない。残念ながらね。きっと、あんたよりも昔に忘れちまったよ」
男は髭を弄りながら言った。
「しかし、名前がないと不便だからね、おれは『ネモ』って名乗ってんだ。昔、読んだ本に出て来る奴なんだがな、どうも、おれと近いような気がしてな、他人とは思えないのさ。知ってるかい?」
「いえ」と私は否定する。「私には文字を読むことが苦痛なんです。何せ、生まれて最初に覚えたのは灯の照らし方でしたから。恥ずかしいことなのですが、学がないことなんて、ここじゃ大きな差は生みません」
ネモは大きく口を開けて笑った。歯は綺麗に揃っており、彼の浅黒い肌と対照的だ。彼は息が切れるまで笑い、口を静かに閉じると船の方を見た。大きな魚のようにも見える船だ。
「こいつを知ってるかい?」
「いえ、船の一種ということはわかりますが」
「こいつはな、潜水艦、って言うんだ。あんまり、灯台とは縁がないタイプの船さ。おれは物心がついた頃から、この痩せた魚みたいな船の中にいたんだ。この船の中がおれの世界だった。狭くても広い世界だったよ。あぁ、実は、こいつにも名前があってね、それは『ノーチラス』って言うんだ。由来はネモと同じで、確かオウムガイって意味なんだ」
「オウムガイ?」
「知らんか? 枯れ草の生えた星みたいな奴さ。世界の何処かを漂っているんだろうけれど、おれは居場所を知らないな。自由気儘ってよりは、何も考えていないって感じの顔をしていてね、なかなかに愛嬌のある奴なんだよ」
「それは、一度会ってみたいですね」
「会えるさ。時間っていうものは長い」
ネモはにっこりと微笑んだ後、大きく口を開いて欠伸をした。
「まだ朝だな。よし、灯台守よ、おれは散歩に行ってくる。久々の陸なんでね、とても楽しみだよ。海の底と何が違うのか、知らないことを自分の眼で見られるのは、こんな老人になっても心踊るものだ」
「散歩に行くなら道にはお気を付けて。難解というほどではありませんが、森の中などは少々迷わせる構造になっていますので。本当なら案内人を同行させたいのですが、彼女も散歩に出てしまっているので……」
「いやいや、案内人なんて不要さ。冒険ってのに案内はないからね。全てを自分任せにするのが醍醐味だとおれは思ってる」
「そうですか。あ、それと、夜までには戻って来ますか?」
「夜? 恐らく戻ってくるだろう」
「では、夕飯は用意しておきます」
「ほぉ、夕飯! ありがたいな。楽しみにしてるよ」
「食べられないものなどは?」
「ないよ。一般的に食材と見なされているものなら」
「わかりました。では、お気を付けて」
ネモは肩に色褪せた布袋を掛けて歩き出した。遠くから見ると海の男というよりは、流離いの賢者のようにも見える。実際、彼の瞳は理知的な光を帯びているので、賢者を騙っていくことも可能だろうが、そんなことをしても無意味だということは、ここじゃ誰でもわかっている。水の底で己の無知を説いたところで、全ては途切れることのない流れに運ばれるか、深い深い層の雪となって死んでいくかの二択しかないのだ。
私はネモに貰った袋を抱えて灯台に戻り、残っていた紅茶を飲み干した。温度は水の底と同じになっていた。
3
水の底が少し暗くなる。きっと、雲がやって来たのだ。雨が降ったところでここらの水底に影響はないのだが、少し離れた街にはあるようで、船の通りが多くなる。多くなると言っても、七日に一度が二日に一度になる程度である。雨は降り始めると簡単には止まない。しかし、それは私にとってはありがたいことで、暗い水底を照らすという生き甲斐を思い出させてくれる。
水底が静かに揺らいでいるのがわかる。灯台の上から見える森は果てしなく続いているように見える。私は森に入ったことがないのでわからないが、あの子の家もあるだろう。あの子が帰ろうとしないだけで、きっと。そうだ、そうに違いない。
不意に汽笛が聞こえて、その音の方を見ると襤褸の木材で子供が造ったような船が、のたのたと進んでいくところだった。船尾には紐で巨大な芭蕉旗魚が括り付けられている。吻は切り落とされ、隔壁のような背鰭も無惨に食い千切られている。何処かへ運んで、食肉となるのだろうか。しかし、ここには死の概念はない。つまり、旗魚は飾りか概念か。半分の吻や背鰭の損傷がデフォルトだとすると決めきれないが、クルーがナイフで肉を削っているところを見てわかった。あれは飾りで、目指すべき何処かに辿り着いた時点で失われ、また戻れば蘇る、どうしようもないサイクルの一部なのだ。
まだそこまで暗くはないので灯は向けなかった。
私は灯の傍から離れ、夕飯を作るために階下へ向かった。シンプルで不便な造りの階段を転げないようにしながら下りていく。私の頭の中ではネモから貰った香辛料をどう使うかについてのアイデアの捻出を行っていた。結論として、鶏肉に振り掛けて焼くというものに至った。鶏肉は棚に雑に置かれている。少し前に通った商船から買ったものだ。この冷たい場所では、いくら放置しても物が腐ることはない。生も死もないのだから当然のことではあるが。「腐る」という動きは「生」に該当すると私は思う。
肉を適当なサイズに分ける。私とあの子の分を足したサイズがネモの分と等しくなった。それらを遥か昔に買ったような記憶がある襤褸のフライパンに置いて、火を点けて焼いた。火から得られる温度は無粋なので私は好きではない。火は道具であり、私が考える純粋な温度に明確な使途は必要としないからだ。
肉を焼いた後の火でスープも作る。棚にある適当な野菜を投げ込んだだけの雑なスープだ。ネモの香辛料ならば、飽き飽きするスープの味に変化を齎してくれるだろう。
スープを火に掛けている間に、手軽なサラダを作り、果物を切り分ける。灯台守よりも料理担当の方が手慣れているし、何より、精神的に楽だ。
スープが騒ぎ立てたので、私は火を吹き消し、液体を木のボウルに移した。偽物の温度から生じる霧を吹き上げながら、ふたりの帰還を待ち続けている。霧以上に、私が待っている。
ふたりが帰ってきたのは霧が消えかかる頃になってからだった。
驚いたことにふたりは一緒に門扉を叩いたのだ。
「途中で会ったのさ」
ネモは楽しそうに言った。
「どうやら眼が見えないようだったからな、紳士としてエスコートしてやったのさ」
「ニアが何処かへ行っちゃったから動けなかったの」
ニアというのは行きで先導していた白猫のことだ。気紛れな性格のようで、急にいなくなることが屡々あるようだ。
「それはよかったね、アリス」
私は少女の名を呼んだ。
アリスは「うん」と言って微笑んだ。
「んん、何だか良い匂いがすると思ったら、ほぉ、美味そうな料理じゃないか。これは、おれがやったスパイスも使ったようだね?」
ネモが大きな声で言った。とても機嫌が良さそうだ。
「少し冷めてしまいましたが食べましょう。ふたりを待っていたので飢え死にするかと思いました」
「飢え死にはダメ。死んだら誰が私を生かしてくれるの?」とアリスが微笑んだまま言った。
「大丈夫。ここには死なんてないんだから……」
「そうさ。誰も彼も、生きてるのか死んでるのか、さっぱりわからないんだからな。生も死も大差ないよ。場所が違うだけさ」
ネモは自分の布袋から細かい皹の入った瓶を取り出して、私に「コップはあるか」と訊ねた。私がグラスを用意すると彼は液体を注いだ。それは鮮やかな赤紫色で、芳醇な香りの中に僅かに雨の気配がした。ネモはそれを一気に飲み干して、再度注いだ。
「飲むかね?」
「いえ、酔うと仕事に支障が出ますので」
「それもそうか。お嬢さんはどうだい?」
「……飲んでみる」
アリスは恐る恐るグラスを受け取り、口に運んだ。雨粒ほどの量を啜って、すぐに顔を顰めた。
「苦いし、酸っぱい、不思議な味」
「まだお嬢さんには早いか」
ネモは笑いながら言った。ふたりを見ていると、祖父と孫のように思えた。私は確かな温度を感じながら、冷めた鶏肉を口に運んだ。
食後、アリスはすぐに身体が揺れ始め、ベッドに倒れた。本来は私のベッドだが、使用頻度が少ないので彼女に譲っている。
アリスはすうすうと寝息を立てている。その頬はうっすらと赤い。
「可愛いじゃないか」とネモは静かに言った。「健気で不思議な子だ。何処か遠くから冒険してきたみたいにも思えるよ」
「彼女、少し前まで眼が見えたんですけどね。ある日を境に眼が見えなくなって、段々と他の部分も……」
「そうなのかい?」
「ええ。今はまだ軽度ですけど、聴力と嗅覚が弱まっているそうです。理由は私にはわかりませんけれど」
「それは可哀想だ。しかし、私の人生において、それらに有効な薬は見たことがないな」
ネモは顎髭を触りながら言った。
「……だが、世界は広い。この下らない水の中にも魔法のような薬があるだろう。次に船を出したら、まずは彼女の薬を探すことにしよう」
「ありがとうございます」
「共に食事をした者は大切にしなければならないのさ」
彼はそう言った。
私はアリスに近寄って、頬を撫で、髪に触れて温度を感じた。
「さて、おれも寝るかな。散歩したら疲れちまった。飯、感謝するよ。久々に誰かと食ったよ」
彼はそう言ってから灯台を出て、桟橋の方へ歩いていった。
私は私を戒め、生き甲斐のために灯の傍に戻ったのだった。今夜は月が見えない。水の上では雨が降り注いでいるのだろう。
4
翌朝。まだ水底は暗い。
私は朝食の仕度をして、アリスを起こした。彼女は気怠そうに身体を起こして立ち上がった。歩こうとして蹌踉めいたので、私は彼女の身体を支えた。とても軽い。まるで風船のようだった。
アリスを座らせて、ネモを呼んだ。彼はノーチラスの前で何かを作っていたようだが、すぐにこちらへ来た。
「何か作ってたんですか?」
「作っていたのではなく直していたんだ。おれと同じように船もガタが来ちまってね、何処も彼処も欠陥だらけさ。本当なら安らかに眠らせちまうのが一番なんだが、この水底じゃ駄目だ。生き物以外にも生と死の概念があるからな」
ネモは食卓の上の焼き魚を見た。
「この魚だって死んでるわけじゃない。元からなんだ。元から命を持たない、これがデフォルトなんだよ」
彼はアリスの横に座ると、彼女の頭を撫でた。アリスも微笑んで、見たことのない老人の髭を撫でた。微笑ましい光景の傍で、私は私の人生のデフォルトを考えていた。きっと、何処にでもある名前があって、誰にでも当てはまるような子供時代を過ごしたに違いない。
朝食を食べ終わると、ネモとアリスは散歩に行くと言って出て行った。ふたりの背を見ると、やはり、祖父と孫のように親しげにしている。アリスは左手で杖を、右手でネモの手を握っている。ネモは道を照らすためのカンテラを持っている。
私は食器の片付けもそこそこで済ませ、日課のティータイムも無視して外に出た。私の足は電極を埋め込まれたかのように勝手に動き出し、桟橋を一直線に目指した。
桟橋の傍には相変わらず奇妙な姿のノーチラスが停泊している。
私は突起に足を掛けてハッチまで上った。ハッチは予想と反して開き、私が中に入ることを可能にした。
「ネモさん……」と私は心の中でネモに対して謝意を示し、船内へ入った。縄梯子でゆっくりと下りていくと、まず眼に入ったのは大量の花だった。白い花弁の花が一面に敷き詰められている。ひとつ摘まんで嗅ぐと、鼻に負担のかかる程度の甘い匂いがした。見たことのない花だった。
船の操縦室らしき場所に入ったが、そこも白い花で埋め尽くされていた。絵が飾ってあるのを発見した。
六人の人間が描かれた絵で、ひとり以外は若い。恐らく、立派な顎髭を蓄えた高齢の人物はネモだろう。すると、残りはノーチラスのクルーということになるのだろうか。
しかし、もう誰もいないのだろう。
私は操縦室を出て、反対側へ向かった。そこには他と同様に花が敷き詰められているが、それ以外には何もないという部屋があった。その壁を観察すると、小さいが、文字が刻まれている箇所があった。私にも読める程度の言葉だった。
「デ・ファルシタテ・ネモ船長、彼が愛したノーチラスと共に眠る」
つまり、ここはネモの墓。
彼はノーチラスと白い花と一緒に眠った。
そして、ここにやって来た。
だけれど、彼には未練の類いがあったのだろうか。しっかりと葬られて、幸せなように私には思えた。
私は縄梯子を上って船から出た。
空は相変わらずの暗さで、まだ雨が降っていることがわかる。
私は何となく灯台に戻る気がしなかったので、アリスとネモとは逆の方に歩き出した。歩くと軽くなっていく。知らずのうちに背負わされていた重荷が落ちていく。森へ入ろうとしたが、灯りを持っていないので止めた。迷ってしまうかもしれないからだ。
私は近くにあった切り株に座り暗い空を眺めた。時々、水面が揺れたりするのが見えるが、私には関係のないことだ。
私は長い間を無意識で過ごし、灯台に戻った。すると、灯台の前でふたりと会った。アリスはバスケットに果物をたくさん持っていた。私は何だか心が地に足を着けたような気になって息を吐いた。
「今日のご飯は?」とアリス。
「サラダと魚のソテー……かな」
「魚の骨は抜いておいてね」
「心配しなくていいよ」
アリスは椅子に座って欠伸をした。私はネモの手を借りて料理を用意することにした。彼は「焼くことなら任せろ」と言っていたが、その言葉通り、ソテーは私が作るよりも良いものができた。
「灯台守のサラダは葉っぱばかりだな」とネモ。
「ええ、そうしてるんです。アリスのリクエストなんで」
料理を運び、微睡んでいたアリスを戻して、三人で食べ始めた。やはり、この時間の温度が一番だと私は思う。アリスはソテーにフォークを器用に刺して食べている。盲いた当初は何もかもが儘ならなかったが、近頃は様々なことができるようになった。まだスープをひとりでは飲めないが、サラダの取り分けなどはひとりでできる。私はアリスの喪失からの成長を見守ってやろうと思っている。軈ては全てを失うのだろうが、もしそうなっても私は彼女を支えてみせると密かに決めている。
「ごちそうさま」
食後、アリスはすぐにベッドに転がった。見えないということは無意識に神経を磨り減らしてしまうのだろう。以前よりも眠っている時間が増えている気がする。
「なぁ、灯台守よ」
ネモが静かな声で言う。私は彼の優しさを誇りに思う。
「あんた、ノーチラスの中に入ったんだな?」
「え? ……はい、すいません」
「いや、いいさ。見られて困るものじゃない。ノーチラスはおれの相棒だからな、寧ろ歓迎さ。良い船だろう?」
「はい。でも、どうして?」
「沈丁花の匂いがした。ノーチラスの中を埋め尽くしてだろう?」
「ああ、そうでした。あれは?」
「あれは、おれへの餞別さ。二度と逢うことは叶わない仲間たちからのな。あいつらなりの敬意ってわけだ」
「敬意?」
「沈丁花は『永遠』さ」
「つまり、ネモ船長がここにいる理由は未練ではないんですね」
「そうだな、そうなるな。おれは幸せ者らしい」
「ええ、そうですね。とても、とても羨ましいことです」
ネモはそれから二日後の空が白くなる頃に船を出した。アリスに効く薬を見つけたらすぐに戻ると言って旅立った。
私は三人で囲んだテーブルに置いてある酒瓶に『永遠』の香りがする白い花弁を詰め込んだ。アリスは今日も蹌踉めきながら散歩に出掛けた。
冷たい水底でもいい。
何も生じることのない水の中、未来への期待というバブルの誕生に私は心を踊らせながら、幽かな温度の永遠を続けていくのだ。