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ちり紙  作者: 城間遙子
9/10

scene 9

   *   *   *

 

 化けの皮が剥がれて終わった。

 舞台は舞台裏を見られて終わった。

 真っ白な朝がきて、夢見る夜は終わった。

 そんなふうに、サエコは頭の中でとりとめなく言葉を並べた。

 

 ユウタを部屋に誘い入れた日の二日後、サエコは実家に帰らざるをえなくなった。

 家族はサエコを腫れ物のように扱うこともなく、気狂いと見ることもなく、ただ当たり前のように普通に接してくれてサエコの心をほぐした。実家での日々は穏やかにすぎ、サエコは安心して両親に守られていた。

 サエコが一人暮らしの部屋に戻ったのは、職場に復帰する前日の日曜日だった。

 母親が持たせてくれた、地域指定の可燃ゴミ用の袋の十枚入りパックを、サエコはすぐに使いきることになる。

 パックを開封し、ゴミ袋を取り出してその口を広げ、両手でティッシュをかき集めては袋に詰め込んだ。何度となくそれを繰り返した。それこそ額に汗をかくくらい熱中して、この大掃除に取り組んだ。

 そして十枚のゴミ袋がそれぞれいっぱいになって口を縛られ、床の隅に寄せられた時、あの白い世界は、ごく当たり前にベッドとローテーブルと組み立て式の棚が配置されている部屋になっていた。それに本棚を含めても本当にどこにでもありそうな部屋だった。

 サエコは、床に座りこんでそのゴミ袋を眺め、当たり前になった部屋を眺め、そしてミニ冷蔵庫に入れておいた缶コーヒーを出してきて飲み、タバコを二本吸ってからシャワーを浴び、パジャマに着替え、入眠剤と精神安定剤をのんで眠りについた。

 そうして、翌朝からは社会人として復帰していた。

 復帰してしばらくは、会社の人たちの眼差しに意識を張り詰めてすごした。善意にも好奇心にも、サエコは緊張して接した。何気なく接してくる人には泣きたいほど感謝の気持ちを抱いた。サエコが鬱病で休職していたことは周知の事実だった。

 ユウタのことは度々思い返した。記憶が胸を揺さぶり、心を熱くさせて、けれど名前は浮かばない。教えあっていなかったことに、サエコはあの日の後になって気付いた。携帯電話の番号どころか名前すら知らない、そんな相手と週二回話し、そして六月の雨が降る日に抱き合ったことを、まざまざと思い出しても思い出すことしかできなかった。

 社会人のサエコには、火曜日も水曜日も木曜日も、夕方の公園に行く時間的余裕はなかった。勤め先は電車で片道一時間近くかかるところにあった。

 その改めて始まった生活のなかで、ユウタとの再会のためにできることはなかったのだろうか。そうではないだろう、けれどサエコは動けなかった。あの公園に再び行けば、自分は必ず彼を待ってしまうと知っている。彼に期待してしまう。くじけた心はその期待に対する結末を恐れた。名前さえも教えあわなかった相手が、サエコに会いにくる確証はない。また、たとえ会えたとしても、サエコの望む関係になる確証もない。

 季節は移り変わり、再び営みはじめた日常生活は戸惑いと不安を少しずつ混ぜて送られてゆき、サエコはやがて通院の必要もなくなっていった。鬱病は一応完治した。あとは揺り返しに注意すること、それだけだった。

 

 

 ユウタはあの日の後、翌週の火曜日と水曜日に公園へ行った。

 けれどサエコはいない。タイミングが悪いのだろうかと思い、また翌週も火曜日と木曜日に公園へ行った。それでもサエコの姿は見出せず、更に翌週、水曜日と木曜日に都合をつけて行ってみても駄目だった時、サエコはもう二度とこの公園に来ないのではないかと思いはじめた。

 何かあったのだろうか。彼女は一応病気だと言っていた。その病気が悪化したのか。それとも、名前も知らない相手とすごしてしまった時間を恥じて、気まずさから足が遠のくようになったのか。自分は、彼女から疎まれたのか。

 できれば違っていてほしいことばかりが頭に浮かんできて、ユウタは我ながら嫌になった。

 公園に行っても彼女には会えない。そう気付いてから、ユウタは公園に足を踏み入れることがなくなっていった。彼女のいない公園には訪れるほどの意味などなかった。それでも、定時で上がれた日には、あの踏切から公園の中を覗いた。あのカンカンという音は、つい覗いてしまうユウタを嘲笑うかのように響いて、何ともいえない気持ちにさせた。

 それでも、残滓のように心の片隅にこびりついている微かな期待は、踏切の前に立つたびに、ユウタの記憶を、感情を揺さぶった。あの真っ白な空間で抱き合った時、彼女は自分を疎ましくは思っていなかったと自分に言い聞かせた。同時に、あの真っ白な空間は本当に現実だったのだろうかとも思われた。ちぎられたティッシュに埋もれた部屋、そんなものが現実にあったのだろうかと自分の記憶を疑った。――それを作り出した彼女の根気が現実離れしていたがゆえに。

 会えないまま一カ月がすぎ、二カ月、三カ月とすぎて、ユウタはサエコを忘れるように努めた。しかし彼女がユウタとの会話を支配していた公園の前を毎日通るなかで、忘れるということは不可能だった。もう会えないという気持ちが深まっても、公園が現実に存在するというだけで、ユウタは何度でも彼女を思い出した。――全てを忘れまいとするかのように、新しい記憶に押されて次第に埋没してゆこうとするあの時の記憶を、必死に掘り起こした。

 やがてそれは生々しさを失った、血の流れを持たない記憶へと変質していった。期待は捨てられなかった。けれど流れる時間はユウタに実生活への順応を促した。ユウタは火曜日でも水曜日でも木曜日でも、無理にでも定時で上がろうとすることはしなくなった。


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