scene 8
* * *
サエコが部屋の明かりをつけた時、ユウタは、サエコの秘密のうちの何かが目の前に広げられていることを知った。
ベッドのあるべきところ、ローテーブルのあるべきところ、組み立て式の棚があるべきところ、そうした家具の全てがちぎられたティッシュで覆われて山のようになっている。床はティッシュの海だった。これは、公園で何度となく見た、サエコの両脇を固めていた箱ティッシュによるのだろうか。サエコは何度となく五箱パックを買い込み、両手にさげて帰り、そしてこのサエコだけの部屋で裂いていたのか。
そう思った時、ユウタは戦慄をおぼえた。使われたティッシュは何箱、いや何十箱だろうか。これは、彼女が本気でやり遂げたことなのか? それは正気なのか?
恐る恐る部屋に踏み込み、座れそうな場所を探す。割と低い山はローテーブルなのだろうか、その傍らの平地に立って、少しためらう。
「そこになら何もないはずだから座って平気よ」
サエコが助け船を出すように声をかける。それから廊下の方に出て、廊下に沿って設置されているミニキッチンでグラスを出し、くくり付けのミニ冷蔵庫からお茶のペットボトルを出した。キッチンでグラスに注ぐことはせず、そのまま持って部屋に戻り、ローテーブルらしい山の上に迷いなく置いて、そこでペットボトルの栓を開けて注いだ。
「お茶でよかった?」
そう訊いてくるサエコの語調はいたって普通だった。ユウタはどもりそうになりながら「大丈夫、ありがとう」と返事をする。グラスにお茶を注ぐサエコの横顔を凝視するものの、いつもの何気ない表情でしかなく、この部屋はおかしくないということなのだろうかと思う。明らかにおかしいはずだ、とも。
「はい、どうぞ」
「あ、……いただきます」
戸惑いながらグラスに手を伸ばし、口に運びながら部屋を見渡す。あからさまにならないように気をつけながら見たこの部屋では、唯一、本棚だけがティッシュの侵蝕から免れていた。――一番下の段を除いて。
本棚にはジャンルも装釘もバラバラな本たちが納まっていた。その中で比較的多いのは文庫だった。文庫は岩波書店と新潮社が中心になっている。ハードカバーや単行本はとことん統一性がない。円地文子訳の源氏物語が揃っているかと思えば、同じ列に一時期流行した自殺マニュアルや中毒マニュアルが並んでおり、英語で書かれた小説本と日本のコミックスも同様、更には新約聖書と仏教らしい書物が隣合わせに並べられていた。
ユウタが本棚に並ぶ本のタイトルを眺めていると、その眼差しに気付いたサエコが「バラバラでしょ」と言って少し笑った。
「本当はまだ本があるんだけど、とりあえず並べられるだけ並べたの。いい本棚でしょ」
「ああ、……うん、いい本棚だと思うけど。でも本棚って何だか持ち主の人間性をあらわすみたいな気がしないかな」
「私もそう思う。――ねえ、私の本棚からはどんな人間性が見えるの」
サエコが面白そうに訊ねてくる。ユウタは心持ち身をひいてお茶を濁すように答えた。
「答えにくいよ。色々な本があるし」
「でも統一性はあるでしょ。書いたのは皆人間っていう生き物なの」
「そりゃ、そうだろうけど。この本、全部読んだの? ジャンルがずいぶん多彩だけど」
「読んでない本も何冊か混ざってる。たぶんこれからも読むことはなさそうな本も」
でも逆に何度も繰り返し読んでる本もあるけど、と付け足してサエコは本棚を眺める。どことなく嬉しそうな、眩しげに目を細めた表情で。
「読まない本を並べてどうするの」
ユウタが訊くと、ちょっと肩をすくめてみせ、濁りのない語調で言った。
「並べられていることに意味がある本もあるのよ、たぶん」
その意味は何のための意味だろうとユウタは思った。何となく、すっきりしない気持ちで。
「それにしても、よくここまでティッシュで埋めたね」
床らしいところに座り、手許に散っているティッシュを一枚つまんで見おろしながら、ユウタは呆れたような声で言った。サエコは明らかに否定的なユウタの言い方に対して気にもとめないといわんばかりに満足そうに頷いた。
「だって、他にやることがないんだもの」
「仕事は?」
「休職中」
「どうして」
「病気なのよ、これでも」
まあ別に命にかかわるような病気でもないけど。――サエコはそう言ってグラスに口をつけ、ごくりと音をたててお茶を飲んだ。ユウタは病名を訊きたかったものの、はぐらかされそうな気がして、訊ねる代わりにお茶を飲む。グラスの底には、結露ではりついたティッシュのきれはしがブラリと垂れ下がっていた。
サエコの返事の後から、しばらく沈黙が続いた。ユウタは自分が何のために来たのか自信がなくなってきていた。この部屋の実態から感じるものは強烈で、誘われた時の昂揚は萎えそうになっていた。
そうしたユウタの内情をサエコは感じ取っていたのだろうか。ついと手を伸ばして箱ティッシュをたぐり寄せ、一枚引き抜いた。何も言わずにぴりっと裂く。
その動作は、普段ひとりの時にやっているものと同じだった。ユウタが何かに打たれたような表情でサエコを見やった。サエコは構うことなくまた一枚引き抜き、軽い動きで裂いた。
一枚、また一枚。ひらりと放り出され、あるいは落とされて、ティッシュがまた増えてゆく。意識はユウタから逸れている。ユウタは自分の言動がサエコの関心を得られずにいることに焦る。違うだろう、こんなはずじゃないだろうと言い聞かせる。彼女は今、彼女だけの世界に入りこんでいる。そこにユウタの居場所はない。連れださなければならないとユウタは思う。ユウタにも居場所がある世界、あの公園のような世界へと。そして、そのためには今暇つぶしのように続けられているサエコの手悪戯を、何としてでも止めなければと思いながら散らされる枚数を数える。七枚、八枚、九枚。サエコの手が十枚目を引き抜こうとした時、ようやくユウタは手を出して止めに入った。
「もうやめろよ、こんなこと」
そう言って、細い手首を掴む。力は特に籠めていない。サエコは少しつまらなそうな顔をした。
「もったいないから?」
「……それもある」
「こんなことをするのは、おかしいから?」
「それもある」
「それから?」
たたみかけるようにサエコが訊いてくる。ユウタは口を閉ざして言葉を探し、ややあって低く呟いた。
「君が、埋もれてしまう」
その一言は、サエコにとって衝撃的なものだった。まさか、こんなにまでマトモなことを、それもストレートに言ってくるとは思わなかった。手首を掴まれたサエコははっきりとうろたえていた。
「だって、しょうがないじゃない」
「何が?」
ようやく絞り出した言葉に、ユウタが静かな様子で訊き返す。サエコは普段のやりとりでの立場が逆転していると感じながら答えを探した。
「だって、何もすることがないんだもの」
それは事実だった。薬が効果をあらわしてきている今、やっと何かをしようと思えるようになっても、せいぜいあの公園まで散歩に行くことくらいしか思いつかずにいる。本を読むこと、近所の古本屋で変わった本を手に取ることは嫌いではないけれども、積極的に求めに行くほど好きでもない。これが趣味だと言えるような趣味がない。
サエコの言い訳を聞きながら、ユウタはもう一度部屋を見渡した。
家具らしきものたちの山。ひとつだけ抜きん出ている本棚と真っ白な世界。真っ白な山並。純白の陰影。明らかにサエコはわざと山に仕立てあげたのだろうと思う。部屋のあちこちに移動しながらティッシュを裂き続けたのだろう。止める者のいない、ひとりきりの部屋で。閉じ籠もる、子供部屋のような場所で。
ふと、サエコが居心地悪そうに身じろぎ、掴まれている自分の手首を見おろした。ユウタはそれを見てゆっくりと手を離した。離れた瞬間、ひやりとした空気がふたりの手の間に流れ込んだ。サエコが自分の手をおし包むように胸元へ寄せた。
沈黙は息を吸って吐く音まで聞こえるほど張り詰めていた。それを破ったのはユウタだった。
「……人は。真っ白な空間に閉じ込められると発狂するって、何かで読んだけど」
「たとえば、この部屋みたいに?」
「そうかもしれない。だけど、俺には発狂っていうのがどういうものか分からないから。それに、真っ白な空間を作る者が、発狂するのかも発狂してるのかも当然分からない」
「……それは、私にも分からない」
「ただ、思うんだ」
ユウタが一度言葉を区切り、離した手を再び伸ばしてサエコの肩に触れた。それは確かめるような仕種だった。
「自分自身を含めて、自分の世界を、空間を埋めてしまおうとする気持ちは、何によって満足するんだろう」
サエコは、それこそこっちが知りたいと思った。肩に置かれた手はためらいながら少しの力を籠め、ふたりは至近距離で見つめあっていた。
外では、雨が本降りになってきているらしかった。ユウタは今こそこの流れに身を任せるべきだと思った。はっきりと踏み出さなければいけないと思った。
そうして、サエコは異を唱えなかった。ただ、ユウタが首筋に頬を寄せてきた時、一言だけ訊いた。
「私の肌、カビの臭いはしてない?」
大丈夫だよ、普通の肌だ。――ユウタはサエコの匂いをかぎながら答えた。石鹸とシャンプーの香り。あと、微かにタバコの匂い。