scene 7
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木曜日の夕方、いつ雨が降りだしてもおかしくないような曇り空の下、サエコは冷たい缶コーヒーを一口飲んでタバコをくわえた。
この日は湿気がひどかった。髪がまとまらず、ちぢれたようにあちこちに飛び出し、全体的に膨張してしまっていて鬱陶しい。サエコは一本ずつで飛び出す髪をアホ毛と呼んで忌み嫌っている。それはインターネットで覚えた呼称だった。
「この時期に何が怖いって、カビよ」
断言して煙をふうっと吐きだす。
「まあ確かに、梅雨はカビが生えやすい時期だよな」
空模様に目をやりながらユウタが相槌をうつ。今日は折り畳みの傘を会社に忘れてきてしまったので、降られるとちょっと困る。
「そうなのよ、生えやすいの。中学の時に保健体育の授業で教わったのよ、カビっていうのは生きてる人間にも生えるんですって、不潔にしてると」
「そうなんだ? 何か気持ち悪い話だな」
「そうなのよ、気持ち悪いの。だってカビって根っこがあるんでしょ? 自分の皮膚にカビが根をおろして体内から栄養を吸いあげてモリモリ成長してるなんて考えただけでも気持ち悪い」
「何か生々しい言い方だな」
「いかに気持ち悪いかを正確に伝えようと努力したまでよ」
「いや、そんなの努力してくれなくていいから」
サエコの期待通りにやりとりが進み、サエコは笑ってタバコの煙を吸い込んだ。
ユウタはこの公園でサエコと話すようになってから、何としてでも週二回は定時で上がれるように努めていた。それも火水木の中の二回。月曜日に定時で上がるのは不可能だったし、金曜日にはサエコは絶対に来ないし、土日は自分がここを訪れる理由を持たない。
「だからね、そう教わってからは毎年梅雨になる度に気になるのよ、自分にカビが生えてやしないか」
「もし生えてたら、見れば分かるものなんじゃないの」
「目に見えないほど小さく生えてるかもしれないじゃない」
「あとはムダ毛に見えてもその正体はカビだった、とか?」
「そう、それもあるかもね。怖いわねえ」
「うん、まあ、怖い」
ユウタは自分の体にカビが生えている姿を想像してみた。生体に生えるカビ。たとえば白いカビが粉をふいたように腕や脚に生えている。霧雨のなか、微かな動きや風に揺れながら育っている。それは恐るべき生命の神秘だと思う。
「だからね、この時期のお風呂は入念になるのよ。洗うにも拭くにも」
「まあ、清潔にしてるのはいいことだしな」
サエコは妙に力説している。よほどカビが嫌なんだろうかとユウタは思う。もっとも、自分もカビは嫌だし、殆どの人もブルーチーズのようなものは別として、カビにはいい顔をしないだろうが。
いつも通りに会話しながら、ユウタはもう一度空模様を窺った。今にも細い針のような雨が降ってきそうな空。今降りだせば会話は中断されるのだろうか。互いに帰途についてしまい、それで今週の会話は終わってしまうのだろうか。何だかそれは惜しい気がした。もう少し降らずに頑張ってくれと思う。
「――どうしたの?」
空を見上げるユウタに、サエコが覗きこむように顔を向けながら声をかけた。
「え?」
「さっきからボーっとしてる。空模様が気になる?」
「うん。気になる」
「傘、持ってきてないの」
「うん。会社に忘れてきた」
「私も持ってきてない」
「じゃあ、降られたらふたりとも困るんだ」
「霧雨程度ならまだ平気かな、とも思うんだけど」
そこで会話が途切れた。ふたりして様子を窺うように空を見上げた。
それは空白の時だった。何もかもが止まっている時間。空が見おろしている。次の話題はまだ決められていない。
短い沈黙を破ったのはユウタだった。ふとこぼれ落ちたような呟きだった。
「降ったら、帰るしかないのかな」
サエコはユウタを見やりながら「傘がないから」と答えた。「帰るしかないでしょう」
「そうなんだけどさ」
サエコの返事に少し物足りなさをおぼえながら、ユウタは話題を引き延ばした。
「降られたら、次は四日後になるから」
それは踏み出した一言だった。ユウタは言いながら緊張してくる。考えてみれば名前さえ教えあっていない相手に、サエコはどう思うだろう。そもそも、名前さえ教えあわないまま、ふたりはどれだけ会話をしてきただろう。
サエコの動きが一瞬止まる。空中のどこかを見つめ、ふと手のひらで何かを受け止めるような動作をしてみせ、「降ってきた」と呟いた。
ユウタはすかされた気持ちになりながら空に視線を逃す。
「本当だ」
「ねえ、傘がないんでしょう」
サエコが微かに身を乗り出したのはその瞬間だった。
「うん、持ってない」
空を見上げたままユウタが言い返す。サエコはタバコを地面で揉み消して吸い殻入れにしまいこみながら早口に言った。
「うちに来ない? そうしたら帰りに傘を貸せるし」
「うちに?」
ユウタがぽかんとした表情で訊き返した。今聞いた言葉は聞き間違いではないのか。一体、どんな意味を持つ言葉だったのか。それは、――彼女は、何を言いたいのか。帰りに傘を貸せる、とは?
「そう、私のうち。傘持ってないんでしょ」
「でも、ここから歩いて二十分くらいかかるんだろ」
とっさには頷けない。戸惑う言葉で念を押す。
「ここから駅までなら、五分かからないでしょう。そこからタクシーを拾えばすぐ着くもの」
まだこの程度の降りなら、そうすれば殆ど濡れないで済むし、と付け足しながらサエコが吸い殻入れをバッグにしまった。
「本当にいいの」
思わず本音に近い言葉がこぼれる。彼女の誘いは、どういうことなのか。単純に、傘を貸すためだけなのか。まさか。
ユウタは心の中で、楽観して傷付くのを恐れる理性と額面通りの意味を信じたい願望が駆け回るのを感じた。円形のフィールドで追いかけっこをするように、ぐるぐると走る。だんだんスピードをあげてゆく。
どういうことなのか。――つまり、そういうことなのか?
「要するに」
ユウタの心の内を知ってか知らでか、サエコが追いかけっこに審判を下してゴールを作る。
「こういうことでしょ。あなたは週二回私に会う。私は週二回、あなたが来なくてつまらない思いをする」
それは女神の声だった。
駅まで、ふたりは殆ど無言で歩いた。そこで拾ったタクシーの中でも、会話らしい会話はなかった。ユウタにはそれが嵐の前の静けさのように思えた。
サエコはタクシーのなかで、ぼんやりとメーターを見つめていた。何となくメーターの数字が上がっていくのを見守っているような見つめ方とも、一本のはりつめた糸を前にして、強いて何も考えるまいとするような見つめ方ともいえた。
サエコはぼんやりしたまま、頭の中にひとつの言葉が広がってくるのを認める。――知らない。
この人は知らない。知らないまま訪れる。知らないまま、直面する。
私が仕掛けたものは何なのか。ゴールなのか? 落とし穴なのか? それとも行き止まりなのか?
私の部屋は彼にとってハッピーエンドか、バッドエンドか?
私にとっては?
「お客さん、次はどっちに曲がるの」
タクシーの運転手が声をかけて、サエコは我にかえった。軽く身を乗り出して伝える。
「右に。それからまっすぐ行って、ふたつめの信号を渡ってすぐの所の茶色いマンションの前で停めて下さい」
運転手が短く頷いてウィンカーをつけた。
サエコはシートに座りなおして、目の前の景色、フロントガラスの向こうを見つめた。隣には黙ったまま座り、身じろぎもしないユウタがいる。
彼は今何を考えているのだろうか。横顔を覗きこんでみたい気がして、けれど前を向いたまま、サエコは歩き慣れた道をタクシーの中から眺めた。車が右折すると、あっという間に目的地に着いた。
「ここでいいんですか」
「あ、はい。ありがとうございました」
「八百四十円ね」
サエコが「はい」と言い返して財布を出そうとすると、車内で一言も口をきかなかったユウタが黙ったまま千円札を出して運転席の傍らにあるトレイに乗せた。
「私が出すのに」とサエコが言うと、「いいから」とだけ言い返してくる。ここでもたつけば運転手に迷惑だろうと、サエコは重ねて言い返すことはせずに「ありがとう」とだけ言って車から降りた。ユウタも続いて降り、タクシーが走り去ってゆく。
共同玄関でサエコが暗証番号を入力して自動ドアを開け、廊下を進み、エレベーターに乗って六階のボタンを押す。ユウタは黙々とついてきた。サエコも言葉が思いつかないまま歩き、乗り込み、立っていた。
あらゆる思惑と緊張が凝縮されたエレベーターが六階に着き、部屋に向かって歩く。部屋が近づくにつれ、本当にあの部屋に入れていいのかサエコは迷いだす。あの部屋という現実、あるいは世界を、彼はどう受けとめるのか。
やっぱり玄関で待ってて、傘を出すから。――ここまで来てそんなことは言えない。喉元まで出かかった言葉は、そのまま喉に詰まって声にならない。
ドアがはっきりと見える。バッグのファスナーを開けて内ポケットから鍵を取り出し、指でもてあそび、握りしめる。
ドアの鍵をさしこんで開く時、サエコは背後にユウタの気配を感じながら、息をつめていた。
「上がって」
開いたドアは、重い金属の感触がした。背後にいるユウタが「え」と呟くのが聞こえてきた。
「ちょっと、散らかってるけど。気にしないで適当に座って」
開けてしまえば笑いだしたいような心持ちになってくる。これは悪戯の一種だと思えてくる。仕掛けた悪戯は、今、ユウタを戸惑わせている。言葉が出ないほど。
サエコは構わず玄関で靴を脱ぎ、入っていった。数歩進んだところで振り返り、ユウタに向かって改めて上がるように促す。ユウタはどこか呆然とした面持ちでそれに従った。
狭く短い廊下の先に開かれたドアがあり、その向こうにひとつだけの部屋がある。
ユウタは悪天候下の夕刻の薄闇のなか、その部屋のありようから目が離せなくなってゆく。
ベッドのあるべきところ、ローテーブルのあるべきところ、組み立て式の棚があるべきところ。
ここはどこだ? 全ては、どこでどうなっているのか。
ユウタは部屋への入口で立ち止まり、こくりと息を呑んだ。
そこは、サエコの作り出した世界、真っ白な世界だった。