scene 6
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ユウタがサエコのいる公園を目指して日々をすごしている間に、季節は梅雨どきを迎えた。
特にここ数日はいやな天気が続いていた。
空はどろりと濁り、肌の常にじっとりとした感覚は肺にまで及んで、まるでぬるま湯の蒸気が満ちている部屋に押し込められたかのような重さがあり、不快指数はじりじりと上がる一方だった。
この日もそんな気候だった。サエコは泥水から浮上するような気持ちで目を覚ました。
時計を見ると、昼の十二時を少しすぎたところだった。今朝は明け方に目を覚まして、九時頃に再びベッドにもぐりこんだから、それから三時間ほど眠っていたことになる。
とりあえず半身を起こし、タバコを一本吸ってから立ちあがり、薬を入れているポーチを手にしてミニキッチンへ向かった。
コップに六分目くらいまで水をそそぎ、にがりの入った小さなボトルを出して十五滴ほど入れ、よくかきまぜて、その水で抗鬱剤をのむ。この胸がむかむかするような、妙にまったりとしたほのかな塩味の水は、抗鬱剤と一緒に処方されている便秘用の漢方薬をのむ時にも使われた。効果のほどは定かではないが、抗鬱剤による便秘への対策のひとつだった。
使ったコップを簡単に洗いながら、とりあえずトーストでも食べようかと思う。昨日買った食パンはいつも買っている百七十円のものではなく、近所のパン屋で買った二百四十円のものだった。それと貰い物のバターがあって、どんな味わいなのかぜひ使ってみたかった。
そして昼食が済んだら入浴をしなければ、と予定をたてていく。昨日は面倒になって入浴をさぼってしまった。今日は夕方からメンタルクリニックの予約が入っているから、何としてでもシャワーを浴びて体をすっきりと清潔にしておきたかった。人前に出るのに不潔なのは恥ずかしいことだとサエコは常々思っている。
公園へは週四日、月火水木と通っていた。金曜日はメンタルクリニックへ行く日で、土日は子供が多そうに思えて行く気にはなれない。
サエコは牛乳をコップにそそいでから食パンを二枚トースターに並べ、少し焦げ気味になるまで焼いて、バターを隙間なく丁寧に塗りつけて齧った。トーストを齧る時は、なぜかひたむきに齧ってしまう。特にミミの部分がポイントだ。噛み方が雑なのか、それとも抗鬱剤の副作用の口乾なのか、牛乳で流しこまなければ喉に詰まってしまう。しかし何はともあれ、食パンはさすが二百四十円しただけあってミミのさくさくした歯ごたえがたまらなかったし、バターは濃厚な味わいでおいしかった。
サエコは黙々と齧り終え、使ったバターナイフと皿を洗い、面倒くささをやりすごしながらタオルと下着をクローゼットから出し、ユニットバスに入った。シャワーの湯温は少しぬるめに設定し、浴槽の中にしゃがみこんで、ゆっくりと浴びた。
それから夕方までの数時間は、ぼんやりと本棚を眺めてすごした。時折、一冊手にとって適当にページを繰ってみる。
その本棚は休職するようになってから、薬が今の処方になったあたりに買ったもので、それまでは本を床やクローゼットや枕許に積み上げていたサエコにとって念願のものだった。買いに行く時は父親が車を出してくれ、組み立てる時には両親が手伝ってくれて嬉しかった。本は翌日の朝から半日がかりで並べていった。自分が鬱病にかかっているとは信じられないほどの熱意で並べ、そして出来上がったさまを眺めると満足感でほくほくとした。自分の本が納まるべきところに納まっている姿はとてもいいものだった。乱雑に積まれていた本がすっきり片付いたことで、自分の住む部屋は誰を呼んでも恥ずかしくない部屋になったと思えた。
夕方になると、サエコは電車に乗ってメンタルクリニックへ行った。
そこはマガジンラックの中の雑誌と鉢植えの植物が豊富な空間だった。静かな音楽が流され、設置されているテレビは小さな音量でニュースを伝えている。切れ切れに聞こえてくるアナウンサーの声に耳を澄ましながら、画面下部に出るテロップを見て内容を推測する。誰も喋らない。個々の世界が個々に籠もりながらソファに並んでいる空間。
そうして黙ったまま座っているうち、診察室から名前を呼ばれた。小さな声で返事をして、ドアが常時全開になっている診察室へ向かう。「こんにちは」と低めた声で言いながら椅子に座った。
「この一週間はどんな感じだった?」
少しの沈黙の後、医師が口を開いた。
「おかげさまで、穏やかな一週間でした」
「それはよかった。口が乾く副作用は今も続いてるの」
「少し、何となく。それよりも便秘の方がちょっと悪化したような」
「じゃあ、一日二回の漢方を三回にしてみようか」
「ええと、もう漢方薬はのみにくくて嫌だなあ、と」
正直に言うと、医師が少し笑って「じゃあ飲み薬に変えてみようか」と言ってくれた。
この日の診察の成果は一週間ごとの通院から二週間ごとに切り替わったことと、漢方から液体の便秘薬に変わったことだった。通院が減って診察代が浮くのは正直ありがたかった。いくら負担額が五パーセントになるように通院医療費公費負担制度に申請して受理されているとはいえ、基本給の六割程度の傷病手当金といくらかの貯金で生活している身としては、医療費や通院のための交通費は少しでも浮かせたい。
窓口で処方箋を受け取り、会計を済ませて隣のビルの一階にある薬局に入ってゆく。軽く挨拶をしながら処方箋を渡し、椅子に腰をおろして待った。
そして、ふと壁にかかっている時計を見ると、ちょうど普段なら散歩に出ている時間だった。あの人は、今日もあの道を通っているのだろうかとサエコはユウタのことを思い出す。名前も知らない人。けれどサエコのペースに合わせてくれているために、その人と話す時はいつも気ままでいられた。きっと良い人なのだろうとサエコは思った。
数分して、名前を呼ばれて立ち上がった。カウンターでいつもの薬の説明を聞き、薬を受け取って会計を済ませた。「お世話さまです」と軽く頭をさげて自動ドアをくぐる。
外の空気はむっとするように重い。空は色を忘れたように濁った灰色だった。サエコは一瞬息を詰め、それから背筋を伸ばして駅に向かった。
電車の中は帰宅途中の社会人らしい人が座席の大半を占めていた。サエコは空席をみつけてそっと腰をおろし、車内吊りの週刊誌広告を眺めた。一枚の紙の中に大仰な書体の文字が飛び交っている。これを見てその週刊誌を買う人は、どんな記事をのぞんで買うのだろうとサエコは思った。そして、私ならグラビアかもしれない、とも思う。
電車の時間は一駅ごとに区切られて、あっという間にすぎていった。サエコは電車から降りてプラットフォームに立ち、階段に向かう人の流れに逆らって、一番隅の方に肩身狭く設置された喫煙所に行った。
タバコをくわえて火をつける。
煙を吸い込みながら、階段を流れてゆく人たちを眺める。この人たちは知らない、と心の中で呟く。
この人たちは知らない。私が病院に通っていることを知らなくて当然のまま知らない人たち。
何となく気分が落ち着かず、せかせかと吸い終えて改札に向かい、駅を出てバスターミナルを突っ切って歩道に入り、早足で自宅へ帰った。まだ日は沈んでいないらしく、濁った空は濁った日射しをもって地面を照らしていた。
いやに重く感じられる自宅のドアを開け、靴を脱いで真っ直ぐに部屋の中心部まで進んで、ローテーブルがあるべきところの傍らに座りこむ。
そして箱ティッシュをたぐり寄せ、すっと一枚引き抜いて鼻をかみ、それはゴミ箱に放り投げて、改めてもう一枚引き抜いた。
それは引き裂くためだった。この作業は、買い置きの箱ティッシュがなくなるまで続けられた。
知らない、とサエコは心の中で何度も呟いた。
家族は知らない、医師も知らない、誰も知らない、公園のあの人も知らない。私がこうしてちり紙を裂くことを、あの人たち、全ての人たちは知らない。
知らない。知らない。知らないまま、知らせないまま、どこまで自分は裂き続けるのだろうか。
何の為に?