scene 5
* * *
定時を告げるブザーが鳴り響いて、ユウタはそろりと席を立った。
席を立つための準備、デスク周りの整理は数分前から目立たないように気をつけながらやっていた。この数分間の緊張感はブザーの音によってクライマックスを迎える。そして微かな罪悪感と決まりの悪さをおぼえながら職場を出るまで続く。
「最近、定時が多いね。仕事ヒマなの」
なるべく静かにドアへ向かおうとしていたユウタに、はす向かいの席の主任が目ざとく声をかけてきた。表面上だけの笑顔は、あからさまな皮肉を孕んでいる。周囲のデスクの二、三人が、ちらりと視線を向けてきた。
「ええ、まあ……すみません」
弁解にも開き直りにもならない言葉を、口の中でごそごそと呟きながらドアノブに手をかける。そして、次の言葉が飛んでくる前にするりと素早く外に出た。
頭の中で、昨日頼まれた書類は作成済みだし、ファイルの整理も今日の午前中に片付けた、そんなことを言い訳がましく思い巡らせながら。
向かうところは、あの公園だった。無意識のうちに足が速まっているのだろうか。公園に着く頃にはまだ、いつも足を止めさせられていた時間にはなっていないらしく、遮断機が鳴りだしていない。最近はずっとそうだった。
なぜこうまで落ち着かない思いをしつつも公園に向かってしまうのか、はっきりと理由付けることはできなかった。ただ、漠然とサエコの存在めがけて進んでいることを実感していた。サエコのいる公園の中では、その傍らの方から聞こえる遮断機の音が遠く感じられ、あまり気にならないことも。
足は迷いなく全ての曲り角と横断歩道を越え、いつもの場所へ辿り着く。
ユウタはそのまま公園に踏み入り、そして立ち止まった。
目の前の光景を見て、右を見て左を見て、また前を見る。
しかし何度見たところで、この日、サエコの姿はなかった。
「何でだろう」
ユウタは低く呟いた。その声は何だかわざとらしいような響きをもってユウタの耳に届き、ユウタはわざわざ声に出して呟いたことを悔やんだ。
しばらく、そのまま立ちつくす。
サエコのいない公園などというのは、考えられないことだった。ユウタが定時で上がってここまで歩いて来る時、サエコの姿は必ず公園に見出せていた。
サエコは週四回程度訪れているといった。今日は偶然、訪れない三回にあたったのかもしれないとユウタは思い直す。けれど心は落ち着かなかった。サエコのいない公園では、ユウタは自分が場違いな人間のような気がした。だだっ広い空間、遊び道具とトイレと水飲み場、そして植え込みとベンチが必要に応じて設置されている空間に、ユウタは一人では馴染めない。そこに呆然と立ちつくしている自分に、うすら寒いものを感じた。
どうしようか。今度は声に出さず、心で呟く。
右手の方から、遮断機がカンカンと音をたてるのが聞こえてきた。踏切から少し離れたこの場所では、その音は心細いように聞こえた。たとえていうなら、夕暮れ時の迷い子のような。
ユウタはその音をぼんやりと聞き、そして電車が駆け抜けてゆくのを見送り、ひとつ息をついて公園を後にした。そうするより他なかった。
そして、翌日の土曜日から次週の火曜日までは残業が続くことになった。
日照時間はだいぶ伸びてきているものの、さすがに残業を終えて帰路につく頃には日は沈んで暗くなっていた。ユウタは夜の公園を横目に見た。中央に一本立つ明かりが周囲だけを照らし、あとは暗く、しんと静まり返っているなかで、トイレが出入り口の四角をぽっかりと光らせていた。植え込みの緑は眠っているかのようだった。遊び道具は獣がうずくまっているかのように見えた。一度たりとも、サエコの姿は見つけられなかった。
ユウタがようやく定時で上がってサエコの姿を見い出したのは水曜日だった。
「こんにちは」
ユウタは公園に足を踏み入れながらほっとした。足早にサエコの座っているベンチへと向かう。サエコはいつもと同じベンチに腰をおろし、タバコを吸っていた。相変わらず、両脇は箱ティッシュの五箱パックが固めている。サエコがユウタを見上げて訊ねてきた。
「こんにちは。今まで忙しかった?」
「ああ。ここ三日間は遅くまで残業だった」
彼女が彼女なりの結論を持たずに何かを訊ねてくるのは珍しいことだった。珍しいといえば、ふたりが話すようになってから、これだけ間があいたのも珍しかった。一週間以上が経っていた。
「そう。大変だったのね。もう落ち着いてきたの?」
「小休止ってところかな」
「じゃあ今のうちに時間の自由を味わいなさいな」
何かを達観したかのような語調でサエコが言い、ユウタから顔をそむけてタバコの煙を吐いた。サエコはタバコの煙を人にかけてしまうことを嫌がっていて、なるべく避けるように顔の向きやタバコを持つ手の位置を変えている。
「でもさ、普段の残業で疲れてるから、家に帰るとそのままゴロゴロしちゃうんだよな」
「まあ、気持ちは分かるけど。でも週末とかには遊びに行くんでしょ?」
「たまにはね」
「良いことよ。遊べる気力があるなら、いっぱい遊んだ方がいいもの」
そう言うサエコの横顔は遠くを見ているように感じられた。どこを見ているのか、ユウタには分からなかった。どこも見てはいないようにも感じられた。
「そっちはどうなの。遊びに出たりはしないの?」
「あんまり興味ないから。まあ、適当にね」
ユウタが訊き返すと、サエコは曖昧に受け流すような返事をしてきた。そうして、ユウタが次の言葉を仕掛けるより早く、バッグをあさって携帯用の吸い殻入れを取り出し、上蓋をひねって開封しながら「あ、そうだ」と切り出した。
「駅の売店。キヨスクって言う? それともキオスク?」
「そうだなあ……キヨスク」
「そうなのよ、JRではウェブサイトでもそう表記してるじゃない。でもキオスクって言う人もいるでしょ」
しかも、キヨスクもキオスクも一発でカタカナに変換できるし。――サエコは口早に喋りだした。
「それに、綴りはkioskだしね」
「そう言われると自信がなくなってくるな」
「でしょう。私もそれで迷ったんだけど」
キヨスクか、キオスクか。どうでもいいけれど、気になりだすと気になってしまう。どちらかに結論付けなければ気がすまない。考えた末、サエコはインターネットのワード検索にこれらをかけてみることにしたという。
「そうしたらね、キオスクの方が七千件近くもヒット数が多かったのよ」
「じゃあキオスクなんだ? でもキヨスクって言う人の方が多いような」
「私もキヨスク派。それで、それぞれのヒットしたページを見てみたんだけど、トルコ語だかラテン語だかが由来らしいとか書いてあって。最後に見てみたページにね、キオスクはキヨスクともいうって書いてあるじゃないの」
「じゃあ、どっちでもいいんだ」
「そうらしいのね。トルコ語もラテン語も知らないから、私には断言できないのが悔しいところだけど」
「俺も、どっちも知らないな」
サエコはさらさらと喋り続けた。そうして会話は流れてゆく。サエコが主導権を握ったまま、サエコは話したいことだけを選びながら。
そうした流れを、もしユウタが不満に感じていたら、ふたりはこんなにも話し続けてはいなかったかもしれない。あるいは、もっと深く突っ込んだ内容を話していたかもしれない。けれどユウタは、いつしか話すということ自体に意味を感じていた。サエコが不快でなく喋り続けている分には、内容はどうでもよかった。
ユウタは会話に応じながら、首は動かさず視界に入るかぎり公園を見回してみる。あるべきところにある遊び道具、トイレ、水飲み場、植え込み、ベンチ。そしてタバコを吸っているサエコ。
ユウタは安心して会話に応じる。
公園の向こうから、遮断機のカンカンと鳴る音が聞こえてくる。今日はのどかに遠く聞こえる。