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ちり紙  作者: 城間遙子
4/10

scene 4

   *   *   *

 

 この日も、サエコは両手に箱ティッシュ五箱パックをさげて帰宅した。

 そこは、洋間で八畳程度の部屋だった。家具は必要最低限におさえ、クローゼットとミニキッチンとユニットバス、そして一人暮らし用の部屋としてはいささか広すぎるバルコニーがある。今の勤め先に入社が決まって、大学を卒業してからずっと住んでいる。もう五年になるだろうか。

 サエコは今の勤め先で休職中という立場にあった。

 その会社には、適当な理由と条件がかみ合って入社した。続ける気があったわけではなく、かといって辞める理由もないまま、それでもそれなりに仕事にやりがいを見い出して勤めていた。

 時間が流れるのは早く、サエコは次第に、この会社という社会に埋もれていった。穏やかな、ぬるま湯のような時間。微かな焦りをも宥めるような。

 それが変わったのは、所属する課の課長が定年退職で交代した時だった。サエコは新しい課長から俗にいうパワーハラスメントを受けた。

 虫の合わない人間というのは、どこにでもいるものだ。サエコにとっては新しく所属することになった課長がそうだった。いや、サエコにとってはどうでもいい相手だったものが、不幸にも向こうにとってはどうでもよくはなかった。

 査定の結果を説明するための二者面談で、サエコは今までに見たこともないようなD判定を見せつけられた。――何ですか、これ。そう呟いたサエコに向かって、新課長は「それは、責任感や積極性とかを含めた総合評価だろう」と口をもぐもぐさせながら呟いた。どもりがちの言葉に、サエコが「責任ならちゃんと持って働いてますよ。だから納期だって、いつも間に合わせているんですし。積極性にしたって、自分の手があいたら周りの人の手伝いに出向いているじゃないですか」と固い声で反論すると、さらに口をもぐもぐさせ、ほとんど聞き取れないような語調で「でも、これは他の全ての部課長たちに見せた上での結論だから」と言ってとりあおうとしなかった。サエコと目を合わせようとはせず、始終うつむいていた。あとはどう抗議しても暖簾に腕押しだった。そのうえ、どう頑張っても性能の悪さが隠せないような廃棄寸前の機材をあてがわれたあげく、お前は人並み以下の仕事量しかこなせていないと言われた。耐えかねて会社を辞めようかと同僚にもらすと、それはすぐに課長に伝わり、呼び出されて「辞めるならば止めない」と言われた時に、サエコの怒りは爆発した。

 サエコは首をかけて全てを表沙汰にした。査定の結果に関しては、確かに他の部課長にも見せていたようだが、それは事後承諾のようなもので、他のセクションの部課長が査定に口を出すわけではないのだと、問題の課長の後にすえられた課長によって知らされた。結果として課長は他の課へ異動になった。とりあえず平穏が戻り、「本来ならば、こんなにまで急激に上げることはできないのだけれども」と前置きされて提示された翌年の査定は、不当に落とされる以前に戻っただけの点数だった。あのまま順調にいけていれば、もう少し上の点数だったはずだとサエコは思った。

 それからの一年間は、ただがむしゃらだった。気がつけば、査定の点が全てになっていた。

 穏やかに、それなりに勤めていただけの会社。そこでの評価が、いつしか自分の価値を示す全てになっていた。思うように評価されないとすれば、それは自分の無価値と、自分の努力の無意味さをあらわした。

 サエコは、自分の価値において、意味において、他者からの評価に依存するようになっていた。

 そしてほんの些細なミスをおかした時、それまでの意地は湯に落とした角砂糖のようにボロボロと崩れていった。そうなるまで依存していた自分自身の愚かさとともに。

 結局、査定の評価にこだわりすぎたことが原因となってサエコは半年ほど前から鬱病にかかり、自分の症状に合った薬がみつからないことで病気は悪化して、ついには日常生活を送る自信がなくなった。それを新しい課長に話したのが、今から三カ月ほど前のことだった。

 症状はサエコにとって不安と混乱の連続だった。夜はうまく寝つくことができず、朝は夜明け前に目を覚まし、昼間はギリギリのところで綱渡りのように乗り切っている感じがあった。仕事をしていても、手は経験に基づいてちゃんと動いているのにもかかわらず、頭の中では自分が何をしているのか把握できなくなっていた。混乱しながら自分には出来ないんだと思いこみ、けれど仕事の手はきちんと動いており、そして更に混乱する。

 夕方は最悪な気持ちになった。もうすぐ夜になって、夜がすぎたら朝になってしまい、また不安と混乱の一日がはじまってしまうことに焦躁し、鬱然とした気持ちをおぼえた。

 考えることといえば、真綿で首を絞めるような、丹念に使い潰していくような、あるいは半永久的なぬるま湯のような会社に生活面で依存をしながら、不毛で単調な生活に甘んじている自分の情けなさ、みじめさだった。何もしたくないような、消えたいような気持ちと、何かをしなければというような気持ちと、何もかもが駄目になってゆくような気持ちが頭の中をぐるぐると回って入り乱れた。何もかもが重く、何もかもが終わってくれないかと願い、かといって終わってしまったらどうしよう、とも思った。誰かと向かいあう時、笑おうとすると顔がひきつった。

 治療は、自宅から小一時間ほど離れたメンタルクリニックで受けることになった。週に一度の通院。鬱病のための薬は多すぎるほど種類があり、それらの大半は効果があらわれるのに半月程度を要した。サエコは医師と相談しながら一カ月ずつ試していった。何とかなりそうな薬に出会えたのが二カ月前の年賀状の返事を出しに行った時あたりで、それからは効果がほどよく上がるまで薬の増量が行なわれた。現在は、毎食後にトリプタノール五〇ミリグラム、ドグマチール五〇ミリグラム、セパゾン二ミリグラム。そして就寝前にロラメット二ミリグラム、マイスリー一〇ミリグラム、ヒルナミン一〇ミリグラムで落ち着いている。

 休職するようになって、もう三カ月が経とうとしている。一時間、一日は途方に暮れるほどゆっくりとすぎ、一週間、一カ月は、あっという間にすぎていった。

 実家からは休職している間だけでも帰って来いと言われているものの、サエコは一度一人暮らしの気ままさを知ってしまったからには、もう帰るのは難しいと思っていた。家族が精神病を病んだ自分にどう接してくるのかを考えると不安だった。腫れ物のように扱われるのは嫌だった。気狂いのように見られたらと思うと怖かった。

 結局、家族には曖昧なまま通してしまうのかもしれない。今だからこそ甘えたいような気持ちがあった。今だからもう甘えられないという気持ちもあった。どちらにもつかずに曖昧なまま。

 

 サエコは部屋の真ん中に立って箱ティッシュのパックをおろした。

 夕暮れが間近にせまる部屋は薄暗くて、ベッドのあるべきところ、ローテーブルのあるべきところ、組み立て式の棚があるべきところ等がひっそりと影のように佇んでいる。

 床に直接座り、パックのビニール包装に爪を立てて破り、一箱取り出して開封し、指先でつまんでティッシュを抜きとった。開けたばかりの箱からは、二枚のティッシュが重なってあらわれた。

 その二枚のティッシュを目の前でひらひらとはためかせて一枚落とす。手に残った一枚は、左右の親指と人さし指ではさんで一気に引き裂いた。ジャッというファスナーをおろすのに似た音がして、ティッシュは綺麗に半分ずつに裂けた。

 サエコは、その動作を何度となく繰り返した。膝元には破れたティッシュが降り積もった。

 薄闇のなか、ティッシュの白はぼんやりと浮かびあがり、部屋の輪郭をぼやけさせる。

 ぼやけていく一人の部屋。世界。サエコはいつか見た光景を思い出しながらティッシュを裂いた。いつか、自分もその中に加わっていた光景を。

 

 そこは実家のリビングだった。結婚して家を出た姉が、生まれて一年経とうとしている子供を連れて帰ってきていた。サエコはまだ病んでおらず、会社の休日を利用して両親に顔を見せに来ていた。自分にとって姪にあたる子供に会うことも目的だった。小さな子供は一瞬たりとも落ち着くことはなく、人見知りもせず、周りに愛想を振りまいて可愛かった。

 祖父となった父が、優しいおじいちゃんの顔をして子供を抱き上げる。

 そしてリビングのテーブルに座らせた。子供は無防備に座ってあたりを見回している。

 子供がウマウマと喋りながら、テーブルに置かれていた箱ティッシュに手を伸ばした。小さく柔らかい手が、ティッシュをするりと引き出す。

 姉が、いつもこうやって遊ぶんだよね、と子供を見ながら言う。

 子供は両手を使ってティッシュを目の前に広げ、おもむろに裂いた。一枚の白いティッシュは見事に半分ずつになった。

 サエコはその裂いた勢いに、その鋭さに、ハッとさせられながら周りに合わせて子供の行動を見守っていた。

 子供は二枚に裂いたもののうち、片方をひらりと落とし、残った片方をまた半分ずつに裂いた。そしてまた片方を落とし、残った方を裂く。ティッシュがだんだん細くなっていく。それは子供の気が済むまで続けられた。

 大人たちは小さな子供を囲んで見守りながら笑っていた。みんな笑っていた。

 

 いつの間にか日は沈み、部屋は大雑把な輪郭しか分からないほど暗くなっていた。サエコは明かりもつけないまま、ティッシュを裂いた。ひたすらに裂き続けた。

 呼吸する音さえ聞こえてきそうな空間、静けさが孤独を伴って覆いかぶさってくるような部屋の真ん中で、サエコの手がティッシュを裂く音だけが低く響き続けた。

 そして機械的に動かしていた手が、箱からからっぽな反応を返された時、サエコはようやく我にかえった。まるごと一箱ぶんを裂くことに使いきっていた。膝の上と周りには、毛羽立った膝掛けのようにティッシュが散っていた。

 そこでサエコが迷ったのは一瞬だった。

 飢えたような目でサエコは残り四箱のパックを見やり、手を伸ばした。一箱取り出し、開封し、そしてまた繰り返される。

 サエコは単純作業を続けながら、ふと、公園で話しかけてくるあの人は自分のこんな姿を見たらどう思うだろうと考えた。体力が落ちないようにと歩いて通っている公園で、いつも飄々としたふうに話しかけてくる人。最初は自分から声をかけてきたくせに、いつからか聞き手にまわっていた人。彼が定時で上がれた時だけ、週二回くらいの頻度で少し会話するだけの人。

 そういえば、とサエコは思いつく。鬱病になってからというもの、誰かと話すと、その会話が弾んだものであればあるほど後からきつい落ち込みに苛まれるものを、彼と話した後には何もなくて済んでいる。見慣れただけの気楽な他人とでもいうのだろうか。それとも特別な何かが彼にはあるのか。

 サエコは、ユウタから名前を訊いていなかった。逆に、ユウタもサエコの名前を知らない。二人の間には、あの公園だけがあった。そこから一歩でも出たら、あとはもう何も知らない。

 そんな彼は、この姿を見たら気味が悪いと感じるのだろうか。無駄使いはやめろと言うだろうか。それとも一緒にティッシュを裂くか。

 サエコは裂きながら色々なシチュエーションを想像した。手の機械的な動きを、より機械的にするために、意味のない想像を繰り返した。

 ティッシュを裂く音、それはいくら聞いても聞き飽きることのない音だった。聞いていても感情が満たされることはなく、ただひたすら聞いていられる音だった。


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