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ちり紙  作者: 城間遙子
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scene 2

   *   *   *

 

「こんにちは」

 春も終わりに近づいたある日、公園のベンチに座ってタバコを吸っているサエコに、ユウタが声をかけてきた。

 サエコは怪訝そうに見上げてみる。自分と同年代らしい男性。サエコはなぜ自分が声をかけられたか分からない。けれど、分からないのは声をかけたユウタ自身にとっても同じことだった。なぜ自分は今、あの遮断機を無視して公園に踏み入り、横顔だけは見慣れている、ただそれだけの赤の他人に声をかけているのだろうと疑問に思う。

「……こんにちは」

 とりあえず、サエコはとっさに挨拶を返していた。

「よく、ここで見かけるから」

「はあ」

「だから、公園の中はどうなんだろうって」

 言い訳はリアルタイムで考えながら口を衝いて出た。何を話したくて声をかけたのか頭の隅で自問しながら、言葉だけかろうじて繋ぐ。

 サエコは訝しさを感じつつ、公園を見渡してみてから「いい公園だと思いますよ」と受け答えた。どちらにも意味が掴めないまま、対話はギリギリのところで進んでいった。

「桜、もう散ってしまいましたね」

「その代わりに躑躅が綺麗ですよね。この花壇の躑躅は色が綺麗に出てる」

「はあ。……あの、ここはあなたの散歩コースとかなんですか」

「多分そういうことになるんだと思いますけど、何でですか?」

「どっちでもいいんですけど、ある日から突然、あなたの姿を見るようになったから」

 ユウタにとって、この道は通勤で毎日歩く道だった。サエコは特にこの道を通る必要はない。ただ、郵便局へ行ったあの日以来、この公園を気に入って、頻繁に一服しに来るようになっていた。公園は時として本来の主役である子供たちが遊んでいたりもしたが、それでもやはりどことなく穏やかだった。

「ある日突然、ここを気に入ったから」

 サエコはそう言って少し笑った。ユウタもつられて笑う。

「はじめて見た時、あなたが鼻をかんでました」

「そんなところを見られてたんですか?」

「すごく気持ちよさそうでした」

「それは、まあ、気持ちよかったですけど」

 何だか変わった人だ。ユウタは話しながらそう思う。そんな彼女に声をかけたという自分の行動も、十分変わっているけれど。

「毎日ここへ来てるんですか」

「週四回くらいですかね。そちらは毎日ここを通ってるんですか」

「はい。それで、定時の時に毎回あなたを見かけました。――公園から見た桜は綺麗でしたか」

「ええ、綺麗でしたよ。踏切のところからはどうでしたか」

「もったいないことしたかな。よく見てなかった」

「あらら。じゃあ、今の躑躅を堪能するっていうのはいかがですか」

 どうして、彼女に声をかけてしまったのだろう。話しながらユウタは考える。

 理由はきっとひとつではない。

 たとえば仕事でちょっとしたミスをしたこと。職場の皆が残業しているなかで、どうしても残る気になれず定時で上がってきてしまったこと。会社からここに来るまでの道で、三回も赤信号で待たされてしまったこと。

 あと、今日は普段以上に、遮断機のカンカンという音が耳に響いてしょうがなかったということ。

 そんな些細なことが降り積もり、そして植え込み越しの彼女が羨ましいほど自由そうに見えたことが。

「――じゃあ」

 戸惑いを隠せないまま対話についてきていたサエコが二本目のタバコをくわえた時、ユウタはちょっと手をあげて、その場を離れる言葉を口にした。

「ええ」

 サエコはそれに応え、そしてタバコに火をつけた。最初の煙を吐き出す時にはもう、いつもの一人の自由な世界に戻っているようにみえた。



 それからというもの、ユウタは度々サエコに声をかけるようになった。話の内容はいつも些細なことだった。天気の話、季節の話、新聞の一面記事になるようなニュースについて。

 サエコは毎回、戸惑いながらそれに応じていた。なぜ赤の他人から話しかけられなければならないのか、そのわけは分からないままだった。

 戸惑いは公園の居心地を微妙に悪くした。この公園におけるユウタの存在には違和感があった。サエコは公園から足を遠のかせようとも思ったが、けれどそれは何となく敗北のような気がして、とりあえず踏みとどまることにした。踏みとどまってユウタとの対話に応じているうちに、サエコはユウタに対する戸惑いや違和感がだんだんどうでもよくなっていった。慣れた、といってよかった。

 

   *   *   *

 

 サエコがユウタという異質なものに慣れた時、サエコはユウタに対して雄弁になった。

 初めて話した時の、あるいはまだ戸惑っていた頃のような受け身な姿勢は、今となってはむしろユウタの方がとっていた。サエコはユウタという異物を呑んでなお自由だった。少なくとも、ユウタにはそう感じられた。

 最初にサエコに話しかけた時、ユウタは見知らぬ他人に話しかける『おかしな人』だった。けれどサエコはそのおかしな人を受け入れてしまう、さらに『おかしな人』だった。

 そしてユウタが最初に羨み、求め、引き込まれたサエコの自由は、どこまでもサエコの自由だった。ユウタはその自由の匂いを傍らで嗅ぐ。自らは発していない匂いを、匂いの源の近くにいることで自らも匂っているような錯覚を味わう。自分にその匂いが染み込んでゆくような思い違いを快く受けいれる。

 それまで遮断機の前に立ちながら見やっていた、『自由そう』という幻想を。

 

「いつ、いかなる時も」

 ある時、サエコが仰々しく口を開く。憮然とした表情で。

「バッグにはタバコと吸い殻入れと財布と部屋の鍵、それとちり紙だけは忘れないように気をつけてるのよ」

 サエコはティッシュのことを『ちり紙』と呼んだ。二人の世代では、小さい頃には『ちり紙』と呼んで、成長するに従って『ティッシュ』と呼ぶようになったはずだとユウタは記憶している。はじめてサエコの口から『ちり紙』という言葉を聞いた時は懐かしさを感じた。それはともかく、サエコのバッグの内ポケットには必ず、小さく折り畳まれたティッシュが五枚ほどしまわれて出番を待っていた。ポケットティッシュを持つ習慣はないようだった。――駅前で配られているものを貰った時は別として。

「それはまあ、実際大事なものだけど」

 ユウタは、次の言葉を促すように相槌をうつ。

「だけど、よりによって肝心なライターを忘れてきたのね。おかげで公園に来た意味が半減したわけよ」

 忌々しそうにそう言って、サエコは缶コーヒーに口をつける。サエコは、自宅にも勤め先にも近くはないこの公園に、一服するためにわざわざ週四回も通ってきているらしかった。時間の都合はどうつけているのか、ユウタには分からない。

「肺のためには良かったんじゃないかな、たまには」

 ユウタはタバコを吸わないから、当然ライターも持ってはいない。貸してやることはできない。

「それはそうだけど、でも何かね、たとえば餃子のタレにラー油が入ってないみたいな感じがするのよね」

「なるほど」

 こんな時、ユウタは夕立ちが通りすぎるのを待つようにしてサエコの表情が変わるのを待つ。

 ふと視線をさまよわせて見上げた空は六時をすぎてもまだ青い。翳りだした青は妙に静かだ。


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