Ending
そして季節は移り変わり、公園の桜は葉を落とし、空はおし迫るように徐々に低くなってゆき、水道の水は手がちぎれるかと思うほど冷たくなり、冬が訪れた。
――こんな結末を、サエコにしろユウタにしろ、どちらかでも考えただろうか?
ユウタはある金曜日に定時で上がった。久しぶりに定時で帰れることになり、デスクを片付け、パソコンの電源を落として席を離れた。今となっては主任から皮肉をいわれることもない。会社の外に出ると、六時でももう夜のように暗く、頬をかすめてゆく風は冷たかった。足許では昨日降った雪が足跡やタイヤ跡ででこぼこに凍っていた。
あの踏切でまた足を止められたユウタは、遮断機がカンカンと叫ぶなか、視線を逸らして公園を見やった。公園の中は雪が青ざめたような白さで積もっていた。子供が雪遊びをしたらしい痕跡は思いのほか少なかった。
鳴り響く遮断機の音は頭の中で飛び回り、ユウタから思考を奪った。ユウタは本能による反射のような動きで公園へと足を向けた。踏み入ると、積もって表面だけ凍ったらしい雪がサクリと音をたてた。
公園は、中央にたつ明かりひとつと、片隅のトイレの出入り口から洩れる四角い明かりで照らされていた。ユウタの足は、春から梅雨にかけてサエコとすごしたベンチへと動いた。それは自然な動きだった。公園では、他に足を運んだことなどなかった。いつだってユウタはサエコの方に進んでいた。公園といえばサエコだった。
右の隅に設置されたベンチは、雪が積もっていて座れそうになかった。もともと座る気はなかったものの、そこにサエコが座る可能性が絶たれたような寂しさをユウタはおぼえた。
あたりは真っ白だった。その白さは、ユウタにサエコの部屋の異常な白さを思い出させた。ここは真っ白な世界。ならば、彼女がここにいて、あの日のようにティッシュを裂いていてもいいんじゃないだろうかとユウタは思う。そうしたら自分はまた止めに入り、彼女を見つめる。いざとなったら一緒に裂いても構わない。彼女が埋もれないように見守りながら。
ユウタは白い息を吐きながら少し足踏みをして、ぐるりと公園を見渡した。日没後の暗さに色を落とし、雪に凍えた遊び道具たち。自分がここでは場違いな存在だということを居心地悪く感じながら、ユウタはもう少し、あと少しだけ、と立っていた。
「何やってるの」
その声は突然耳に刺さった。
ユウタは背後から突然殴られたようなショックをおぼえ、その驚きが表情にもはっきりとあらわれているまま、撥ねるように振り返った。
そこには、サエコが雪を踏みしめて立っていた。表情を決めかねたような、目だけがくっきりと見開かれた顔をしていた。
ユウタは呆然と立ち尽くし、ふたりの間に白い息が何度か流れた。「……今日は」――やっと押し出した声は、少しかすれていた。
「今日は、金曜日だから。来ないかと思ってた」
サエコは表情を変えられないまま、喋りにくそうに答えた。
「もう、金曜日は関係ないから。通院が終わったから」
「そういえば病気だって言ってたっけ。結局どこが悪かったの」
「……頭よ。ちょっと、頭の調子が悪かったの」
「……そうだったんだ」
ユウタは目を細めて空を仰いだ。深く、冷たく澄んだ空。小学生の頃に習った星座が点々と配置されているはずの黒い空。その星たちの名前は、もうオリオン座くらいしか憶えていないけれども。
「ねえ、あなたは何でここにいるの」
「今日は定時で上がれたから。……そっちこそ何で来たんだよ」
「……郵便局に用があったのよ。不在通知が来てたの。だから、郵便物を受け取りに来たのよ」
話したいのは、こんなことだけではないだろう。今度こそはっきりさせておかなければならないことが、いくつだってあるだろう。ユウタは空を仰いだまま、胸の鼓動が落ち着くのを待つ。体中の血がざわざわと沸き立って、心臓が破裂するのではないかと思うほどだった。
「君は。今まで、どこにいたの。この公園に来なかった間」
「……実家に帰ってたの」
サエコが僅かに苦しそうな表情をみせた。詰まり気味の語調で話を続ける。
「あの日の二日後、母が様子を見に来たの。それで、とにかく帰って来ないかって言うのよ。お前が本来のお前に戻るためなら何でもするから、帰って来ないかって言うの。帰らないわけにいかないじゃない」
「……それは、そうだね」
一息に喋ったサエコに対して、ユウタは静かに相槌をうった。他にどうしようもなかった。
サエコが郵便局へ行った帰り道にこの公園へ寄ったのは、何となくあの日々を思い出したからだった。心が病んでいた日々。ともすれば自分独りの苦しみに閉じ籠もりそうななかで、ユウタに声をかけられ、とりとめなく話した日々。この公園の色、世界、そこに届く遮断機や電車の音。まさかユウタがいるとは思わなかった。
「君は。もう元気になったんだ? 通院が終わったってことは」
「……元気よ。あなたは元気だったの」
「一応は元気だったよ」
空を仰いでいたユウタが、今度は足許に視線を落として言葉を返した。まつげに息がかかって、寒さのなか視界が滲む。
今度こそ、訊かなければ。名前を、携帯電話の番号を、また会えるのかを、訊かなければ。暗黙の了解ではなく、はっきりとした約束を交わさなければ。
早く訊ねなければとユウタは思っている。ここでもし訊ねられたらはぐらかさず応えようとサエコは思っている。
公園には沈黙があった。呼吸をあらわす白い蒸気がふたりの間に何度となく流れた。どちらかが身じろいだ瞬間に、全ては切り出されるかに思えた。
その時、ユウタが、すんと鼻をすすった。
サエコは何かに気付いたように「あ」と呟いてバッグに手を入れた。そして、小さく折り畳まれたティッシュを取り、ユウタに差し出した。
「ちり紙。使って」
ユウタはためらいがちに「ありがとう」と言ってそれを受け取った。それから、横を向いて思いきり鼻をかんだ。雪に音が吸収されたかと思われるほど静かだった公園に、その音ははっきりと響いた。
サエコは、それを満足そうに眺めた。その音を聞きながら、まるで自分の鼻がすっきりしたかのような快さを感じていた。