嘗て勇者が失ったモノ
前回の続きをお楽しみ下さい。
「ーーあ、あの……」
まるで、真紅色の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
本来なら痛烈な印象を受ける瞳の色。
ーーだが。その眼は、終始優しい眼差しでこちらを見下ろしている。
その優しさが嬉しい筈なのに、とても気恥ずかしくて堪らない。
それにーー何だろう。
まるで警鐘のような、この胸の高鳴りはーー。
異性にこんな事…涙を拭われたりした事が、初めての経験だったからだろうか。
いや。もしかしたら、心の何処かで本当にこのまま吸い込まれても構わないと思っている自分が居るのかも知れない。
とにかく。何かがおかしい。
顔もーー。身体もーー。
とても熱い……。
「泣き止んだ?」
白銀の髪の少年は、自身の上体を起こしてそう言うと、ティファニーの手を取り、程好い力で身体を引き起こしてくれた。
「……はい」
手を放そうとすると、逆にギュッと力を込められる。
驚いて顔を上げた途端、少年は爽やかに微笑んだ。
「改めまして。俺は、ロージック ジェファーソン。これでも一応、魔王族の第二王子なんだ。宜しく」
正しくそれは、理想的な王子様スマイルそのもので、純朴なティファニーは、その美しさと溢れ出す気品に思わず舌を巻いた。ーーと同時に、激しい後悔にも襲われる。
彼には、とんでもない失礼な言動を、多々浴びせてしまった。
しかも、『王子様には、ご内密にして頂けないでしょうか?!』等と、口封じまでさせてしまったのだ。
今度は、己の愚行に思わず涙が出そうになる。
ーー本当は、私がきちんとした侍女だって所をお見せしないとーー……。
ティファニーは、何とか気を引き締め直し、姿勢を正して手を腹部の前で組んだ。
「申し遅れました。私は、ご指名を賜りましたティファニー ポジットで御座います。王子様とは知らずご無礼を働きました事、心からお詫び申し上げます」
ずぶ濡れの姿でするかしこまった謝罪は、傍から見たら滑稽に映るかも知れない。若しくは、逆に怒りを買ってしまうかもーーと、恐る恐る頭を下げる。
「良いんだって! 嘘を付いていた俺の方が悪かったし! それに、俺がお墓の裏に隠れていたからこんな事になったんだ。ーーだから、まぁ挨拶はこれ位にして、取り敢えず城へ帰ろう。こんな恰好じゃあ、二人共風邪ひいちゃいそうだ」
「お城……ですか??」
「うん、あれだよ。君が働く魔王城はーー」
そう言いながらロージックが指差した先には、見た事も無いような形状の、巨大な古城がそびえ立っていた。瞬間、ティファニーは、当然と言えば当然の事に気が付く。
「それじゃあ、ここは?!」
「魔界だよ。咄嗟の事で良く覚えていないんだけど、崖から落ちた時、瞬間移動する魔術を使ったんだ。まさか魔界まで来ちゃうなんて、自分でも驚いた」
「ーーーーすごい……」
壮大な魔術の力に圧倒されながら、初めて魔界の地に脚を付けたティファニーは、やや興奮気味に周囲をぐるりと見渡した。
噂で聴いていた通り、魔界は、一面が青黒い広大な湖で囲われていた。
湖面上の一帯は、日中と言うにも関わらず朝靄のように霧が掛かっていて、船で人間界と行き来するのは、土地勘や方向感覚の優れた者で無いと至難の業であろう。
王都からは大分距離があるのか、現在立っている湖畔は人の気配が全く無く、夢の世界にでも迷い込んでしまったのかと錯覚をしてしまいそうだ。
「けど、かなり魔力を消費しちゃってさ。ここから城まで歩くしかないんだけど、大丈夫?」
「はい。私は平気です」
「良かった」
安堵の表情を見せたロージックは、早速、魔王城へ向かって歩を進める。
ティファニーも、それに続いた。
それから暫くの間。彼が何も話をしなかったので、二人は、お互い干渉せず草の中を無言で歩き続けていた。
途中でロージックの様子を確認する。
余程寒いのだろうか。彼は身を縮めながら、ちょっと怪訝な表情を作っている。何かを深く思案しているようにも思えるが、こうゆう表情をしていても左目の眼帯を諸共しない程の少年だ。
それに、王族なのにも関わらず、砕けた喋り方や親しみ易い立ち振る舞いは、とても好感が持てて可愛らしい雰囲気と人柄だ。
ーーきっと私より二、三歳は年下ね……。
そんな事を考えた矢先の事だった。
寒さで身を震わせていたロージックが、突如大きなクシャミを発する。
ティファニーは、自分の上着を彼に渡そうかと、手元に眼をやった瞬間、ある事に気が付いてしまった。鞄をトレマス島に置いてきてしまったのだ。
だが。今更、彼にそれを伝えた所で取りに戻れる訳が無い。
それに、鞄の中にはそれ程大切な物は入っていなかった。
着替えや本など、どれも替えが利く物ばかりだ。
お金に困ったら、それさえも手放す覚悟は出来ていたし、無くても特段支障は無い。
言い換えてみれば、自分には、大切な思い出の品が全く無いーーと言う事にもなってしまうのだ。
「……ロージック様?」
ティファニーが、思い切って声を掛けると、怪訝そうな顔のまま、首だけこちらに回して答えた。
「んん?」
「ーー……あの。ロージック様は、私の事が恐いとお思いにはならないのですか?」
「君を?? どうして?」
「普通でしたら、自分が死ぬかもしれないのに、【呪われた侍女】なんかを雇ったりしませんから……」
「あぁ、そんな事」
鼻を啜りながら答えた彼に、ティファニーは、思わず面食らってしまった。
そんな重要な事を忘れていたとでも言うのか。それとも。彼にとっては、意識する程大した事では無いのだろうか。
「結論から言うと、別に君の事は恐く無い。でもだからって死ぬのが恐く無い訳じゃ無い。俺が恐いのは、呪いなんかで死ぬ事よりもっと違う別の事…。俺は唯君が必要だから君を雇った。それだけ。だからそんな事気にしないで仕事しながら普通に生活をして。何も負い目を感じる必要はないから大丈夫だよ」
ーー呪いよりも恐い事って何かしら……。
ーーでもそうね。呪いが恐かったら、あんな事は絶対言わないもの……。
『大丈夫だ! 心配するな、ティファニー ポジット! 魔界の王子が言ってた。君が【呪われた侍女】で無いと証明するのは、この俺だーーってな!』
トレマス島で言われた言葉を思い出した時、怪訝そうに歩くロージック横顔に、今は亡き嘗ての主人、アクシスの横顔が重なって見えた。
彼の正体を知った今、その王子とは、ロージック自身の言葉なのだからーーーー。
ーーロージック様って、何と無くアクシス様に似てるみたい。
ティファニーの心が、薄っすらと色付き始めていた。
☆彡
排水溝に、どす黒い液体が渦を巻いて呑み込まれて行く。
男は、月に一度はこの光景を眼にしながら、自前の金髪を黒く染めていた。
今もこうして、主人と追いかけっこをしてかいた汗と共に、染料を流し終えたところだ。
「……。」
壁鏡の中に映る、黒髪の男の顔を見つめる。
左目の下に刻まれた星型のタトゥーを指で撫でながら、もう自分は、戻れない所まで来てしまったと思った。寧ろ、それならそれで全く構わない……ともーー。
「王位継承の試練が何だってんだ! 【運命の恋人】なんて糞っくらえなんだよっ!」
鏡の中の、消したくとも消せない記憶を背負ってしまった、もう一人の自分へ向けて怒りを吐き捨てた。
ーー三年前。
崖から転落死した筈の彼は、『再生魔術』によって、再びこの世に甦った。
患っていた重病はすっかり消えており、ロージックから分け与えられたと思われる魔力も、僅かだが備わっていた。
人間でも魔族でも無い、宙ぶらりんの異端な存在ではあったが、男は、そんな事で思い悩む根暗な性格では無かった。
ーーでは一体、何が彼をここまで変えたのか。
答えは、ロージックから与えられた、彼の新しい右腕にあった。
魔界には、嘗て世界戦争で人間から奪った、唯一の戦利品がある。
【勇者の右腕】ーーと呼ばれるモノだ。
人間界では、世界戦争に勝利したのは人間の方だと、未だ語り継がれているが、真実はそうでは無い。
事実上、戦争に勝利したのは、魔族の方だった。
魔族は、脅威であった勇者の片腕を切り落とす事を条件に、今後人間への最終攻撃を仕掛けないと言う平和協定を申し出た。
魔族にとっても、甚大な被害と戦死者を生んだ世界戦争。元々の人口比率が人間より少ない魔族側も、これ以上の損害を出したく無いのが真の狙いでもあった。
最早、戦況に置いて危機的立場に置かれていた人間陣営もその条件を呑み、長きに亘った世界戦争に、やっと幕が下された。
その時の戦利品である【勇者の右腕】は、長い年月もの間、人目に触れる事無く魔王城の地下にて保管されていたのだがーー。
ロージックが、アクシスの『再生魔術』に使用した右腕こそ、戦争を終結へと導いた勇者のそれーーだった。
ーーこうして、
ーー【勇者の右腕】は、偶発的に、嘗ての主人の元へと無事に帰還を遂げたのだーー。
男は、全ての記憶を取り戻した。
遠い昔、己が勇者であった事。
主従関係にあった、【運命の恋人】の事。
その【運命の恋人】の裏切りにより、腕を切り落とされ、やがて命を落とした事も、全てーーーー。
許せる訳が無かった。許せる訳が……。
そんな事も忘れ、虚像の愛を信じて彷徨い、幾度も人生を繰り返してきた。
そうーー。
無駄だったのだ。
生きていた時間も。死んでいた時間も。
哀しみと怒りで気が狂いそうだったーーーー。
アクシスは、【運命の恋人】の存在そのものを憎み、これから生きていく人生から【運命の恋人】を抹消する事を心に誓った。
例えロージックの力で【運命の恋人】と引き合わされたとしても、向うに気が付かれる事が無いよう、容姿や話し方まで変え、別人となるよう尽力した。
まさか、こんな形で顔に模様まで刻む事になるとは思いもよらなったが、結局は、自分で出した答えに変わり無い。
【運命の恋人】を忘れ、別人として、静かに幸せに生きたいーー。
それが、彼の今の願いだった。
ライムは、シャワー室を出ると、何時もの騎士服に着替えを済ませた。
髪を乾かし、仕上げにもう一度鏡を覗き込みながら、黒い化粧で目の周囲を塗り潰す。
ーー完璧だ。
今まで繰り返して来た、どの人生の自分ーーでも無い。そんな己の姿を確認し、満足げに自室を後にした。
するとーー颯爽と廊下を歩く異質な黒騎士を、背後から呼び止める者が居た。
振り返ると、同僚の騎士が、ロージック王子がティファニー ポジットを連れて帰って来たと知らせをくれた。
彼に礼を言い、魔王城のエントランスホールへ向かう。
ティファニーに逢うのは、三年ぶりだ。
あの、ちんちくりんだった彼女は、どんな風に成長しただろう。少しは、大人っぽくなっただろうか。
そう想うと、自然と脚が速まっていた。
勿論。ティファニーが、こちらに気が付く事は無い筈だが、それで構わない。
寧ろ、あの約束を守れなかったのだから、逢わせる顔も無いのだーー。
階段の踊り場からエントランスを見下ろす。
するとーー計ったようなタイミングで重厚な扉が開かれ、僅かな外光と共に一組の男女が城内に入り込んで来た。
男は、王子であるロージック ジェファーソン。
女の方は……間違いない。ティファニー ポジットだ。
ーー……マジかよ……。
顔も身体のラインも美しく成長したその姿に、ライムは、思わず息を呑む。
だが直後ーー、ある事に気が付き、訝し気な眼差しで彼らを見つめた。
何があったのだろう。
二人とも頭の先からつま先まで、びしょ濡れの姿だった。
更に、ティファニーのロージックを見つめる眼と表情にも、やけに違和感を覚えた。
その変化は、彼女が成長しただけと言う理由では、到底収まらない。
今迄繰り返して来た人生の中で、ライムは、その表情をしている女たちに多々見覚えがあった。
その表情をしている時の女たちは皆、決まって誰かに心を奪われていた。
ーーそう。恋だ。
じわじわと、ライムの心に、複雑な感情が沸き起こる。
「あいつには、あんな顔するんだな……」
思わずそう呟くと、数年前は、自分の侍女でもあった女を、心底嘲笑った。
ロージックとティファニー。
彼等の関係が上手く行く筈も無いと、彼は知っていたからだ。
嘗て勇者だった自分が、主従関係にあった【運命の恋人】と破滅の道を進んだように、ロージックとティファニーがこれから育む事になるかも知れない愛も、唯の虚像に過ぎない。遅かれ早かれ、壊れるか腐るかの、どちらかのみ。結果は、見えている。
ライムは、そう確信していた。何故なら……
ーー有り得ないんだよ。主従関係の立場にある者たちの恋愛なんて……。絶対に……。
胸が切ないです。