虚像の騎士
月を覆い隠していた分厚い雲から、涙のような滴が一粒、また一粒と零れ落ち、やがてーー冷たい雨のカーテンが、魔界全土に打ち付ける。
そう。この男の身体にも……。
突然の雨によって人気の引いた繁華街を、ライムは、重い足を引きずるように独り歩いていた。
何処に向かっているのかさえ、自分自身にも分からなかった。
ずぶ濡れの状態で彷徨いながら、脳裏では、先程の光景ーーロージックと彫り師のやり取りーーが、幾度も巻き戻しては繰り返される。
怒り。悲しみ。憎しみ。後悔。絶望。絶望。絶望。絶望……。
雨の一滴一滴に肉体を溶かされているのではないかと、錯覚を覚える位、痛烈な痛みに心が深く浸食されて行く。
ーーずっと、ずっと掌で踊らされてたのか。
ーー一体何時から……っっ?!!
ーーまさかっ……?! 鍋の中で生き返った時からっ??!!
ーーだって、あいつは……。あいつはあの時だって……ーー
笑っていた。
三年前。鍋の中から這い出たライムに、ロージックは、眼尻を光らせながら笑顔を向けたのだ。
そしてーー彼は、言った。
『有難う。戻って来てくれてーー。お前を待ってたんだ。ようこそ。この素晴らしき世界へーー』
何が本当で、何が嘘なのか。
何処からが己の意志で、何処からがロージック ジェファーソンの意志だったのか。
少し過去を遡って考えただけでも身が震えだし、ライムは、己を抱き締めるように両腕を交差させる。
(?!)
人の気配に顔を回すと、店の硝子扉を挟んでずぶ濡れの自分と眼が合った。
雨で化粧が流れ落ちた顔は、ライムと言う名の虚像の騎士では無く、難病でも明るく前向きに生きていた少年、アクシス グランドールの成長した姿だった。
「よお、久しぶりだな……。何て顔してんだよ。お前……」
『……』
無言でこちらを見返すアクシス。
哀れな少年だとばかり思っていたのに、今になって気付くと、彼の方が今の自分をもっと哀れだと感じているみたいで、痛たまれない。
「そんな眼で見ないでくれよ……。これでも三年間必死にやってきたんだぜ。周りに追い付く為に……」
『……』
新しい人生を始められるなら、過去なんて全て捨てて構わないと思っていた。
別人になれる事が喜ばしかった。
哀れな少年はもう居なかったから。
ーーでも……。
ティファニー ポジットと再会し、こんなにも心が揺すぶられる事になろうとはーー……。
『……』
全て見抜かれていたのだ。
あらゆるケースを想定していたのだろう。
ロージックは、予防線を張ったに過ぎない。
他人の事なんてどうでも良い。
全ては王位継承の為にだ。
「……クッ……すっ」
泣き声とも笑い声とも取れない息が、俯いた口元から洩れた。
ロージックが言った、ライムにおける素晴らしき世界とは、彼の試練を成功させる為だけの世界。
例え【運命の恋人】を、もう一度この手で抱き締める事が出来るとしても、それは既に、ライムにとって幸せとは言い難いもの。
幸せ。幸せ?抱き締める?抱き締める。誰を?恋人?恋人。想い人。ティファニー。ティファニー。ティファニー。ティファニー。ティファニー。ティファニー。ティファニー。ティファニー。ティファニー。
頭をひねり、硝子扉に映ったもう一人の自分ーーアクシスを見つめた。
「愛する人を抱き締めたくても抱き締められない辛さ……。それは……、俺達が一番良く知ってるよな」
『……』
「試練が失敗したら、ロージックは死罪なんだと……。そんな事、もうどうだって良いよな……。こっちは、顔面にタトゥー彫られてんだぞ。ハッハッハッ……! 狂ってやがる!」
『……』
それはーー僅か数秒間で充分だった。
たった数秒間。静寂が彼を支配した後、そこにはもう、さっきまで身を震わせていた男は居なかった。
若葉色の瞳が闘志でみなぎっていく。
今ならーー。
大切なものを守る為、【悪】にでもなれる気がしたーー。
「ーーーー奪い取る。二度目の人生を誰かさんなんぞにくれてやるもんか。俺にとっての素晴らしき世界は、あいつにとって都合良い世界じゃねぇ……。生きるか死ぬか。人生もティファニーも、絶対に渡さない」
唯……彼は、忘れてしまっていたのだ。
ティファニーが【呪われた侍女】だと言う事をーー。
彼女が、主人の死を何よりも恐れている事をーーーーーー。
ブックマークよろしくお願いします。




