プロローグⅡ 鍋の向こう側
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魔界。
魔王城ーー地下の一室にて。
グツグツと煮えたたぎる巨大鍋の前で、独りの少年が、何やら額に油汗を滲ませながら奮闘していた。
一見、性別の区別が付かない程甘く可愛らしい顔立ちをした少年だが、燃えるような真紅色の瞳と神秘的な白銀の髪、そして尖った耳の形状が、彼の人種が人とは異なる事を示していた。
片手には、【屍の再生魔術】と書かれた魔道書が握られており、背丈よりも二倍以上は大きな鉄製の鍋からは、何かが腐敗したような異臭が漂っている。
魔導書を閉じると、撹拌器を両手に握り締め、眠い眼をこじ開けながら大きくゆっくりと掻き混ぜ始めた。
ーー成功させなきゃ。絶対に……絶対に……。
少年の顔には、焦りの色が浮かび始めていた。
既に、こうして三日三晩一睡もせずに鍋の中身をかき混ぜ続けている。魔導書通りに進んでいるなら、そろそろ変化が表れても良い頃なのに、目の前の巨大鍋は、相も変わらずグツグツと静かに沸騰し続けたままだ。
工程は、一から全て魔導書の通りに行った。
ーーなのに、何故??
取り返しの付かない失敗をしてしまったのではーーと、不安に襲われながらも、疲労がそろそろ限界を迎えそうな自分自身を無理矢理奮い立たせた。
ーーおい、ロージック。
ーー諦めたらそこで終わりだぞ。
ーーこの試練が失敗に終われば、お前は死刑になるんだからーーーー。
魔族の少年、ロージック ジェファーソンは、革張りの椅子に身体を預けると、再び魔導書を捲り始めた。
これは、古から続く魔界の掟。
次期魔王になる王子は、正式な王位継承権を得るために必ず通らなければならないと言う伝統の試練が存在する。
それはーー夜空を流れる流星に込められた、たった一つの人間の願いを現実にすると言うもの。
生まれ付き備わっている魔力と幼少期から磨き上げられてきた魔術や知識が、無作為に選ばれた人間の願いを叶える事で、魔王の器に相応しいかどうかを見極める試練。
魔族達は、古から数百年もの間続いた世界戦争の後、超巨大湖の中央に浮かぶ島を領地とし、人間世界から遮断された事実上の独自国家を築き上げて来た。
戦争で負けた魔族ーー魔界は、戦争終結後、人間界に存在する全ての地図から抹消された存在であり、言わば、人間界おいて消された敗戦国なのだ。
★ ★
「……!!?」
ロージックは、眠りから覚醒した途端、慌てて椅子から跳び上がった。
膝に乗せていた魔導書が床に落ちる。
どのくらいの時間寝てしまっていたのか。目前の巨大鍋は、未だ少しの変化も見せず、グツグツと燻り続けているだけだった。
「ーーーー……」
彼の瞳が、絶望の色に染まって行く。
己の死がいよいよ現実味を帯びて来た。
一度始めたら願い事の主が死ねまで後戻りは出来ない最悪の試練。
このまま魔術が失敗ーーつまり試練によって選ばれた人間の願いを叶える事が出来なければ、彼を待ち受けているのは、死刑とゆう運命だ。
ロージックの真紅色の瞳は、最早焦点を失っている。
彼は、絶望していた。
己に極刑が下された後の、両親の深い悲しみと喪失感を想いーー。
彼は、恐怖していた。
己の未熟さゆえ、信じてくれた全ての人たちを裏切ってしまった事にーー。
ーー父上御免なさいっ……やっぱり俺には無理だったんです。
ーー兄弟一出来の悪い落ちこぼれの俺が魔王だなんて……。
ーー御免なさいっ!! 駄目な息子で本当に御免なさいっ!!
嗚咽を漏らし、何をしても駄目だった今迄の人生を嘆いた。
「そうだよっ。最初から無理だったんだよっ……。俺は単細胞で要領が悪い上に、生まれ付き魔力も少ないんだからっ……!!」
項垂れたロージックが膝から崩れ落ちた、その時だった。
ーー『大丈夫。お前なら出来るさ』
ーー(?!!!)
ロージックの耳の更に奥深くに、聴きなれた声が響き渡った。
それは、彼にとって魔法の言葉。
惜しみない【愛】に満ちた、勇気と自信をくれる言葉。
ーーそうだった。
ーー俺は、何でもう諦めていたんだろう。
ーー不安になったり、落ち込んだりした時に、父上が励ましてくれたじゃないか……。
ーー俺には出来る!
ーーまだ諦めない!
ーー諦めてたまるかっーーーー!!!
ロージックはゆっくりと立ち上がると、巨大鍋に向けて言葉を紡ぎ始めた。少しガサツではあるが、まるで友にでも話し掛けるような口調でーー……。
「なあ聴こえてるか……? 聴こえてるんだろう?
頼むよ。お前の力が必要なんだ。……確かに。お前の人生は、辛い事苦しい事の連続だったかも知れない。ーーでも。自信を持たないまま逃げ出してばかりいたら、きっと大切なものさえ守れやしないんだ。大丈夫……俺が助けになる。例え悪者になっても、絶対に君を裏切ったりしないからーーーーーー」
己の手の平に、今自分が出せる、全ての魔力を注ぎ集め始めた。
魔力は、パチパチと音を立てながら、少しづつ大きな光の塊へと変化していく。
「戻って来い。大切な人達が生きるこの世界に戻って来いよ」
ーーそして。その魔力の塊を弾丸のように、思い切り巨大鍋に向け解き放った。
「甦れーーーーッッッ!!!!」
魔力を正面から食らった巨大鍋は、もがき苦しむかのように四方八方へその巨体を揺らすと、今度は大量の煮え湯を吹き出し始めた。
ーーやがて全ての煮え湯を吐き出し切った巨大鍋は、何事も無かったかのように静けさを取り戻す。
これでも駄目だったのか……ーーと、肩を落とし掛けた、その時だった。
ドドドドドドドドドドドド ドンドンドンドンドドドド
ドンドンドンドン ドンドンドンドン ドドドドドドドドドドドド
鍋の中から、けたたましい叩音が響き渡る。
恐怖さえ感じるその叩音に、未だ何が起こっているのか分からないロージックは、呆然と立ち尽くすのみ。
ーーところが。暫く続いた叩音が鳴り止むと、今度は、視界に飛込んで来たあるものに驚愕させられた。
ーー蛆虫ッ?!
ーーいやっ……あれはっ、……人の手だっッ?!!!
間切れもなく、それは人の指の形をしていた。
五本の白い指が、鍋の淵を掴もうと必死にもがいていたのだ。
「父上……お、俺、やったかも……。もしかして……本当に成功したのかも知れない……」
そう呟いたロージックの背中には、冷たい汗が伝っていた。
当の彼自身も、まだ半信半疑だったのだ。
まだ半人前で、しかも生まれ付き魔力の少ない自分が、本当にこの難しい魔術を成功させたと言うのか……。
ロージックは、早まる鼓動を感じながら、食い入るように巨大鍋の動向を見守っていた。
ーーーーそれから数十秒後、
ーーーー巨大鍋の中から、姿を現した人物とはーーーー…………。