プロローグⅠ 壁の向こう側
ーーさあ、ロージック……。
心の耳を澄ましてごらん。
そして、あの流星に願う人間の願いを良く聴くんだ。
幾千万もの数あるその中から一つだけ……。たった一つだけ選ばれた欲深き願いを、お前の今持てる全ての魔術や知識を駆使し現実のものとしてみせろ。
この試練を立派に成し遂げた時、お前は晴れてこの魔界の正式な王位継承者となるのだから、私にとってこんなにも喜ばしい事は無いものだ。
ーー大丈夫、お前なら出来るさ。
何て言ったって、私はお前を信じているからな。
……なぁに。親とは、そうゆうものだよ。
ーーさあ、始めるとするか。
心優しいお前には、一体どんな願いが届くかな……。
人間界。
多種多様の国家が連なる巨大大陸から少し離れた小島ーートレマス島の岬の上にて。
時折、海から吹き抜ける強靭な風と岩肌に打ち付ける波の音が、繰り返し耳を撫でる。夜空には満天の星が輝き、僅かに照らす月明りが、星空を見上げる若い男女の影を幻想的に浮かび上がらせていた。
「……綺麗だ」
「えっ?!」
唐突過ぎるアクシスの呟きに、ティファニー ポジットは、驚いて彼の方に振り返った。ーーが……、
「まさかッ?! 自分が綺麗って言われたと思ったんじゃないよな? 若しくは俺に告白されるとか?」
自分以上にアクシスが驚いたので、ティファニーは、居た堪れない気持ちで下を向いた。
「そんな事ッ……これっぽっちも思ってません。侍女の私がご主人様から告白だなんて、そんな……大それた事なんか……」
慌てて全力で否定したものの、少し位期待の気持が無かった訳じゃない。
今は唯、一瞬でもそんな期待を抱いてしまった自分の事が無性に恥ずかしくて堪らなかった。
『雇用主に対し、主従関係以上の特別な感情を持ってはならない』
従者派遣会社や先輩侍女達からは、今迄そういった教育は散々受けて来たし、ティファニー自身も叶わぬ恋と重々承知している。
アクシスと自分は、飽くまでも主人と従者。
幾ら歳が近くて仲が良かったとしても、二人の間に存在する見えない壁は余りに高大なのだから……。
「そうか? 俺は、そんなに有り得ない話でも無いと思うんだけどな……」
「! ? !」
ところが、次にアクシスが口にした返答は、ティファニーを馬鹿にするものでは無く、かなり意外過ぎるものだった。
また感違いをしてこれ以上居心地を悪くしたくないので、唯々無言でアクシスを見つめ返す。
彼は、チラリとこちらを見上げると、再び視線を満天の星空に向け口を開いた。
「……勿論俺達の事じゃない。遥か昔。この広い世界には、主従の垣根を越えて愛し合い、恋人同士になった男女も居たってゆう実話があるんだ」
「ちっとも知りませんでした。その人達、幸せになれたんでしょうか……?」
ティファニーが尋ねると、アクシスは、少し顔を曇らせ答えた。
「嫌……。やっと結ばれた所で、どちらか一方が亡くなったんだ。ある一説によると、魔族に殺されたってゆう話もある」
「……そんな」
想像よりも遥かに悲しい愛の結末に、言葉を失ってしまう。
「でもな。最近良く思うんだ。俺は、もしかしてその死んだ方の奴の生まれ変わりなんじゃないかってさ」
「ーーどうしてそんな事を思うんです??」
何時も冷静で飄々としいるアクシスが、珍しく妙な事を言い出したので、ティファニーは、丸い鳶色の瞳を一層丸くさせた。
「死に別れた恋人を探して、生まれ変わっては死に、また生まれ変わっては死ぬ。そんな事を随分と繰り返している気がするんだよ。言葉じゃ上手く説明出来ないけど、何と無く分かるんだ。身体が不自由になった分、普通の人よりも眼に見えないものを多く感じ易くなったのかもしれない」
そう言ったアクシスは、やはり、何時に無く感傷的だった。
彼の言っている事が本当かどうかは別としても、生まれ変わっているかどうかも分からない、たった一人の恋人を探して幾度も人生をやり直すなんて、彼の魂は、何て悲しい運命の旅をしているのだろうと、そう想った。だってその魂は、【運命の恋人】を見付けられない限り、嬉しい時も笑っている時も、心の奥底では、愛する人を抱き締められない寂しさを抱えている筈だから……。
そんな日々が続けば、次第に寂しさから闇が生まれ、微笑む気力さえ失ってしまうかもしれない。
もし自分だったら、アクシスのようになれただろうか……?
アクシス グランドールと言う少年の誰もが知る一番の特徴。それは、太陽のような明るい性格と、常に前向きな言動をとる事。
今日、この時、この夜も、それは決して変わる事は無かった。
「そんな暗い顔すんなよ、ティファニー。確かに俺は、現世でも【運命の恋人】には、もう出逢えないかもしれない。こんな身体だし。この邸から出る事さえも困難な俺が、この広い世界に居るたった一人の人を探し出すなんて、最早不可能に近いからな」
「ーーーー……」
「でもな。例え現世では【運命の恋人】に逢えないままだったとしても……俺は、お前の前から居なくなったりしないよ」
「アクシス様……」
「俺が証明するよ、ティファニー。お前が【呪われた侍女】なんかじゃないって、この俺が証明するーーーー。俺は、絶対に病気に負けて死んだりなんかしないからーーーー」
「アクシス様……。私……、本当は……。本当は、貴方の事が……」
つい口から吐き出しそうになった言葉を喉の奥で絞り止めた。
まるで、世界には二人だけしか居ないみたいだった。
何時だってそう。
アクシスの強く優しい青葉色の瞳に見つめられると、何かに包まれるような温もりを感じた。
『君はここに居ても良いんだよ』
と言われているみたいで、心が安らいだ。
恐らく。それは、彼が天性から与えられた一つの才能と言って良かった。
アクシス グランドールの周りには、何時も沢山の人が集まって来る。
一度でも彼と接触した事のある人間は、自己を肯定されているような感覚に陥り、自然と彼の近くに各々の居場所や役割を見付けるのだ。
ティファニーが彼に対し抱いていた安心感も、何時しか淡い恋心に変貌を遂げた。
叶わぬ恋だと分かってはいても、その気持だけはどうしても消す事は出来ないでいた。
ティファニーとアクシス。
同じ金色の髪を持つ彼等の関係は、身寄りの無い侍女と、伯爵の称号を持った上流貴族の家柄であるグランドール家の一人息子だ。
ティファニーは、十五年前、大陸にある小国で身分の低い農家に生まれたが、生後間も無く、両親共に疫病で死亡。数年間、孤児院で育てられた後、地元の領主に侍女として引き取られた。
ーーしかし。程無くしてその主人も事故死。また、その次の雇われ先の主人も、相次いで命を落とした。
次第にティファニー ポジット=【呪われた侍女】と言う噂は少しずつ広まっていき、彼女が仕事を失いかけていた矢先に、このトレマス島でひっそりと暮らしているグランドール一家に拾われる形となったのである。
島に来た初めの頃は、島の住人や邸の皆が【呪われた侍女】の存在を恐れ、まともにティファニーに近付く者など無かったが、独り大手を振って彼女を迎え入れた異質な人物こそ、彼ーーアクシス グランドールだった。
利発で明るい性格に、王子様のような完璧な容姿。
ティファニーが恋に落ちるには、そう時間は掛からなかった上、家族も友達も居ない彼女にとって、アクシスは、とても大切な存在となった。
ーーしかし、
アクシス グランドールと言う少年は、幼い頃から深刻な病を患っていたのである。
産まれた時は、普通の元気な男の子だったが、成長と共に、手足を動かす事が少しずつ困難になっていった。現在十六歳の彼は、車椅子の生活をしいられているが、細かい作業でなければ、まだ手や腕は使えている。
病が発覚してから、アクシスの両親は、腕利きの医者ばかりを呼び寄せて息子を丹念に診察させたのだが、アクシスは、治る見込みの無い難病に侵されており、何れは全身が動かなくなってしまうかもしれない。ーーと言う見解が殆どだった。
それはーー、
アクシスとグランドール一族が、地獄に突き落とされた瞬間だった。
つまり近い将来、アクシスが寝たきりになってしまう事を意味していたのだからーーーーーー。
☆再びトレマス島ーー岬の上
「あっ、流れ星だ!」
急にアクシスが頭上を指差したので、釣られて空を見上げると、満天の星空の中を、ひと際光り輝く星が、弧を描きながら流れ落ちて行く所だった。
隣では、既にアクシスが胸の前で手を組んで願い事をしている。
「ずるいっ……」
ティファニーも、慌てて瞳を閉じる。
幻想的な美しい景色に見守られながら、二人はそれぞれの願い事を祈った。
ーー数十秒後。
先に眼を開けたアクシスの方が尋ねた。
「随分長かったな。何をそんなに熱心に願ってたんだ?」
「うーん……秘密です。でも、絶対に叶うように願い事の最後にこう付け加えました。『もしも願いが叶ったら、この身を悪魔に捧げても構いません』ーーって……」
「何だってっ?!!」
アクシスの大声に、ティファニーの身体は一瞬ビクリとなる。
「なぁ、おい。それって大丈夫なのか?」
「どうしてですか? 何かいけない事でも……?」
顔をしかめていたアクシスは、暫し間を置いてから重々しく口を開いた。
「人間界では、昔から一部の貴族たちの間で実しやかに語り継がれている、都市伝説みたいな話があるんだ」
「都市伝説?」
「ああ。既に人間界で亡きものとされた世界ーー。つまり【魔界】では、純血の王子が王位継承を得る為に、【魔界】で定められたとある試練を乗り越えなくてはならないらしい。最悪の掟と恐れられるその試練は、流星に伴った幾千万と数ある人間の願い事の中から、たった一つの願いを叶えなければならないというもので、それを成功させた者だけが、次期魔王になる資格を認められるらしいんだ」
「でも私が選ばれた場合ですよね? 大丈夫ですよ。私なんて、魔王様に選ばれるような人間じゃありませんから……クスクス」
確率が天文学的数字に近い故に、ティファニーは、思わず微笑する。
するとアクシスは、車椅子を軋ませ、真剣な眼差しでティファニーの顔を見つめた。
「笑っていられるのも今のうちだぞ。きっと覚悟して置いた方が良い」
「??」
「魔族ってのは、それはそれは恐ろしい獣のような姿をしているんだ。真っ赤な鋭い眼光、頭から突出た鋭い二本の角、裂けたような口からも鋭い牙が二本飛び出していて……。ーーそして極め付けなのがな……」
ティファニーが生唾を呑む音。
「酒瓶くらいの太さがある、二本の巨大な男性器だ」
「△?#$!」
「人間のお前がその妻になるとしたら大変だぞ。そもそも、身体がそれを受け入れられるよに出来ていないから、最初は……ーーだな。ーーでも……ーーーーの時、ーーーーれば、段々……」
最早アクシスが途中から何を喋っているのか、分からなかった。言葉がベルトコンベアのように片耳から入ってもう一方の耳へと流れ出て行く。
だが、ようやくアクシスの表情や口調が、何時もと違う事に気が付いき始めた。
ーーそう。
彼は、ティファニーをからかっていたのだ。
恥ずかしさの余り、ティファニーの顔に熱が篭り始め真っ赤に染まる。
「御免、御免。ちょっとからかっただけだよ。そんなに怒るなって!」
謝罪の言葉を口にしたアクシスは、暫く困った様子で考え込んでたが、突然ポケットから白い紙を取り出すと、それをティファニーの前に差し出した。
「本当は渡すつもりなんて無かったんだけど……お前に手紙だよ。書いたのは俺だ」
「アクシス様が? そんな……直接言って下されば良かったのに」
驚きを隠せなかった。
手や腕に思い通りに力が入らない彼が文字を書くなんて、どんなに大変だっただろう。
「俺にだって口じゃ言い辛い事もあるんだよ。こっ恥ずかしいけど、さあーー」
アクシスは、少しはにかみながらティファニーに手紙を読むように促すした。
ティファニーは、彼の言う通り、そっと便箋を広げる。
そしてーー
手紙に綴られた文字の、最初の一行目に視線を落とした瞬間ーーーー
まさにその瞬間にそれは起こった……
それはーー
まるで悪魔が舞い降りたかのようなーー
残酷な出来事……
「?!」
便箋が、ティファニーの指の間から生き物のように勝手に擦り抜けると、ひらひらと弧を描きながら、断崖絶壁の崖下へと飛ばされて行ってしまった。
「ーーーーっ……??!!!!」
目の前で起こった光景に一瞬唖然としてしまったが、次の瞬間には、便箋を追い駆ける為に反射的に地面を蹴飛ばしていた。
ーーだが、
「?!!」
アクシスに手首を掴まれ動けない。
「放して下さいっ! 手紙が……手紙が……っ」
「とっくに飛ばされてるよっ! もう良いんだ。これ以上先に進んだら、お前が崖下へ叩き落とされちまう」
「でもっ!!」
「悪いのは俺だよ。言いたい事はちゃんと口で伝えなきゃいけないのに、その勇気が無かったからーーーー……。その勇気が湧いたら、今度こそちゃんと口で伝えるから、待っててくれないか? ティファニー」
彼の一体何処にこんな力が残っていたのか。
アクシスに握られている手首は、痛いくらいの強さで握り締められている。
(ーーーーあっ……)
瞳から涙が溢れ出てしまった。
泣きたくなんて無かったのに、弱い自分が本当に嫌になる。
そんなティファニー励まそうとしてくれているのか、またアクシスがティファニーをからかうような事を言い出した。
「そう言えばさっきの話だけどな。【魔界】の王子がどうこうってやつ。ーーあれさ。本当は真逆なんだ。【魔界】の王族たちは、代々かなりの美形揃いで有名らしい。良かったじゃないか。イケメンに嫁げるんだから。子供や孫もきっと可愛いぞ」
まだ止まらない涙を流しながら、ティファニーは、アクシスに反論した。
自分を励まそうとしてくれる彼の気持を汲み取りたかった。
「良かったじゃないかーーって、唯それだけですか? 仮にイケメンだったとして、【魔界】の王子様が、如何にも何不自由なく甘やかされて育った、人を見下したようなタイプだったらどうするんです? 私の事助けに来てくれますよね?」
そこまで言った瞬間、何て事を口走ってしまったのかーーと、慌てて口を噤んだ。
病気で思うように動けない彼には、辛い言葉だったかも知れない。
ティファニーが後悔で肩を落とし掛けた時、アクシスは、そんな心配に反して優しい笑顔を貼り付けて答えた。
アクシス グランドールは、どんな時もアクシス グランドールだった。
「当たり前だろティファニー。例え命に代えても、お前を魔王の花嫁になんかさせてたまるか。ーー約束だ」
「……」
差し伸べられた小指に、ティファニーもそっと指を絡める。
約束の誓い。
嘘など付いた事の無い彼が、初めて付いた嘘に違いなかった。
ーーしかし、
この日の彼等の約束が守られる事は、永遠に無かった。
翌日早朝、グランドール邸の巡回をしていた従者が、岬の先端で横倒しになっているアクシスの車椅子を発見した。
大掛かりな捜索が暫く行われたが、アクシスの姿は何処にも無く、彼のものらしき右腕だけが崖下の波打ち際から見つかっただけだった。
ーーーーアクシス グランドールは、
事故か自殺によって、崖から転落死したものと結論付けられた。