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第一章・2 (2)

 セミナールームから戻ると、准教授室の前に白衣を着た若い女性が立っていた。凜の研究室の学生ではないが、見覚えはある。生命科学研究科の学生であることは間違いない。

「あの――鳥須先生」

 凜の姿を発見して、彼女は彼に声をかけてきた。

「君は――」

「修士2年の新川 早苗です」

「そうだったね。確か、上島さんところの子だったかな」

「そうです」

 上島 孝平は、凜もよく知る人物だった。凜がまだこの大学の院生だった頃、所属していた研究室の助教であり、現在は教授の地位についている。

「で、僕に何か用?」

 凜は改めて言った。

「実は、タモくん――川上くんのことで」

 新川 早苗は伏し目がちに言った。川上 保の失踪について、何か話したいことがあるのだろう。

「中で話すか?」

 凜は彼女を、准教授室へと促した。



「君と川上くんとの関係は?」

 部屋に入るなり、凜は問いかけた。

「実は私たち、交際していました」

 早苗はそう答えた。

「なるほど――、彼氏が失踪したとなると、心配だろうね」

 彼女はこくり、と頷く。

「君でも連絡は取れないのかい?」

「取れません。以前は少しでも私が返事をしないと、怒るくらいだったのに。ほんと、どうしちゃったんだろう」

 早苗は伏し目がちになって、心配そうに呟いた。

「失踪前に、何か彼に異変はあったかい」

「思い当たる節はあります。タモくん、ここんとこ妙に投げやりというか、やさぐれ感が酷かったんです」

「それはどうしてかな?」

「多分、フラストレーションが溜まっていたんだと思います。1年前くらいから不機嫌そうな時が多かったんですけど、特に博士課程に上がってから、態度がより顕著に出るようになりました。他人の悪口を言ったり、周囲に不満をぶつけたり――。多分、研究そのものが面白くなかったのかも」

「確かに、ここしばらく、彼は思うような実験結果を出していなかったな。しかし、博士課程に進学したということは、研究の道を志す気持ちがあったんだろう――」

 博士課程に進学するということは、それなりに研究に対する情熱があったからだろうと凜は思っていた。しかし、早苗は首を横に振った。

「いえ、こう言っては何ですけど――タモくんはただ単に意地を張っていただけだと思います。実は私、前に彼から実験にゆきづまっていると聞いて、『研究の道は諦めて就職したら?』と言ったことがあったんですけど、彼にはそれが腹立たしくて、余計に意固地になってしまったようなんです。私がこの4月にある企業から内定をいただいたことも、彼にとっては面白くなかったのかも」

実験が思うようにいかず、周囲だけでなく恋人にまで劣等感を抱くようになり、それが失踪の原因となった。確かに筋は通ってはいる。

「けれど、その程度の理由で姿を消すものだろうか――」

 凜は呟いた。どことなくまだ弱い気がしてならない。

「あの……、実はもうひとつ気がかりなことがあるんです。この件を鳥須先生にお話ししたくて――」

 早苗は上目遣いで凜に言った。

「何だい?」

「実は、私の研究室でも、数日前から研究室に来なくなった人がいるんです。先生は事情があって休んでいると言うけど、でも私、考えすぎかも知れないけれど、ひょっとしたらその人も本当は失踪したんじゃないかな、って思うんです――」

「何だって?」

 凜は驚いた。中岡の言う別の失踪者というのは、どうやら上島の研究室の学生だったようだ。

「ちょっと待ってください。その人の写真、今持ってます」

 早苗は白衣からアイフォンを取り出し、画像ファイルを開いてから凜に差し出した。それは、彼女の研究室の集合写真だった。研究室でお花見でもしていたようだ。1ヶ月前はちょうどお花見シーズンだったので、その時に撮ったのだろう。

 満開の桜をバックに、前列の中央に上島が、彼を取り巻くように助教や学生たちが集まっている。早苗は右端に立つ男子学生の顔の辺りを指先で叩いて、画面を拡大した。

「この人です。博士2年生の中原 仁さん」

 中原というらしきこの男子学生は、でっぷりとした体形で、髪の毛はもじゃもじゃとし、眼鏡をかけていた。オタクにいそうなタイプだと凜は思った。

「彼も研究がゆきづまっていたのかい?」

「そうは見えませんでした。というか、それほど研究に熱心なタイプじゃないというか――先生にうまく取り入って、評価を上げようとするような人に私には見えていました」

 早苗の言葉には、多分に非難の色が含まれていた。中原という学生をさほどよくは思っていなかったらしい。

「じゃあ、失踪の原因は?」

「あの、飽くまで噂程度の情報なんですけど、中原さん異性と何かトラブルがあったみたいなんです。ネットにその人の悪口とかも書き込んでいたそうです。というか私、彼が研究室でそれをしているのを見たことがあります」

 それが本当なら――と思うと凜は呆れた。ネットに他人の悪口を書き込む時点で低俗だが、大学という公共の場でやるなど言語道断だ。

 早苗の話から、凜の頭の中には川上と中原のある共通のイメージが浮かんでいた。それは、どろどろとした心の闇だった。禍々しくうごめき、触れただけで無限の底に吸い込まれてしまいそうだ。彼らはそんな心の闇に冒され、それが失踪の原因となってしまったのではないか。凜にはそんなふうに思えてならなかった。


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