第一章・1 (3)
玄関の扉を開けると、娘の真綾がたたたた、と廊下を駆けてきた。
「パパ、ママ、お帰りなさい」
真綾は、父親の前で気をつけのポーズをとり、6才とは思えないしっかりとした口調で言う。
「ただいま。まだ起きてたのか」
「パパが帰ってくるまで待ってたの」
「そっか、ありがとう」
凜は真綾の頭をぽんと置いた。真綾はにっこりと、満足気な笑顔を浮かべた。
「でも、もう寝なさい」
「はーい」
凜に従って、真綾は自分の部屋へと駆けていった。
「私ちょっと寝かしつけてくるね」
愛稀は靴を脱ぎ、寝室へと向かってゆく。凜はリビングへと向かった。
棚からウイスキーの瓶を取り出した。10オンスタンブラーにウイスキーをダブル、氷、ミネラルウォーターを入れて水割りを作る。
ソファに腰を下ろし、グラスに口をつけた。
「…………」
ソファに深くもたれかかり、凜は考える。この先どうしたものか――。
「実験がいきづまってるの?」
真綾の部屋から戻ってきた愛稀が、凜の晩御飯の支度をしながら尋ねた。
「いや、そういうわけじゃない」
凜は答えた。研究は順調といってよかった。事実、そろそろジャーナルに論文を投稿しようかというほど、データは揃いつつある。問題は別のところにあった。
「ここだけの話になるんだけど――、実はうちの研究科の学生で行方不明者が出た。もう2週間近くも大学に来ず、連絡もつかない」
行方不明になっている川上 保は、凜が准教授を勤める国立K大学理学研究科生命科学専攻の博士後期課程に属する院生だった。学部生の頃から成績もよく、教員たちから将来を有望されていた学生のひとりだった。
「それは大変だね」
愛稀は料理を運び、テーブルの上に置いた。凜はソファを降りて、テーブルの前に座り直す。
「問題はそれだけじゃない。その学生、実はうちの研究室の子なんだ。しかも、最後に目撃されたのも、研究室で実験をしている姿だった」
「そうなの?」
愛稀は目を丸くした。凜は出された小エビのサラダに手をつけ始めながら続けた。
「その日、彼はひとり遅くまで実験をしていたんだけどね。朝来てみると、鍵は開けっ放し、実験器具も出したまま、私物も置いたままの状態でいなくなっていた。どこに行ったのか――足どりも、その手がかりもない。文字通り、忽然と消えたって状態さ」
「一体どうしちゃったんだろうね」
「分からない。とにかく彼のことが心配なんだ。無事だといいんだが――」
凜はウイスキーの水割りをぐいっと飲み干したが、心に鋲のように引っかかる思いは消えることはなかった。
研究とはなかなかプレッシャーのかかる仕事であり、心身に不調をきたす学生も少なくない。故に彼らのメンタルケアを行うのも、自分たち教員の仕事であった。
川上がここしばらく精神的にきつい状態にあったと、凜はうすうす感づいてはいた。しかし、何も対処をしないうちに今回の事態を迎えてしまったと考えると、凜は責任を感じずにはいられないのだった。