第四章・8 (1)
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真綾の声が確かに聞こえた。凜は矢も楯もたまらず、扉のノブに手をかけ押すと、扉は開いた。余城の呪縛が解けたらしい。しかし、辺りを見回しても真綾の姿はない。誰もいない真っ暗な空間の中で、パソコンのディスプレイだけが、妖しげにまばゆいばかりの光を放っていた。
「まさか、連れていかれてしまったのか?」
「そんな――」
愛稀は悲痛な声をあげ、ノートパソコンへと近づいた。
「ねえ、お願い! 私はどうなってもいいから、真綾は返して!!」
叫んでも、彼女の声はパソコンの中へは届かなかった。
真綾は広大な空間の中に浮いていた。方々に情報の網が張り巡らされていた。手足、そして頭にもそれは絡みつき、先端はすでにそれに同化している。
意識が縦に伸びるような感覚を覚える。徐々にぼやけていくようでありながら、身体という制限を超えて、どこまでも広がってゆくようでもあった。まるで、自分が自分でなくなってゆくような心地がした。
こうして、真綾は徐々にこの世界と一体化してゆくのだろう。しかし、意外に抵抗はなかった。むしろ、そうなってゆくことに対して、心地よささえ感じていた。目を閉じて、このまま身体も心も委ねちゃおうかな――そんな気分にもなってくる。
(あれ……?)
真綾はどこか引っかかりを覚えた。流れに身を任せようとする自分に、どこか対抗するもうひとりの自分がいる。一体、それがどの自分で、なぜ止めようとするのか、真綾自身にも分からなかった。
(おかしいな。このままでいれば楽になれるのに)
そんなふうにも思ってみる。真綾の脳裏に、突然、声が聞こえた。
――本当に、このままでいいの?
――あなたが、本当に望むことは何なの?
(私が望むこと……?)
真綾は考えてみた。少なくとも、このままこの網目模様の中に組み込まれてしまうことではなかった――はずだ。さらに声は続き、矢継ぎ早に彼女に問いかけてくる。
――パパやママとどうなりたいの?
――たかしくんやまこちゃんや、幼稚園のみんなとはどういう関係でいたいの?
――あなたの夢を、叶えようとする前から諦めてもいいの?
――あなたはこの世界で、どんな人間になりたいの?
――人間で、いたいの……?
突然、目が覚めたような心地がした。真綾は目をかっと開いた。改めて見れば、なんて無味乾燥で寂しい世界だろう。こんな世界に同化しようとしていたのか――と思うと恐ろしかった。
「やっぱり、私、帰る!」
真綾は叫んで、身体に絡まったつるを引きちぎった。途切れた部分の先端が、本来の人間の形へと戻る。彼女は今、何にも束縛されず、空間にただ浮かんでいた。彼方に、長方形の窓が光を放っている。きっと、あそこが出口のはずだ。
そこに向かおうとした時、彼女は腕をがっと掴まれた。気味が悪いほど冷たい感触がした。振り返ると、青白い裸体をさらした余城の姿があった。
「行かせないぞ」
余城の姿が徐々に崩れ、それは大きな数字の群れとなった。数字は彼女の身体にまとわりつき、身体の自由を奪う。感情のない記号に取り憑かれる恐怖が真綾を襲った。
「いやあああああああああああ……!!」
真綾は叫んで、自身の衝動を解放させた。彼女の身体から衝撃波が飛んだ。辺りの何もかもを吹き飛ばすほどの強い爆風だった。身体が自由になった真綾は、何もなくなった空間を必死で泳いだ。出口が少しずつ近づいてくる。そして、いよいよたどり着いた時、彼女を迎えてくれたのは両親の姿だった。




