第四章・7 (1)
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凜は支払いを済ませ、急いでタクシーを降りた。
道中、タクシーを拾えたことはラッキーだった。自分の足で走るよりも遥かに短い時間で自宅へ帰ることができた。しかし、いくら早く帰ってこれたといっても安心はできない。むしろ、余城の魔の手はすでに愛稀や真綾に迫っていると考えた方がいい。
(間に合ってくれ)
という思いを胸に建物に入ると、周囲には言葉では表しようのない異様な空気に包まれていた。嫌な予感に胸がざわつく。エレベーターを降り、自分の部屋へと急いだ。玄関の扉が無防備に開いている。中を見ると、玄関には履物が散乱し、中の様子も乱れている。部屋の奥を見ると、そこには愛稀がぐったりと倒れていた。
「愛稀!」
凜は叫んで、愛稀へと駆け寄り、彼女を抱きかかえた。
「愛稀、しっかりしろ!」
身体を何度も揺する。愛稀の身体がびくん、と動いて、彼女は目を覚ました。
「あれ、凜くん……?」
「何があったんだ?」
「何がって……」
愛稀はしばらく呆然としていたが、何かを思い出したらしく、急に表情を曇らせた。
「凜くん、真綾が……真綾が!」
「真綾がどうした」
「余城さんに連れていかれちゃった!」
「何だって!?」
しまった、遅かった――と凜は思った。
「真綾は今、どこにいるんだ!?」
凜の問いに、愛稀は首を横に振り、「分からない」という意思表示をした。
「住民たちに襲われて意識を失ってたから……」
凜には家の中が荒れている理由が分かった。今はいないようだが、大勢の人間が侵入し、愛稀たちに襲いかかったのだ。同時にこのマンションで余城に支配されているのは、すでに佐原夫妻だけにとどまらないのだと悟った。
「どうしよう、真綾にもしものことがあったら、私……!」
「落ち着いて考えよう」
狼狽している愛稀を凜はたしなめた。そして自ら考える。
(余城は一体、真綾どこに連れていった? 外に連れ出したのか? だとしたら、そう遠くは行っていないはず。なぜなら、余城はネット環境がある場所ならばどこにでも出現できるが、真綾はそうはいかないからだ。意外に近くにいるかも知れないぞ。それにそう考えれば、外に連れ出すメリットもそれほどあるとは思えない。だとしたら――)
凜は立ち上がり、息を思いきり吸いこんだ。そしてありったけの声で叫んだ。
「真綾!!」
『パパ――!』
どこかから娘の声が聞こえた。確実に声が届くところに、彼女はいると確信した。おそらくは、この部屋のどこかに、真綾も余城もいるのだろう。
(どの部屋だ――?)
そう思う凜に、ある直感がはたらいた。夫婦の寝室に真綾はいるのではないか。第一、あそこにはノートパソコンもある。凜が日中やり残した仕事を、寝る前に片づけるために置いたものだ。愛稀が調べものやネットショッピングのために使うこともある。いずれにせよ、パソコンがある環境は、余城にとって好都合だ。
凜は寝室の前に立ち、扉のノブに手をかけた。開こうとするが、なぜか扉は開かない。この扉には鍵はなかった。とすれば、研究室と同様に、余城が部屋の中に結界を張っているのだろう。凜は扉越しに呼びかけた。
「真綾! ここにいるのか!?」
「返事して、真綾!」
凜の後に続いて、愛稀も叫ぶ。すると――、
『パパ、ママ!』
小さく真綾の声が聞こえてきた。声は遠くとも、この部屋の中にいるのは間違いないようだ。