第一章・1 (1)
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パソコンから視線を外し、鳥須 凜は椅子にもたれかかった。
目をつむり、指で瞼ごしに目を押さえると、じんわりと痛む。知らぬうちに、ずいぶんと目を酷使していたらしい。パソコン仕事が終わった時はいつもこんな感じだった。
時計を見ると、20時を回っている。しまったと思った。今度投稿する予定の論文のデータ検討をしていたら、いつの間にか帰る予定の時刻を過ぎてしまっていた。
パソコンをシャットダウンし、急いで帰り支度を整え部屋を出る。ドア横の『在室』と書かれたプレートを裏返し、『不在』にした。
研究室にはまだ明かりがついていた。院生か卒研生がまだ実験をしているようだ。研究室を覗くと、案の定ピペットとマイクロチューブを手に、作業をしている男子学生の姿があった。
「僕はもう帰るから。あまり遅くならないように」
凜が言うと、男子学生は作業の手を止めて、はたと彼の方へと顔をあげた。
「分かりました。お疲れさまです」
学生の爽やかな笑顔に見送られて、凜は自身が管理する研究室を後にする。エレベーターに乗り、1Fに降りた。研究棟の前に乗用車が1台、ハザードランプを点滅させた状態で止まっていた。凜は研究棟を出て、車の方へと小走りで向かう。
助手席側のドアを空けると、運転席で妻の愛稀が微笑んだ。
「お帰りなさい」
「すまない。約束の時間をかなり過ぎてしまった」
凜は車に乗り込み、ドアを閉めた。
「いいよ。それだけお仕事に熱中してたってことだもんね」
ニコニコとした微笑みに、彼女の大きな目が幾分か細くなる。凜がシートベルトを締めたのをきっかけに、愛稀は車を走らせた。
愛稀はこのように、凜を迎えに来てくれることがしばしばあった。
家族で暮らすマンションは、大学からそう遠い距離ではないものの、歩くにしては少し時間がかかり、電車ではかえってぐるりと遠回りしなくてはならない。まさに帯に短したすきに長し状態だった。
仕事で帰りが遅くなった時など、愛稀が車で迎えに来てくれるのは、とても有難いことだった。