第三章・5 (2)
欲望をぶちまけることで、愛稀の気分は落ち着いたらしい。
ついさっきまで荒れていた彼女は、凜の隣ですっかり大人しくなっていた。凜も先ほどまでの感情の高ぶりは治まり、静かな心で彼女を抱きながら、ベッドに身体を横たえている。
「私、ふしだらな女かな」
愛稀は冷静な口調でぽつりと言う。
「そんなことはないよ」
凜は彼女の頭を撫で、乱れかかった彼女の髪を爪で梳いた。愛稀はしばらく何も応えなかった。室内に静寂が訪れた。
「……私ね、ふと思ったの」
愛稀が再び話し始めた。
「佐原さん夫婦や凜くんの学生をはじめとした、行方不明だった人たち。彼らは“心”を失っちゃったんじゃないかな」
「どういうこと?」
「こないだ、病院ではく製を見たの、覚えてる?」
「待合室にあった鳥のはく製?」
そう――と、愛稀は凜の顔を見上げた。
「あれを見た時、真綾は言ったわ、『まるで心を失くしたみたい』って」
凜は待合室で吉田を待っている際、真綾が受付の隣にあった水鳥のはく製に妙に興味を示していたことを思い出した。
「確か、そうだったね」
「それを思い出してはっとしたの。私の佐原さん夫婦に対する印象も、それによく似ているの。もちろん、はく製と違って、動くし喋りもするよ。でも、何だか中身が空っぽって感じがするの。もしかしたら、余城さんや他の行方不明者だった人たちも、そんな状態なんじゃないかな」
「――君の言う通りかも知れないな」
愛稀の言うことには、凜も納得できた。川上や早苗と話している時、凜は彼らに言葉の真意が届いていないように感じ、相手の返答も何だか煙に巻かれているようなもどかしさを覚えた。パソコンの中に吸い込まれていったり、姿を消したり、といったことを見聞きする以前から、彼らには奇妙な感慨を抱いていたのだ。
愛稀に言われて、あの時の違和感の原因は、人として当たり前のものが彼らにぽっかりと欠けていたことだと気づいた。
「きっと、あの人たちは人間としての形を捨て、存在を捨て、情報世界の住人になってしまった。それと同時に、人としてもっとも大切なもの――心を失ってしまったんだと思う」
「余城もそうなのかな」
凜は、一連の事件の首謀者と思しき人物の名を出した。彼も川上や早苗同様の状態であることは、十二分に考え得ることだ。
「あの人は、或いは、意図的にかもね」
凜の問いに、愛稀はそう答えた。
「意図的?」
「N市の病院で彼を見て、どう思った?」
「吉田という医師の言う通り、心が壊れていると思った」
「でも、心を失ったとは感じなかったんじゃない?」
「どういう意味?」
凜は訊き返した。
「病院で彼を見た時、私が受けた印象は、『外の世界に脅えている』だった。子犬のような目で、部屋に入った私たちを、まるで危害を加えてくる恐ろしい相手のように見てた。きっと、彼の本心は、周囲をそんなふうに認識していたんだと思う。そして、そんな弱い心を守るために、他者に抵抗する術を身につけていた」
「それが、世界に対抗するための知識、他者を攻撃するための悪意ってことか」
「そうだと思う。そして、彼は自殺を図った時、それらを外の世界に放出した」
悪意を湖に、知識をネットの世界に――。それらは、他者の潜在意識に入り込み、その人を操作する。人々を自分の世界に引きずり込むこと、それが余城の復讐だ。
凜は目を閉じ、考えた。彼の頭脳に惑わされず、悪意に蝕まれないようにするにはどうすればいいだろう。それには、やはり今の彼にはないであろう“心”で立ち向かうほかないのかも知れない。




