第三章・4
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次の日は、ラジオアイソトープ実験に関するガイダンスがあった。卒研生や院生は年に1回これを受けないと、放射性物質を検出に用いた実験ができなくなる。凜の研究室では、毎年ほぼ全員の学生が、この講義を受けるのが通例となっていた。
しかし、凜が研究室に顔を出すと、ひとりの学生が座りパソコンの画面を眺めていた。
「何をしているんだ」
凜が問いかけると、振り向いたのは川上だった。
「自分のデスクで、自分のパソコンを使って、何か悪いことでも?」
「そんなことじゃない。他の学生が講習に行っているのに、君はひとり何をしているんだと聞いているんだ」
「講習?」
川上は室内をぐるぐると見回した。
「なるほど、俺たち以外、誰もいませんね。そうですか――知らなかったものですから。にしても、誰も俺に教えてくれないとは、ここの連中は酷い奴らばっかだな」
川上はへらへらと笑ってみせた。
「それより先生、このデータ覚えていますか?」
川上は言って、パソコンへと向き直る。凜がディスプレイを覗くと、そこに映っていたのは以前彼が行ったウェスタンブロットの結果写真だった。左のレーンにマーカーのバンドが縦に並び光っているが、右のバンドには何も映っていない。つまりこの時の実験では、期待したタンパク質が検出できなかったということになる。
「これがねぇ――何度やっても実験がうまくいかなかったんですよねぇ」
「そうだったな。仮説を立て直すべきだと、僕は言ったはずだ」
これだけ試行錯誤しても結果が出ないということは、当初に考えたこと自体が違っているのだろう、もう一度原点に還り考え直せ――と凜は彼にアドバイスしていた。しかし、彼はいっこうに思考転換を行おうとせず、がむしゃらに同じ実験を繰り返していた。
「研究って、やってるうちに訳が分からなくなってくるんですよね。俺は何をやってるんだろ、こんなこと解明して一体何になるんだろう――って思えてくるんですよ」
それは凜にも分からないわけではなかった。何度やっても結果が出ない時は、そんなふうに思えてしまうこともある。しかし、それでも何度も試行錯誤を繰り返し、乗り越えてゆく姿勢が研究者には求められるのだ。
だが、川上がこれからする行為はそれとは相反するものだった。
「でも、こうしたら――」
川上はパソコンのディスプレイを指でなぞった。すると、なぞった部分――何も映っていなかったはずの部分に、光の帯ができた。
「世紀の大発見、じゃないですか」
「捏造する気か」
凜は腕を組んで言った。川上は鼻で笑った。
「この世界は結果を出した者が勝ちなんでしょう。どんな手を使ってでもね」
「確かに、確かに指でなぞっただけで自在に画像を操作できるなんて、他の誰もが持ち得ない手だろうな」
「それだけじゃない。その気になれば、身体ごとパソコンに侵入して、データを自在に書き換えることだってできますよ」
「その力を君はどうやって手に入れた」
凜は語気を強めた。
「……話したところで、意味はねえよ」
川上も厳しい顔になる。
「どういう意味だ」
「到底理解できないっつってんだよ、お前らみたいなクズにはな」
川上は椅子から立ち上がり、続ける。
「俺は嫌気が差してたんだよ。こんなくだらない世界で、クズみたいな連中にこき使われることにな。そんな時、ある人が教えてくれたんだ。『お前は正しい、悪いのはこの世界だ』ってな」
「ある人とは、余城 峡一のことか」
「――なんだ、知ってたのか」
やはり――と凜は思った。
「彼にはどうやれば会える」
「会ってどうするんだ?」
「話がしたい」
「話がしたいって……馬鹿じゃねーの」
川上は笑い飛ばすように言った。
「お前なんかが余城さんに会えるわけねーだろ。あの人は世界を超越した存在だ。選ばれた人間しか、彼には会えないのさ」
この俺のようにね――と、川上は勝ち誇ったように言った。
「選ばれた人間とは、行方不明になっていた人たちのことだな」
「そういうこと。いわば、俺たちは余城さんに素質を見出されたんだ。あの人は、フレキシブルで無限の可能性を秘めたヴァーチャルの世界に俺たちを誘ってくれた。この身体だって絶対的なものじゃない。ほら――」
川上がすっと腕を前に出した。それがどろりと溶けて地に落ち、蒸発してゆく。みるみるうちに、腕以外の部分も流動化していった。
「こんなふうに形を変えたり、姿を消したりすることも自在だ。ヴァーチャル世界に身を置く俺たちの可能性もまた無限大さ。生と死の概念さえない」
「人間でさえなくなってしまったのか」
「当然だ。俺たちはヒトを越えた、いわば“超人”だ。そして、今に俺たちがこの世界を掌握するぞ。お前がこの研究室でお山の大将を気取っていられるのも今のうちだ。せいぜい覚悟しとくんだな」
川上がそこまで言い終わったのとほぼ同時に、彼の全身は溶け、消え去った。




