Case. 3
川上 保は実験がうまく進まないことに苛立ちを覚えていた。
クロマチン免疫沈降法を用いて、染色体領域におけるタンパク質の定量を行っていたが、何度行っても結果はネガティブだった。もう、意地を張らずに、当初立てた仮説が間違っていたと認めなければならないだろう。
彼はここ1年ほど、まともな成果を出したことがなかった。学部生の頃はかなり成績もよく、特待生として奨学金の返還免除をもらえるほどであった。
もちろん、家族や教員たちをはじめ、周囲からの期待も大きかったし、川上自身もそんな自分を誇りに思っていた。
しかし、大学院に進学してから、事態は一変した。知識を蓄えることと、実験のセンスとはまったく異なるということを、彼は思い知ることとなった。流されるような形で博士課程に進学してしまったが、修士で卒業し就職すればよかったのではと、今となっては思えてしまう。
(どこで道を踏み外してしまったんだ――)
川上は内心で嘆いていた。自分より劣っていると思っていた学生たちが、自分よりも遥かにいい成果をあげている。1学年下の恋人は、つい最近、大手の製薬会社から内定が出たばかりで、修士修了後の行き先が決まっていた。
自分だけがどんどん落ちぶれていくような気がしてならない。
(もう周囲は、俺に対して何も期待をしてくれないんじゃないか)
言い知れぬ不安が襲った。目の前にある実験器具も試料もほっぽり出して、研究室を飛び出す。その足で、研究棟内の休憩室に向かった。
自動販売機で缶コーヒーを買い、丸椅子に座ってプルタブを開ける。飲み口に口をつけると、一気に飲み干した。
午前0時をそろそろ迎えようという構内は薄暗く、人も殆どいなかった。研究室に残っているのも、もはや川上だけだ。
(こうなったのも、全部アイツのせいだ!)
川上は思ってみた。恨み節を向けた相手は、自分の研究室のボスだった。比較的若い先生で、まだ30代半ばを少し過ぎたばかりだというのに、すでに准教授のポストに就いている。
しかし、川上は彼のことをあまり尊敬はしていなかった。むしろ、一般には受け入れられないような人間だと、小馬鹿にさえしていた。常に訥々としていて、人づきあいが悪く、言動に要領を得ないこともしばしばある。一緒にいて、違和感を覚えることが多い。
(世間では俺の方が認められるに決まっている。なのに、どうしてあんな奴に苦しめられなきゃならないんだ。アイツがよこしてきた研究テーマがもっとよかったら、俺だって今頃は――)
テーマによって成果が出やすいものと出にくいものがあるのは事実だった。研究というのは、それだけ運に左右される仕事なのだ。
しかし実のところ、原因はそれだけではないと、川上自身もうすうす感づいていた。つまるところ、自分には研究そのものが根本的に向いていないのだ。
しかし、一方ではそれを認めたくはない自分がいて、他者を非難することで安心を得ようとしているのだ。それを認めることが川上には怖かった。
「俺はどうしたらいいんだ。もう遅いのか? 俺は、昔のような明るい日々を送ることはできないのか!?」
誰もいない薄暗い空間に、声は虚しく響いた。空になった缶をコツンとテーブルに叩きつけ、川上はうなだれた。そんな時だった――、
『できるさ』
と、どこかから声が聞こえてきた。
『君はもっと自由に羽ばたける。その素質がある』
「――だ、誰だ!?」
辺りを見回したが、誰もいない。ふいに、休憩室に備えつけてあるテレビが、ひとりでについた。川上は眩しさに目を細めながらも、画面をじっと見つめていた。
そこに現れたのは、ひとりの青年だった。川上はその場から逃げたいという衝動にも駆られたが、どういうわけか身体が動かなかった。
そんな川上に、青年は笑みをたたえて言った。
『怖がらなくてもいい。私は、君を救いに来たのだ』
「俺を――救いに……?」
『そうだ。君は逃れたいんだろう。不本意な状況に。君を苦しめる、この現実に』
「そ、そうだ」
川上は立ち上がり、逃げるどころか画面の方へと歩いていった。
「俺を救うと言ったな。お前には、それができるのか」
『もちろん』
青年は自信あり気に答えた。
『そもそも、君が苦しんでいる、その根本的な原因は何だと思う? それは、君を構成しながら、君という存在を制限している、その身体だ』
「俺の身体?」
『そうさ。その身体を取っ払ってしまえば、君は自由になる』
「でも、本当にそんなことができるのか?」
そんなこと本当に可能なのだろうかと、川上は訝しんだ。
『簡単さ。君はただ、私を信じればいい。そうすれば、君は素晴らしい情報の世界に足を踏み入れられる。この世界はどこまでも広がりどこにでもつながっている。今君がいる個体という殻によって閉鎖された世界とは、まったく正反対だ。ここでなら、君は君自身の頭脳や能力、才能を思う存分使うことができるだろう』
青年の言葉に川上が思い浮かべたのは、無数に張り巡らされた網目模様だった。そんな世界に身を委ねるのも悪くない――川上はそんなふうに思った。
『どうだ、私と一緒に来ないか』
青年の申し出に、川上はテレビを食い入るように見つめ、言った。
「こんな現実もうたくさんだ。そっちの世界がそんなにいいなら、ぜひ俺も連れていってくれ」
『いいだろう――』
青年が手を伸ばした――と思ったその時、テレビの画面から、ぬっと2本の腕が飛びだした。川上の頭をぐっと抑える。ふいに、川上は自分の意識がすっと縦に伸びていくような感覚を覚えた。身体という壁を超えて、自分がどこまでも広がっていくような心地よさに彼は身を委ねた――。
いつしか、川上の身体は消え失せていた。代わりに、テレビの画面には、青年の横に並ぶ彼の姿があった。彼は笑みを浮かべている。それは、自分を苦しめてきた現実に復讐を誓うような、邪な笑顔だった。
プツッ――とテレビが消え、辺りには再び闇と静寂が訪れた。