第三章・1
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月曜日の朝、凜は研究室に行く準備を整え、玄関で靴を履いた。
「じゃあ行ってくる」
出迎えに立つ愛稀と真綾を振り返る。
「行ってらっしゃい。私ももう少ししたら真綾を幼稚園に連れていくから」
「パパ、行ってらっしゃい」
愛稀の横で真綾が手を振る。凜も軽く手をあげて、娘に微笑んだ。それから、愛稀の方を見て、目と目で合図をする。
N市での調査より帰ってから、凜たちはこれまで通りの日常を過ごすことに決めた。余城という脅威をより強く確信する結果となったが、下手に警戒するのは得策ではないと思えた。臆することなく、どっしりと構えていた方が、相手につけ込まれる隙を与えずにすむだろう。
いつも通りのルートで、いつも通りの時間に研究室に着いた。准教授室の鍵を開け中に入り、まずパソコンの電源を入れるのも、いつも通りの日課だ。
コンコン、とノック音がした。
「どうぞ」
と声をかけると、凜の研究室の卒研生が血相を変えて入ってきた。
「あ、先生いた……」
「どうした?」
凜が問うと、彼は興奮気味な口調でこう言った。
「実は、川上さんが来てるんです」
「――なに?」
実験室に向かい、扉の窓から中を覗くと、川上専用のデスクに確かに彼は座っていた。彼の周囲を、すでに多数の研究室の学生たちが取り囲んでいた。凜はスライド式の扉を開けると、その音に気づいたようで川上がこちらを向いた。
「やあ先生、お久しぶりです」
川上は唇に笑みを蓄えて言った。悩みや迷いのない、すっきりとした顔をしている。というよりは、すっきりとしすぎていて、作りものの顔のようだと凜は思った。
「今までどこで何をしていた?」
凜が尋ねた。川上はクスクスと笑った。
「やだなぁ――先生、なに真剣になっちゃってんの?」
「質問に答えるんだ。研究室にも来ず、誰にも連絡もせず、今までどこにいた」
川上は何も答えず、ただにやついて凜を見上げていた。
「新川さんも心配していたぞ」
「彼女にはもう会いましたよ」
川上は、今度は凜をきっと見据え即座に答えた。
「タモくん」
気づけば、凜の後ろに早苗が立っていた。彼女は派手なメイクを施し、白衣の下には大胆に胸元の開いた服を纏っていた。これまでのような清楚なイメージとはかけ離れた風貌だ。
早苗は川上のもとへ歩いていき、彼の隣に立つ。
「先生、ありがとうございます。おかげでタモくんが戻ってきましたわ」
彼女はそう言ってから腰をかがめ、人目もはばからず彼の唇に自分の真っ赤な唇を重ねた。
「あ、俺たち、近々一緒になることになったんで」
川上は早苗の肩を抱きながら言った。その様は、まるで彼女を「自分の女だ」と誇示しているようだった。早苗も満足げな笑みを浮かべている。
(事態は丸くおさまったのか。いや――)
到底そうは思えなかった。何かが狂っていると、感じずにはいられなかった。
(お前は一体、どういうつもりなんだ?)
ホテルでの余城への問いかけを、凜はもう一度反芻した。




