第二章・5
5
ホテルの最上階にバーはあった。凜はひとり、エレベーターでそこに向かっていた。
「バーにでも行ってきたら?」
と、彼に勧めたのは愛稀だった。ホテルにチェックインした後、家族3人で施設内のチャイニーズレストランで夕食をとり、部屋に戻ってきてすぐのことである。
「今回の調査の件、ひとりでじっくり考えたいんじゃない? 今から、少し別行動しよう。私と真綾のことは気にしないでいいよ。ふたりで楽しくやっとくから」
実は、愛稀の申し出は凜にとって有難かった。日中見聞きしたことについて整理しようとしても、家族サービスを意識してしまい、どうにも気もそぞろになってしまっていた。愛稀は凜がそんなふうに感じ、そわそわと落ち着かないのを見逃さなかったのだろう。
開店したばかりの店内には、まだ他に客はいなかった。凜はカウンターの真ん中に座った。
「何にいたしましょうか」
バーテンダーが尋ねる。バックカウンターに並ぶウイスキーの瓶をひととおり眺めると、あるラベルに目が止まった。
「竹鶴21年をロックでください」
バーテンダーはバカラのオールド・ファッションド・グラスに、正方形型の氷を入れ、ウイスキーをメジャーカップでシングル測り入れた。バースプーンの柄の方でゆっくりとステアし、グラスをコースターの上に置く。少量口に含み、舌で転がすと、冷えたウイスキーが体温で温もり、飲みこんだ刹那、まろやかな香りが花開いた。
「…………」
凜は、余韻に浸りながらも、日中のことを思い返してみる。
岩井と余城の両親の話、湖での出来事、そして余城を実際に見た時の印象――それらを一本につなぐストーリーを組み立ててみる。
(余城は社会でもうまくいかず、友人や家族にも受け入れられず、この世の中を憎んでいた。そして、湖で入水自殺を図った。結果として、彼は死ぬことはできず、精神が崩壊した状態であの精神病院に入院することになった。だが、もし仮に、彼が入水した理由が、自らの命を絶とうとしたわけではなかったとしたら。自らの願望を達成するために、それが必要な行為だったとしたら――)
相変わらず現実離れした論理だと自分でも思う。吉田に話せば、笑い飛ばされるのがオチだろう。しかし、凜の論理を裏づける証拠があった。
(あの湖での出来事だ。あの場所で、愛稀と真綾に異変が起こった。車酔いとかそういうレベルの話じゃない。あのふたりは、あの場所で、何かよくないものを感じ取ったに違いない)
あの場所で、凜もおかしな気分になった。湖に吸い込まれるような心地がしたのだ。かろうじて、愛稀が止めてくれたが、彼女がいなければと思うとぞっとする。
(あの場所に一体何があったのか――)
その答えは明白だった。余城そのものである。
(彼は入水自殺を図ることで、自らの意識を身体から分離した)
彼はもしかしたら、自分の命さえどうなろうが構わなかったのかも知れない。彼は身体を失うことで、彼の抱えていた悲しみや憎しみを辺りに放出したのだ。その負の想いは、湖に溶け込み、川を流れ、人々の心へ――。
湖の水を生活水に利用している人々の中に失踪者がとりわけ多いという事実とも一致している。
凜は危機感を覚えた。水は人々が生きてゆく上で、切っても切り離せないものだ。にも拘らず、その水が、かえって我々の脅威になろうとしているのか――。
バーの窓の外には、闇夜に紛れた空洞がはっきりと存在して、人々が落ち込んでゆくのを今か今かと待ち受けているようだった。
(余城、一体お前はどういうつもりなんだ?)
凜は湖にいるであろう男に向かって語りかけた。何のために、人々を行方不明にしてゆくのだろう。再びウイスキーを口に含んだが、今度は味も香りもあまり感じられなかった――その理由は、氷が溶けて薄まったためだけではないと思えた。
謎は深まるばかりだった。水の流れとネット、この両者をつなぐ鍵もまだ見つかっていないのだ。
(愛稀と真綾は大丈夫だろうか)
ふと、ふたりのことが気がかりになった。彼女たちと別行動をとったことが、果たしてよくなかったのではないだろうかと、凜は思い始めていた。




