第一章・5
5
家に帰ると、愛稀が部屋の明かりもろくにつけず、ダイニングテーブルにぽつりと座っていた。
「おかえり。凜くん、早かったね」
愛稀は横目で凜を見ながら、抑揚のない声で言った。唇をへの字に曲げている。
「早かったって――」
凜は時計を見た。早苗を駅まで送ったこともあり、只今の時刻は22時を超えていた。
「あんな若くて可愛い子といたんだもん。もっと遅くなると思った」
「……何か勘違いしてないか?」
彼女がご機嫌斜めだということはよくうかがえる。しかし、そこには大きな誤解があるようだ。
「前にも話したろう。新川さんは、失踪した僕の研究室の学生である川上くんの友人だ。もっとはっきり言えば、彼と恋人関係にある人だ」
「だからって、あなたと関係が築けないわけじゃない。だいたい、あの子の彼氏って、今どこにいるのか分からないんでしょ」
「彼女とは、事件の解明のために話し合ってきただけだ」
凜は言った。第一、凜がこの件に取り組む一番の理由は、家族を守りたいからだった。けれども、愛稀はすぐさま、
「どうだか」
と疑いの目を向けてくる。
「根拠はどこにある」
「ないよ。でもあの子、何だか様子がおかしい。最初に会った時から思ってたの」
「いい加減にしろよ――」
と、凜は言いながら、ふと帰り際のことを思い出した。自分にはまったくその気はなく、早苗も気持ちの整理がつけられずにあんなことを言ったのだろう。けれども、事実だけみれば、そうなりかけたのは確かだった。
「ほら、やっぱり思い当たるふしがあるんじゃない」
愛稀はそんな凜の心の隙を見逃さなかった。
「……信じてくれ。本当に何もないんだ」
「信じたいよ。でも、すべて信じられるほど、私も強い人間じゃないんだよ。不安にだってなる。このまま真綾を守っていけるのか、あなたとの幸せな日々がいつまで続くのか――」
「…………」
「分かるよ。凜くんが、多くの人を助けたいと思う気持ち。そんな凜くんだから、私も信じたい。でも、もうちょっと、家族にも目を向けてよ。私たちを安心させてよ」
「すまなかった。僕は君たちを守りたくて、一連の事件について考えてきた。けれど、そこに固執するあまり、肝心なことがすっかり抜け落ちていたようだ」
凜は素直に自分の非を認めた。はじめは、愛稀が怒っているのは一方的な彼女の勘違いだと思っていたが、よくよく考えてみるともっともな話だった。
「本質を見失うな」と早苗にアドバイスしておきながら、自分もそれがまったくできていなかったことに今さら気づいた。
「もっと私と真綾のそばにいて。どんな不安も、あなたとならきっと乗り越えられる」
愛稀が凜に身体を寄せてくる。凜は彼女の身体を抱きしめた。彼女の頭に鼻先を近づけると、洗いたての髪から、シャンプーの香りがした。
「分かった。もうどこにもいかない」
「口先だけじゃ嫌だよ。形で示して」
愛稀は凜の胸元に顔をうずめながら言う。
「――形?」
彼女は、自分より少し背の高い旦那の顔を見上げた。目を見つめながら言う。
「もうひとり子供つくろう」
「子供!?」
凜は素っ頓狂な声をあげた。予想外の言葉だった。
「私ね、あなたと結婚した頃、よく夢に描いてたの。家族はあなたと私、そして子供が2人って。あとひとりで夢が叶うんだ」
「それは――すぐにはちょっと」
「やだやだ、ぜったい約束して!」
愛稀は子供のように凜の胸元で悶えてみせる。凜はこうなった時の彼女には弱かった。有無を言わさず許してしまいそうになる。愛稀もそれを知りながら、彼に甘えているのだろう。
甘え上手で幸せには貪欲――彼女のそんな性格を、凜は改めて感じていた。




