婚約者になれと言われたのですが、相手に宣戦布告をしてしまい困っています。
床のひやりとした感触が、素肌に触れた。それは一瞬の内に神経を駆け、脳に"冷たい"という情報を伝えてくる。
それは脳から染み出して、心にもひんやりとした嫌な冷たさが広がった。
びちゃっ。
嫌な水音が足元から聞こえ、見下ろす。そこには、薄暗く太陽の目の届かないこの地下牢でもはっきりと見える、鮮やかな赤色があった。
「あ……」
何かを叫ぼうと口を開けば、出てきたのは掠れて声になり損ねた、吐息。だが、声を出す事を体が忘れたわけではない。
「あ、ぁ……ゃ……ぃゃ……」
徐々に、声帯を動かす方法を思い出す。徐々に、その胸の内が言葉にされていく。
ーー徐々に、目の前の真っ赤な肉の塊が、元は親しい少年だった物なのだと認識されていく。
「いやあぁぁぁあああ"ぁぁぁあぁあ!!!!」
その声は牢に響き渡った。
されど、閉ざされた部屋の中の哀れな叫びは、部屋の外には届かない。
「アラン!!! アラン!!!? 起きてよ!! ねえ!!
ねえ……ぃや……いやだよ……まだ、約束、果たして貰って……」
今日、十才の誕生日を迎えた少女は、同じく十歳の少年に縋り付いた。その時に触れた彼の肌は冷たく、脈も感じられない。
息もしていない。
当然、少女の言葉へ返される返事も、無い。
それでも、彼女は狂ったように横たわる彼に話しかけ続けた。床に広がっていく血が、座り込んだ少女の服の裾からじわりじわりと染み込み、抱きしめた時に触れた場所から血がべっとりと付いたが、彼女はまるで気にしていない。
純白の神の使徒の服が、真っ赤に染まる。
奴隷服を着た少年と高貴な巫女服に身を包んだ少女。
そんな、かけ離れてでこぼこなーーそれでいてよく似合うーー二人が、手を繋いで歩く日は二度と訪れないだろう。
「……絶対に……許さない」
その呟きは暗闇の中で木霊して、誰にも聞かれる事の無いまま消えた。
「ミレイナ様ー! そろそろ、出発のお時間ですよー!」
自室のドアを無遠慮にノックしながらそう大声を出す女の声。それは聞き慣れた友人の声で、私は少し面倒に思いながらも返事を返した。
「わかっております。今、行きますので」
言いながら、ドアノブに手が届く所までドアへ近づいた……が、ドアを開ける事なく、一度振り向いて部屋を見回した。
長年寝ていた天蓋付きベッド。使用人のお陰で汚れのない白い壁。可愛い物が良い、と昔は文句を零していた筈なのに、何時の間にかすっかり慣れ親しんでいた剣がモティーフの絨毯の柄。閉ざされた窓のすぐ外には、淡い色の花を咲かせた木が生えているのがわかる。
知らぬ間にこんなにも、一つ一つが離れ難い物となっていたのか……少し感傷的になってしまう。
が、そんな雰囲気もドアの外の声にぶち壊された。
「ちょっとミレイナ? 早くして下さらないと困りますよ」
「上司を呼び捨てはどうかと思うよ。やっと敬語に慣れたと思えば……」
「ごめんごめん」
そんなやり取りをしながら、私はドアを開けた。
すると目の前に現れたのは、少し特徴的で美人な友人の顔。
「さ、転移魔法陣の用意も終わっている筈ですから、行きましょう」
「……ええ」
頷いて、歩き始めた。その足取りは、少し重い。
向かう先は、新しい住まいとなる王城。
ーー私はこれから、婚約者と対面し、共に暮らすのだ。
そもそも、私が王城へ行く事になったのは一ヶ月程前の事。
由緒正しき我が家を支えるお父様に、一人の客が来た。
後に知った事なのだが、その客人はこの国ーーラグズラディア王国ーーの、国王その人だったらしい。
父から聞いた話によると、陛下と父の会話はこのような物だったそう。
「突然来てすまないな。まあ大体検討はついていると思うが……今回私が来たのは、婚約についてだ」
「……もう、娘もそんな歳なのですね……。ですが、結局王位はシルヴァン王子とマリユス王子、どちらが継承するのですか?」
「それが問題なんだ……が、実はその事で提案があってな」
「提案?」
「ああ。ミレイナ嬢を王城に住まわせ、シルヴァンとマリユス、どちらと結婚したいか選んでもらいたい。そして彼女が選んだ人物を、国王にしたいのだ」
突然の話に父は戸惑ったらしいが、国王に逆らう理由も無かったため了承したそうだ。
確かに、巫女の娘は代々国王の妻となっている。だが、私はてっきり形だけの結婚をして、城で暮らす事も無いだろうと思っていたのだ。
「……私の意思も聞かずに決めるなんて……」
……お父様、一生恨みますからね。
転移魔法陣に足を踏み入れ、転移魔法の独特で奇妙な感覚に包まれながら思い出していると、唐突に魔法の幻想的な光が消え失せた。
数回程瞬きをして辺りを見回してみると、何時の間にかそこは石造りの部屋の中で、足元には徐々に魔力を失っていく魔法陣があった。
着いたのだ、王城に。
さて、部屋を出て挨拶に行かなければと足を踏み出すとぐらりと体が傾いて、その時初めて転移の反動で平衡感覚がやられている事に気付いた。しかし今更気付いた所で倒れていく体をどうにかする事は出来ず、呆気に取られるばかりだった。
無意識に目をキツく閉じ、襲いくるであろう痛みに備える。が、何もない。
恐る恐る目を開けると、視界は暗かった。
驚いたが、すぐに誰かに抱きとめられている事に気付く。
「大丈夫ですか? 巫女の末裔、ミレイナ・アイレント嬢」
透き通ったテノールの音が聞こえて見上げると、まばゆい美貌の青年の顔がそこにあった。
部屋の中に差し込む光を受け輝く金髪と、青空の美しさを唄っているかのような青色の瞳。
初めて見るその顔はしかし、ある意味ではとても見慣れた人だった。
私はすぐに立ち直り彼から距離を取ると、貴族なら誰でも出来る丁寧なお辞儀をして、
「私めの無礼をお許し下さい、殿下」
と言った。
目の前の青年を、見間違える筈も無い。彼は今まで幾度も肖像画で見せられてきたこの国の王子、マリユスその人だった。
彼は確か、かなり人事に長けていて狡猾らしい。だがあまりの腹黒さに、現王は正室の子である彼を即位させる事を渋ったのだとか。
それが、私を使って王位継承者を決める事にした理由の一つらしい。
「ふふっ、謝らなくても良いよ。未来の妻ならば、対等な立場であるべきだからね。
初めまして。そして……
ーーようこそ、我が城へ」
微笑んで私の手を取り歩き出した彼の瞳の奥深く、人知れぬその心の底の深淵に黒く渦巻く欲望が垣間見えた気がして、私は思わず身震いした。
それは他人を蹴落としてでも上に行く者の目で、酷く嫌悪を覚えてしまう。
今まで、肖像画で散々彼の顔を見てきた。だが、実物がこんなにも美しく恐ろしい事を、誰が想像できただろうか?
嫌々ながら彼に手を引かれ魔法陣の部屋から出ると、そこは外だった。振り向くと、石造りの塔がある。
魔法陣は城の敷地の東の外れ、この古い塔の中にある。城とここは秘密の地下通路で繋がっていて、王は何かあった際通路を使って遠くへ逃げるそうだ。
視線を塔から前方の王子の方へ戻すと、そちらには見慣れぬ人物が増えていた。
王子は立ち止まる。当然、私も止まった。
「兄さんったら、女性を迎えるのに遅刻だなんてどうかと思うよ?」
見ると、斜め後ろから見えるマリユスの横顔は困った様子で苦笑していた。
次に、彼が兄と呼んだ人物に目を向ける。
マリユスの腹違いの兄、シルヴァン。側室の子で、城内では若干立場が無いという話だ。腹違いのため容姿も結構違い、限りなく銀髪に近いプラチナブロンドの髪に、紫の目と、この国では珍しい瞳の色だった。
ただ、目元はどことなく似ているような気がした。
「知るか。俺は貴族の女共は嫌いなんだ」
そう言って、青年は私に視線を寄越した。彼の容姿を観察しつつ彼について思い出していた私は、当然彼と目が合う。
「お前が俺達の婚約者か。偉大な巫女の末裔だから見てくれだけは上々……って事か。
どうせ俺達から権力を貪ろうってんだろ。悪いが、俺はお前を婚約者とは認めねぇからな」
「ちょっと兄さん……。
ごめんね、ミレイナちゃ……
……え?」
彼は、そう言って目を丸くした。
続いてシルヴァンも、少し目を見開く。
私は、シルヴァンから言われた言葉に強い怒りを抱かなかった。
寧ろ、笑いが込み上げてくる。
私は、笑っていた。というより、微笑む、が正解だろうか。
「貴族の女が嫌い……ですか。それは良かった。
私……
ーー王族が、大っ嫌いなんです。
お互いに嫌いなんだから、おあいこ……ですね?」
宣戦布告……と言っても過言では無い言葉。それが、これからの未来にどう影響するのか。
そして、少々よろしくない出会いをした私達三人は、一体どうなるのか。
この時の私は、そんな事少しも考えてはいなかった。
続 か な い