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前編

ようやく落ち着くことができそうだ。

 狭い便所だが、家の中で弘が一息つける場所というのは、ここだけである。

 便座の蓋を閉じて椅子代わりにし、腰を深く落として息を吐くと、自分の酸素の中にとっぷりと沈むことができて、水を得た魚のように悠々とした心地になれるのが、いい。

 もう少し欲をいえば、一服したいところであるが、便所に煙の渋い臭いがついてしまうので、いけない、妻の由美のきりきり声はなるべく避けたい。

 弘は煙草をやるが由美は吸わない。色々と気をつかう。

 こんな羽目になるなんて思いもしなかった。

 弘は由美と結婚して十年になるが、彼女との生活の中で持てたものといえば、痛恨の念と後悔の心だけである。

 「ちょっと、弘君、いつまでトイレは入ってんの?トイレで何してんの、いつもいつも。臭くなるやろ、はよ、出てよ」

 バン、と前にある扉が叩かれると、身体中を巡る神経がきりきりときしむ。

 叩いたのは妻の由美である。

 ということは、由美は目覚めたのである。

 せっかく取れた休憩はもうぶち壊しである。何たることであろうか、弘が起き上がったときは、由美はまだ横で寝息をたてて眠っていたのに。

「弘君、聞いてたん?早く出てってば、あたし、遅刻するやろ。あたしは弘君よりもはよ出なあかんねんからねッ」

 「ごめん。もう出るから」

 扉の外にきちんと届くような声で返事をしつつ立ち上がり、用も足していないのに、巻紙器をかたかたと鳴らしてじゃーと水を流してから、外へ出ると、

 「もう、遅いねん。臭いないやろね」

 ふぐのような顔をした由美が、仁王立ちして待ちかまえていた。

「してないで」

寝巻き姿のままの弘は力なく応えると、由美は獣がうなるように文句をいう。

 「だったら、なんでもっとちゃっちゃと済まさへんの、こんなにあたしを待たして、何してんのよ、トイレの中で毎朝毎朝」

 化粧をしていない、眉のない由美の歪む顔に慣れたとはいえ、馴染めない。

 「ごめん」

 渋い表情を相手に悟られないようにするために、謝ることで誤魔化して、ぼさぼさの髪で台所に向かいつつ、入れ替わるように便所へ入っていく由美の背中に断っておく。

 「ごはん、すぐ作るわ」

 「早くしてや」

 意気良く扉は閉められて、弘は再び一人になることができた。

 しかしいつの間にやら居間のテレビが付けられていたりする。

 沈黙の嫌う由美が付けたのであろう。

 早くも浩は、由美の住処に引き戻されてしまったようである。

 もうちょっとだけ自由の精神を満喫したかったのだが、そんなこと気の弱い弘はいえないので、諦めるしかない。

こんな魔物の住処のようなところへ漂流してしまったのも、波の流れに身を任せた弘のせいなのだから、仕方のないことなのである。

 「この芋の味噌汁の味、薄いわあ、年寄りの味やん。なんでこんなに味薄くすんの?いつもいつも。景気悪いねん、朝から」

 「え?かなり意識して味噌の量を増やしたんけどなあ。そっかあ、まだ、由美ちゃんの好みには届かんかあ」

 目の前に座る、由美の機嫌を損ねたくないがため、味噌汁を大げさにすすってから、口の中に入れたじゃがいもをほふほふしながら、一人でぼやくようにいってみた。

「野菜の量をいつもより多くしたんが、いかんかったんかもなあ」

塩の加減が悪いという由美の意見に、賛成とも反対とも取れない返事をそれとなくしておく。

「もう、ほんまにこれ薄いわ。お湯飲んでるみたいや」

由美は夫のささやかな抵抗など耳に入らないらしく、ぶりぶり文句をいいながら、水茄子のつけものがばりばりと砕かれている音が響く中で、弘はもそもそと白いごはんを口に運びつつ、内心、納得いかないでいる。

弘の味付けは断じて悪くない。

はんなりとした薄味は上品である。

ジャガイモと玉ねぎの味噌汁は、上等の昆布の力のおかげで良いダシが出ておいしくできている。

ついでにいわせてもらえば、寝ぼけ眼で作り始めたにしては、じゃがいもの煮え加減といい、玉ねぎの甘さが味噌の塩味を引き立ててくれて、上にふりかけた葱の香りはすばらしく、いつもよりもうんと美味く仕上がっているぐらいである。

悪いのは由美の舌の機能である。

食べ物に関して、由美に好物はない。食に対して愛着がないのである。

由美はどちらかといえば、辛ければ許すという系統である。

しかめっ面をして、もぐもぐしている由美を、弘は見た。般若のような面をしている。朝食を採る人の顔ではないと思われる。

もっと塩分を増やしさえすれば、由美のこんな顔を見なくて済むのであろうか。

弘は由美に明るくないので分からない。

ひょっとすると由美も、弘のすることなすこと全てが嫌なのであろうか。弘が由美の全部が苦手だと感じているように。

四十八になった最近弘は、こんなことを頓に思ったりする。

ちらと、並べた皿へ視線を落とす。

ほうれん草のおひたしに、高野豆腐と野菜の煮物、ほわほわの出し巻き卵焼きはすでにぺろりと平らげてあり、由美の前にある皿は空になっていたりする。

ぶうぶうといちゃもんをつけていたくせにこの結果、弘はますます由美が理解できないし、この女を胸の内に受け入れることを怖いと思い、心が浸る壷の蓋をぎゅっと硬く閉じる次第なのである。

「もうすぐあたし出るで。後片付けちゃんとしといてよ」

「分かってる」

先に食べ始めた由美と違い、弘の器に盛られているおかずのほとんどは冷えてしまっているが、それでも味の調整はうまくいっていると、憮然たる面持ちで、応える。

 弘の家では、夫婦共働きのため、家事は二分化にして、朝と夜の食事は、帰宅時間が一定している浩が作ることになっている。

 母親のまめな手料理で育ったので、食べることが好きになり、料理が趣味となったので、毎食きちんと整えることは苦ではない、むしろ楽しい。

 会社の帰り際に、スーパーやデパートの地下の食料品売り場へ出向き、今晩と明日の朝食の献立を考えているときが、弘が一番うきうきと心弾むときである。

 独身時代は、両親と実家で同居していたのだが、仕事のない日はどこにも行かず、家で黙々と鍋をかき混ぜ、野菜などをざくざく切り、若い盛りの息子が一人で台所にこもるのをぽかんとして眺めていた母などに、振舞ったりしていた。

もちろん後片付けも丁寧にやる、汚れを落とし磨いた台所を見渡すのは、達成感が生まれて心地よい。

朝食を終えてすぐに立ち上がり、洗い場に一枚二枚と使った皿を沈めていくと、脱衣所の洗濯機が止まったという合図が、居間に鳴り渡る。

食後のお茶を飲み干して、口紅を塗り終えた由美が、いう。

「ちゃんと干しといてや。あ、あたしのキャミソールは、ハンガーに掛けんと竿に直接垂らすねんで、そうせんと伸びるやろから」

 「分かってる、あの、柔らかい素材のやつやろ」

 「そ、ほんまは手洗いしたほうがええねんけどな」

 これには応えないでおく。由美の、それとなく新しい用事を弘に押し付けようとしている魂胆はみえみえなので。

 洗濯も弘の担当領域である。前もって決めたのではなく、自然とそうなっていった。

 水を出したままで、食器をかちゃかちゃと洗っている弘に届くよう、由美は声を荒げる。

 「食器洗い機買ったのに、なんでわざわざ手洗いするんよ、時間勿体ないやろ」

 手が汚くなるからという厄介な駄々をこねて、由美は水仕事を拒むから、弘が湯で洗おうと水で濯ごうと関係ないのに、色々ちょっかいを出してくる。

 「ああ、でも、朝はちょっとしか食器は使わへんしな。このぐらいの量やったら僕の手だけで十分やし」

 「朝から暇やね」

 さらに由美は、色を落としても酷薄そうな唇を、吊り上げて馬鹿にする。

 他人を見下すいいぐさは、由美の習性なのであきらめるしかないのだが、弘はこういうときやるせない心地になる。しょぼんとした弘の背中に刺さる矢は、どんどん増えてく。

 「ガス代でも節約してるつもりなん?なに、水で洗ってるのん?なんでお湯でせえへんの。汚れ取れにくいんとちゃうの」

 食器についた泡を水で消しているところ、使用していたカップを届けに、由美が覗き込んでくる。弘は構える。

 ぎらんと光る由美の目には邪険がない、だから厄介なのである。

 気の弱い弘は隣に並ぶ由美を見ないようにして、まごまごするしかない。

 「そんなんちゃうけど……」

 「時間あるもんな、ええね、弘君は。じゃ、あたし出るからね。夕ご飯はうちで食べるから用意しといてや」

 弘が返事をする前に、由美はさっさと出て行ってしまう。

 玄関の扉が閉められても、廊下に流れていく由美のヒールの打つ音は、しばしの間部屋に響く。

 なにやらがつがつとして、歩武堂々とすさまじいものである。

 住居はまだ新築といっていいようなマンションだから、部屋は完全に埋まっていなく、特に弘のいる階は人気が少ない、外の様子はよく聞こえるのである。

垂れる水を止めると同時に、弘は大きく息を吐く。

 胸の内に広がる砂浜に、限界と叫ぶ波が寄り、白い砂丘をぢわぢわと濡らして黒に塗り、隅で立つ弘を呑もうとする。

 弘は海にさらわれない様に、必死で高みへ上るが、最近、波に捕まりどこかへ運ばれてしまってもいいかもしれないと思い始めている。

 四十路の真ん中を越えて、由美を避けることに疲れ、逃げまわるのにも、体力が持たなくなってきているのだ。

でも会社につく頃には、騒ぐ胸は静かになってくれるのは、弘のいい加減なところなのである。

「斉藤ちゃん」

簡素なビルに設置してある会社のドアを開けたとたん、しゃがれてはいるが、朗々とした声がかけられた。

「おはよーさん」

アイロンはあてられていないよれよれの、カッターシャツに身を包んだ社長が、あいさつをしてくれたので、弘もさえた表情を現す。

「はい、おはようございますです」

「社長は、今日も達者でなによりですな」

隣の席の山口さんが、先月退院したばかりの社長に、颯爽とした笑顔を振りまく。

気の弱い弘は、内心ぎょっとするが、部下のからかいをもろともせずに、社長は乾いた皮膚をくしゃりとさせて、腰を真っ直ぐに伸ばし、笑い飛ばす。

「また嫌味いうて、山ちゃんは。今朝の血圧も正常でした、心配はいりゃしません」

社長と山口さんが声を合わせて笑うので、隅にいる弘もつられてるように頬を緩めてしまう。

会社といっても、弘の勤めるところは家族ぐるみで経営しているような小規模なものだから、社員も少なく十人未満、狭い中でも円滑で気軽な関係が成り立っているのはありがたい。

実のところ社長も、山口さんも親戚同士で、今はまだ来ていない残りの社員全員が社長と何らかの親戚筋にあたり、弘だけがちょっと別口でまぎれさせてもらっている。

弘の座る椅子は、父が入社した頃に購入したものだと聞いた。

身体を壊し、働くことのできなくなった父の後釜として、他所の子会社で事務を引き受けていた弘が呼ばれ、流れてきたといういきさつがあり、もう十二年間ここにいる。

営業は一切ない。座り、たまった伝票や書類を片付けていくだけの、いうなら単調作業の繰り返しである。これがいい。

弘は平常というものをこよなく愛しているので、向上していくものに興味を持てない。

だが弘はちゃらんぽらんでもない、与えられたものは真面目に取り組み丁寧に仕上げる。

途中、ふっと社内全体を見渡すと、今日も会社は安穏であることに安心し、弘はようやくほっと一息はく。隅で、凹むところに上手くはまって、目立つことなく、弘はいる。これがいい。

帰宅時間も狂わないのも気に入るところ、七時には家に戻れる。

由美と過ごす時間は苦痛でも、住み慣れた部屋の佇まいは好きなのである。

このマンションは、新しく、交通の便もいい。会社までの道のりも、電車一本で済む。

ここまで都合が揃うと毎月の家賃も少々値も張るが、弘には子どもがいないのと由美にも収入があるのとで、選んだ。

中は広く、窓を開くと心地のいい風が部屋へ吹き渡り、日当たりが抜群で、朝干した洗濯物も昼ごろにはほとんど乾くのがいい。

温度はじめじめと高くなってきたが、風が吹くので、心地いい。

弘はすっかり乾いた洗濯物を取り入れていると、予定していたより早く、由美が帰ってきて、灰色の薄いストッキングを脱ぎながら、ベランダにずかずかと乗り込んでくる。

「弘君、これ明日までに洗といて」

由美の体温の残る、まだ温かいストッキングが弘に渡される。

さわやかな気分は台無しである。

由美はいつもただいまをいう前に、弘に用事を押し付ける。

当然といわんばかりの態度で由美は挑んでいる。

「キャミソール乾いてるやんな、もう。はよちょーだい。ごはんは?」

ずいと差し出された、潤いのない手の中に、干物のような薄い布切れを置いてやると、由美はさっさと部屋に引っ込む、礼はない。

このとき弘は由美といるのを痛烈に嫌だと感じてしまう。

 ありがとうぐらいいえんのかいと卑屈になってしまうのだ。

 元来、執着心というものを持たない弘であるが、由美の、礼の一つもいわぬ態度を目の当たりにするのは、押さえがたい怒りが沸く瞬間であり、見て見ぬふりをするのも疲れたなと実感するときである。

 とはいうものの、弘は離婚をいい出す勇気もなく、慣れ親しんだ生活が変貌することも怖いので、口をつぐみ下を向き、あきらめるしかない。

 そして何よりもこれ以上由美と関わりたくないので(この気持ちが一番にある)、弘はどうすることもしない。

 だからほったらかす弘も悪いのである。分かっている。

 浅くもなく深くもない間柄の知人に紹介され、由美とは出会った。

 出会ったときから、別に由美は格別美しいわけでもなかったが、はきはきしたものいいと、当時の弘にはなかった、頼もしい気配を身にまとっていたのを気に入り、半年間なんとなくつきあっていたら突然、

 「なあ、いつなん?」

と擦り寄られて、結婚のプロポーズを催促されたので、

「ほな、しよか」

という調子で一緒になってしまった。

 簡単であった。

 三十路女がきちんと自立していたのを堅いと思い、社会人十年目に突入しようとしているのに実家でとぐろを巻いて眠っている弘とはえらい差であると感動させられて、目をすぼめて由美を見ていたし、平穏な毎日を送るだけで頭はふやけていたから、彼女が周囲に撒き散らすえらそうな態度は、溢れんばかりの活力のせいだと勘違いをしていた。

 末頼もしい女やなと感心し、安心して身を委ねられると思い違いをしていた。

なおざりだったといえようか、しっかりしている由美のいうことを聞き、その通りに行動していれば、これからもきっと気楽に生活できるだろうなと考えていたのは、弘は由   美という存在を大したもんだと認める一方で、どこか、女というものを見下してしたところがあるから、油断していたのだ。

  つき合っている最中も、弘は由美に格別の愛情を持たなかったので、悩むこともなく、淡々と時間は過ぎていき、中身を知ろうともしなかった。

  とんでもない思い違いを弘はしていた。

  由美のいうことを聞くのが耐え難い場合についてはまったく考えていなかった。

  由美は用事や意見を口で伝えるのではなく、魔法のステッキを操るように、手先をくるくる器用に動かし、命令を弘に下す。

 「ビール取って」

 「どうぞ」

 礼はない、奮然としてビールの缶をあおり、ぷはッと息を吐いたあと即座に、

 「ゴミ」

とだけいい、弘は階下のゴミ置き場に走らされる。

  朝はばたばたと忙しいので、弘の宅ではゴミは前日の夜に出すことにしている。

  ゴミ置き場に並ぶ袋は、まだ数少ないが、夜中になるともっと増えて枠からはみ出ててしまう恐れがあるので、夕飯時分に出すのが丁度いい。

  ゴミ捨て場に袋が少々埋まっても、住居の棟とは距離が開いているので臭いは流れてこないし、マンションの規則が緩いせいもあって、暗くなる頃には、住人は続々とゴミを出しに来る。

  猫も烏も近づけない。コンクリートの壁を巡らして網が張られてあるので。

 両手にゴミ袋を引っさげて、弘が辿りついたときも、一人の女がいた。

 女は浩と同じように、両手にゴミ袋を提げているが、ごみ置き場の前をうろうろとするだけで、なかなか立ち去ろうとしない。

 どうやら女は、袋をどこに置けばいいのか迷っているようで、足元に転がる袋の上に重ねてみたり、隣に置いたりして、悩んでいる。

じっと後ろで待っているのも嫌だったので、弘は女の隣に行き、ゴミ置き場の端に袋を置いて、手本をみせる。

「どこでもいいんですよ」

 「あ……はい」

女は弘の手元を見てから返事をし、ぶらんと垂らした袋の一つを、奥に置く。

「すいません、こういうの、知らなくって」

暗いので、顔は闇にほの隠れて見えないが、声の調子は若かった。

新参者であろうか、弘の知らぬ住民である。

女はいう。

 「ゴミの種類によって、出す日も変えてあるんでしょうか」

女のしゃべりかたは、口の端から空気が漏れているかのように、ぼやけているので聞き取りづらい。明確な由美の話しぶりとは大きく違う。

 「そうねえ、粗大ゴミなんかやと、違うねえ」

 浩も詳しくないので、あやふやな返答になってしまうが、女はさらに聞いてくる。

 「では割れ物の日も違うんでしょうか?」

 「せやねえ、ガラスもんは一ヶ月に数回の間しかないから、捨てるんやったら予め準備しとかなあかんなあ。あ、そっちか」

 弘が女の足元でぶらぶら揺れているもう片方の袋を見ると、

 「あの……」

女のふくらはぎから、血がどろどろ流れているのに、気がついた。

 塀の外に点在する道端の電灯と、マンションの玄関の灯が流れてくるとはいえ、あかりは少なく克明ではない、が、確かに女のふくらはぎ周辺は血に覆われている。

 そのまま視線を下げていくと、スリッパを引っ掛けた足元に、影より暗い黒の染みがぽつぽつと散っている。

 女は膝丈のスカートを穿いているのだが、膝辺りにも、小さな黒い星のような染みが点在していたりする。

 弘はびっくりして、いう。

 「あの、怪我してはりますけど、ソノ、大丈夫?」

 「え?ああ、ほんまやわ」

いわれるまで本気で気づかなかったらしく、弘の指が指摘した場所を見て、静かな感想を述べるだけで、女は別に驚きもしない。

 「切ってるわ」

血で、素肌が隠れてしまっていることから、出血量は酷いであろうと思われるが、痛みはないのか、それとも感覚が麻痺しているのか、女の様子は淡白のままである。

 「なんでかな」

 「ぼくに聞かれても……あ、君、袋ちゃうか。見せて、ああ、動かしたらあかんで」

女のぶら下げる袋から、尖ったガラスの破片が飛び出しているのを、弘は発見する。

 ふくらはぎ周辺で袋をぶらぶら揺らしながら、すぱすぱ切っていったのであろうか、そ

れとも最初から怪我をしていたのだろうか、傷の原因がどちらなのか、浩に判別はできな

い。

 女は傷口を確認した。

 「そっか、これか。ご指摘ありがとうございます。気をつけます」

 へこりと腰を浅く曲げて礼をいい、女はあっけらかんとして、唖然としている浩をかえ

りみず、横をすうっと通り過ぎて行くが、すれ違うとき、女から体温は伝わってこず、ど

こか異形で、幽霊のようである。

 まさかと考え、振り返り、女の歩くのを浩は目を凝らしてみる。

 当たり前であるが、女はちゃんと二本の足があり、ちゃんとした人間で、幽霊ではなか

った。

後ろからだと、女の歩く様子はよく見える。空に浮くように女は歩いている。

細い足取りはふらふらしていて芯がなく、背中に羽でも生えているのかと思うほど軽い動き、見知らぬ他人である弘の忠告など耳に入らなかったのか、袋の中身に対して注意を図っていないのは、すぐ分かった。

足を動かすたびに、袋はふくらはぎにばしばし当たっている。

 心もとない。

 弘は女に近寄り、手を差し出した。

 「あの、持ったるよ、ぼく。その、ぼくもここに住んでるもんやから、その、心配せんといて」

 弘は隣に並び、女の手の中にある袋が足に当たらぬように、そうっと抜く。

女は袋を軽々と運んでいたので、軽いと予測していたが、ずしりと重かった。

弘は傾きながら、踏ん張る。

 「一旦、部屋に持って帰りはるんやろ?運びますわ。袋か何か、もう一枚被せないと持って歩くのは危ないですよ」

「いいんですか?」

尖るガラスが突き出た袋を手離すと、女はふくらはぎの傷口をようやく意識し始める。

痛むのか、足を前へ出すたびに下を見て、血の流れ道を触りながら、指に付く汚れを気にする。

「あんまりいじらない方がええですよ」

それとなく弘が警告すると、女は素直に手を止めて、同じ歩幅で歩き出す。

「血が止まってないんとちゃうかな。それ」

エレベーターの扉の前まで来たときに、弘が心配すると、女はさらりといいのける。

「でしょうね、でも、怪我は寝れば治るもんでしょう?」

 女は弘を見上げている。女は背が低く華奢で、綺麗な娘であった。

 つんと上を向く線の通った鼻と、割れた前髪の間から弓のような眉が覗け、うりざねの輪郭に置かれてあるのは、好ましい。えらが張り鷲鼻の由美のものとはえらい差である。

 だが、花の咲いたような大きな瞳に灯る光は、ぽうっとして危なっかしく、弘は少し怖くなる。

 常にぎらぎらとして、周囲を見張る由美のような剃刀目もしんどいが、今の彼女のように、めためた冷静に燃えるだけの、一点の火のような眼も、うすら寒いものがある。

若干家賃の張る八階とは違い、一階の住居は満杯であるらしく、奥にずらっと整列しているドアの側の灯は全て点き、その明かりが漏れてくるので、女の容姿はきれいに流されてくるのである。

「あの、運べます?」

弘は袋を地面に置いて、薄いあかりの中でぼうっと立つ女に聞く。

女は応えないので、珍しく、弘が会話を進める役になってしまうが、不快ではない。自然と頬を緩めて、上を指す。

「せっかくやから、ぼくがあなたの部屋まで運びますわ、危ないもんやし。ぼくは八階に住んでる斉藤というもんです。その、変な奴とちゃいますし、心配やったらぼくが先に、あなたの部屋の、ドアの前に届けますから、あなたは後から部屋に戻ってください」

何もそこまで気にかけなくてもいいのであるが、女が美人で若いというのもあり、弘は

緊張しながらあたふたと説明してから、返事を待たずに、エレベーターのボタンを押す。

女は後ろでじっと、エレベータの到着を待っている。

「私も八階です」

「え?」

女の声はぼそぼそとして、こもっているので聞こえづらい。

エレベータが下りて来て、扉が開くが、弘は足を止めて、振り返る。

「八階です」

金魚の鱗のような薄い朱い唇を、女はハクハク動かして、いった。

「井乃さんやわ」

夕食を済ませたあと、息を切らしつつある由美に、弘は女のことを尋ねてみた。

 何故由美は息を荒くしているのかというと、ダンベルを熱心にふんふんと上げたり下げたりして、腕の筋肉を鍛えているところであるからで。

 年をとっていくと、二の腕の肉が垂れるとふてくされ、ふやけていく筋肉の衰えを阻止せんがため、由美は毎晩唸りながら片方三キロのダンベルを交互に上げる。

弘はその、殺伐とした由美の息遣いをテレビの音を混ぜ合わせ、聞き流しながら、先ほど会った井乃さんという亡霊(存在していたので人間であるが)の姿を比較する。

この、一人一殺の勢いと、煙のように漂って、どこかへ消えていくようなあの女の気力のなさ。

同じ女であるというのに、この違い、なんであろう。

「子どもみたいなヒトのことでしょ?」

額に汗をにじませながら、由美はいう。

「あたしが出勤するとき、あそこに、お母さんみたいな人が入って行きはるのん、よう見るわ。あのヒト、引きこもりいう噂よ」

直接本人と会ったわけでもない、由美は、名字しか知らぬような間柄の隣人の状況を勝手にせせら笑いながら、

「結構あのヒト有名なんよ。外に出えへんと、ずっと部屋にこもってるって」

「なんで外へ出えへん人が有名になんねん?」

「そういう状態の娘さんを、お母さんが困って、ドアの前で泣きながら訴えてたんやて。もう外に出てきて、いうて、叫んでたんやて。丁度それを見てた人がおるんよ。その人から聞いてん」

身の竦む話である。

弘はそのユーレイ女(浩は井乃さんとやらをこう呼ぶことにした)の境遇を心配するより前に、由美の情報収集能力のスバラシサに、用心する。

由美は、弘よりもマンションにいる時間が圧倒的に少ない。

それなのに、マンションの住人の関係についてむやみに詳しいのはどういうことなのであろうか、弘は薄気味悪くて仕方ない。

前も、あった。

「あたしらの階って、家賃全部ばらばらで不公平やねんよ」

買い物から帰って来たとたんに、由美はむくれた表情をして、拗ねている。

「値段設定、めっちゃ差があんのよ、同じつくりやのに、知らんかったわ、そんなん」

由美は両方の腕に大量の買い物袋をかけたまま、弘の脇にあぐらをかく。

家賃は弘が全額負担している。

だが弘もそんなことあずかりしらぬ。

「いくらぐらいの差がひらいとんねん?」

毛羽立つ絨毯に寝転がり、肘枕して、雑誌の興味のないページを飛ばしながら、弘は聞くともなく聞く。

「せやねえ、ざっと聞いたところ――」

紫の丸い爪を、一本一本丁寧に折って計算し、確認し終え、由美は意気込み激しく、

「最大で五万も違うんよ、酷いと思わへん?隣のヤマグチさんのところが一番高いんやて、十四万エンも払ろてるんやて。えげつないわ。ほんで、あたしのも高い方に入ってる」

「どこと比べとんねん?」

「モトキさんとこ。だってあそこな、あたしんとこより三万も安いって、下の人が教えてくれてん。あ、ヒロセさんいう人やねんけど――」

支払いは弘の分野であるが、名義は由美のものにしてあることから、妻は部屋の話を切り出すときはよく、あたしのところという。

物欲のない弘は由美のこの思想を放置しているが、以前弘の母親なんかがこのいいかたを聞いたとき、むすっとしていたのを思い出す。

そんなこと知らぬ由美はいっている。

「ヒロセさんがいうには、モトキさんと大家さんは親戚でつながってるから、安くしてもろてるねんて。ほんでな、ここからが憎たらしいねんけど、早く入った人ほど家賃が高く設定されてるねんて。後に来るほど安くなっていってるねんて。なんでも、予定してたよりも部屋が埋まらんから、そんなことしてるらしいのやけど」

金の出所は弘の財布である。だから由美にしてみれば関係のない話であるのに、何故こうもぷりぷりと怒っているのであろうか。もしかすると、由美は弘の財布の中身も自分のものだといい張っているのだろうか。

聞いていて心地のいい話題ではない。

だが、由美の話しの中にまぎれるようにしてあった、大家の事情も、弘は分かるような気がする。

しゃあないことなのやもしれんと、もはや弘はあきらめている。

それよりも由美に、せっかくの休日の夜のくつろぎのひとときが台無しにされたことに苛立つ。

どうしてそんなに由美が鬱陶しいのだろうか、そこのところがよく分からない。

形質がよっぽど合わぬのかもしれん。

結局そこへ辿り着く。

それからほどなくして、由美が大家に直接直談判しに向かい、近所にこのことを黙っているというのを条件として、八階で一番安いとされているモトキさんとやらよりも一万円、家賃は低く設定されることで話はまとまり、決着はついた。

実のところ弘が、大家に文句をいいに立ち向かえと命令されたのだが、とてもそんな勇気はないとぶんぶか首を振り断り、

「よう行かんわ」

と珍しく由美に対して意思をむき出しにしたところ、

「ほんまに役に立たんねんから」

とぶちのめされたので、よく覚えている。

ふと、由美を見た。

仁王立ちしている由美の身体はむんむんと熱気を帯び出している。

まさに泣く子も黙る勢いで、二個のダンベルを天井に突き上げて、静止する。

空恐ろしいと唾を飲み込み、ここにはいてたくないと弘が逃げようとすると、

「ちょっと、弘君、手伝ってよ。ほらほら、足もってて、これから腹筋するねんから」

と無言の拒絶すらも妨害してくる、このふてぶてしさには、飽きた。

 共済みした始めのころは、由美のずうずうしいのも、こんな人間あるんやな、と新種の生物を見るように感心していたものだが。

それにしても一体由美はどうなりたいのであろうか。

今だってそう、サイボーグのような格好をして、全身の筋肉を震え上がらせ、鍛えている。

四十路に差し掛かる直前になり、由美の闘志はさらに燃え盛り始めた。

老化を予防する効果があると謳われる化粧品に始まり、肉体改造計画という札を掲げて、日々の鍛錬を日課にしている。

大人しい弘は巻き込まれている。いや違う、由美の一部になるがため、吸収されていっている。

「まだ?」

弘は由美の骨のように細い足首を押さえ、耐えている。

「まだや。あと五十回せんならんの、もっとちゃんと押さえて。やる気あんの?」

そんなものなどあるわけがない。

由美の半身だけが起き上がるたび、手の中にあるくるぶしが動いて、気色悪いったら、ない。

「あのヒトとあたしやったら、あたしの方が若く見えたんとちゃう?思わへんかった?」

一瞬、弘の思考回路は停止した。

由美のいわんとするところを理解するのに、弘は時間がかかってしまったのだ。

弘は細いつぶらな瞳を大きく見開き、おそるおそる尋ねてみる。

「由美ちゃん、まさか、井乃さんと比べてんの?」

先ほどのユーレイ女は、どう大目に見積もっても、二十かそこらであるのに対し、由美はどれほどがんばって少なめにみても、四十路女である。

不本意なえこひいきを強いられたから弘はそっぽを向いたのではない。

比較するのがどうかしているのだ。

 しかしまさかな、と思い、弘は即答するのを渋っていると、恐ろしいことにこの推測は的中したらしく、由美はにやりと不敵に笑い、

「そうや、どう思う?今のあたしを見てて、思わへん?あんなんとあたしやったら絶対、あたしの方がイケテルと思うわ」

と腹筋を触りながら、肩を上下させる。

あんなんというのは、由美がユーレイ女を卑下しているからこそ、出た名称であろう。

本人がこの場にいないとはいえ、よくもまあそう、詳しくない人間のことをどんどこ悪いほうへおとしめることができるもんだ、と弘は感服していると、

「もうええ」

と由美はいい、足首をつかんだまま呆然としている夫の手をぱしりと払いのけ、起き上がり、準備しておいた清涼水のペットボトルをがぶがぶとあおり、

「あのヒト、結構歳いってはるねんてな。どうやった?あたしの方が若いんとちゃう?」

と迫る。

どういえというのであろうか。

弘があきれ返って、口をつぐんでしまうのを肯定と取ったのか、由美は調子に乗り出す。

「ずっと部屋におるねんから、歳取るんも早いやろね、あほやね、あのヒト。あたしやったらそんなふうに生きるの、絶対お断りやわ」

由美は、世界中で沸き起こる、どんなことでも自分のこととして、すげかえる。

弘の最も敵わんところである。

二百回の腹筋を終えたあとでも、由美はすこぶる元気である。もう清涼水を空にしている。

「引きこもりなんてしとったら、すぐ歳取って、すぐヨボヨボになるんやわ。カシコのすることとちゃう」

そういう由美は、「かしこい」つもりであろうか。

人伝の話を完全に信じきり、他人を見下すこの態度はいかがわしい。

「いくら家がお金持ちいうても、意味ないわ。勿体な」

「金持ちなんか?」

弘は納得するものがあった。

あの、全てに無力そうな、ユーレイ女の冷めた煙のような雰囲気は、自身の力で生きようとする精神を放棄した者だけが備えられるものなのだといわれれば、そうかもしれぬ。

「そうよ、だってあのヒト、この部屋に一人で住んではんねんよ、贅沢と思わへん?よっぽどお金あるんやね、親も甘いねん。どっか放り出したったらええねん。こんなええところに住ませてもらっといてまだ引きこもるなんて、どうかしてんねん。いっそのこと自殺でもしたら話早いのに」

 手当たり次第に撃ちまくる由美を見ていると、げっそりと痩せる思いがする。

 「勝手に決めるなや、まだ井乃さんいうのが、引きこもりかどうかなんて、由美ちゃん知らへんやん」

弱々しくも、弘は反発する。

口を滑らしたとき、しもたことをした、と油汗が出そうになったが、後悔はしていない。

何故か知らんが、これ以上黙っていることはできなかった。

案の定、すぐさま由美の目は三角に豹変した。

「弘君だって知らへんやないの。あたしはね、ゆっくり出勤の弘君と違って、朝のはように家出るねん、ほとんど毎朝、あそこのお母さんが来てはるのん見てるねん」

汗が滲み、眉が半分削げた由美のねじれた表情は、弘の不愉快さを後押しさせる。

「それで決め付けとんのか」

弘も譲らない。珍しいことであると、腹の底では自分でも感心している。

とにかく弘をやり込めようと躍起になっている由美は、夫の小さな戸惑いなど気にも留めず、

「でもおかしい思わへん?実家離れて、一人で暮らしてるところに母親が毎日通うなんて、変やわ。ビョーキか何か、あるヒトなんよ、絶対」

と弘の庇ったものを虐げる。

親子関係円滑な家庭環境で育ったと自負する由美は、母親のほうがおかしい場合もあるというのに考えが及ばないようで、

「ええ歳してんのに、恥ずかしい」

とユーレイ女の方ばかりを切り捨てる。

ここまでムキになるのは多分、「引きこもり」というのが由美のセンスにそぐわないらしいが、本当かどうかも分からないことを、そこまで信じ込むほうがどうかしていると弘は心底思いながらも、

 「茶、飲む」

と匙を投げると、途端に、

 「あたしもちょーだい」

ころっと顔つきを変え、欲しがる、この遠慮のなさは畏怖するものがある。

 しかし由美に本気になられると困るのは弘であるから、ほっとできるところでもあった。

 ――何歳ぐらいやろ。

 ユーレイ女にぴんとくる年齢が浮かんでこない。

 由美の話の様子を参考に入れると、二十歳はとっくに越えているようであるが、前半かそれとも後半、もしくは三十路にかかっているのか、どれでも当て嵌まりそうで、どれもが違うような気もする。

 コドモみたいなヒトと由美がいうように、弘も、ユーレイ女からとてもあどけない印象を受けたのは確かであるが、弾ける若さというものは皆無であったので、迷う。

 弘は茶をすすり、ぼんやりと考えに耽る。

 ――引きこもりねえ。

 驚きはなかった。

 由美に賛成するわけではないがそうかもしれない。

 無気力を揺曳させて歩くさまは奇怪で、どこやら異形なものの感じがしたのは、それが原因なのかもしれない。世知ないしゃべりかたにも納得がいく。

 一所にじいっとしてうずくまり、時間を過ぎるのを待つだけのユーレイ女の姿は、たやすく想像がつく。

 付けっぱなしのテレビから漏れる音と、風呂場から届いてくる水音が交差するなかで、弘はまだ考える。

 由美は風呂に消えていない。だからユーレイ女のことをじっくりと思い出すことができる。

 「お世話かけました」

 ドアの前に着いたとき、井乃さんことユーレイ女は、腰をへこりと折って、礼をいってくれた。

 「ああ、いいんよ、全然。気にせんといて、どうせ近所やねんし」

 「手間かけさせて、すいません」

 ユーレイ女の部屋はエレベーターのすぐ傍である。

 ユーレイ女の住処は、この階の先端に位置する場所にあり、要するに弘の部屋とはドア一つ挟んでいるだけの間柄であった。

そのことを弘は知らなかったので、ドアに着いて初めて分かり、驚いている。

 「でもぼくの部屋はここを通らなあかんねんし、ついで」

 快活にいってみたつもりであるが、返事はもらえない。

ユーレイ女は弘に詫びるという用件を満たすとすぐさま、口をつぐみ、血の噴火している場所を、しきりに気にしている。痛みの確認でもしているのか、膝を曲げたり伸ばしたりし、弘のいうことはもう耳に入らないようであるが、

「薬とか、あります?」

くじけずがんばると、

「ヌノカメの薬箱があります」

意外にもユーレイ女の反応は素早かった。

これは男の下心や弘の親切心をおかしいと疑い、この場をさっさと離れようとして手早いのではない。

ユーレイ女が初対面の弘に対して、用心しているとは思えない。

瞬発力のある話しぶりは、単なるユーレイ女の癖のようであるらしく、弘が相づちを打つより前に、

「このマンションに来てすぐ、ヌノカメの営業の人が来て、救急箱、置いとかしてくれって頼まれて、使うつもりはなかったけど、何でも用意しておくものですね」

前へ先へと進めていく。

きっちりとした説明口調だが、つんけんどんの由美のような断定癖はなく、自然と耳に流れてくる。ほにゃほにゃして細い声だが、嫌いぢゃない。

「でわ、斉藤さん」

名前を呼ばれてどきりとした。

「あ、はい」

雲のようにふわふわとしてはかない、ユーレイ女はドアに半分隠れて、いった。

「どうも、ありがとう……」

声の質のせいなのか、丁寧な言葉を使うことに照れがあるのか、最後の「ございます」は聞き取ることができず、「ごじゃいます」とも受け取れた。

しかしそんな些細な違いはどうでもよかった。

弘はきょんとするばかりである。


ギリギリ「損した」

らっぱ飲み「俺もだ」

キリンさん「わたしもです、ここんとこ、ずっとマイナス、負けてばかり。辛いです。ウツ、うつ、鬱」

侍「そんな暗いこといわんでくだされ。ぶちまけてくだされ、胸のつっかえをここで吐き出してくだされ。多少は楽になるかもでござる」

S「うるせえぞ、侍。手前、何様のつもりなんだよ」

侍「……来ていたのか、S」

S「ああ、いたさ、ずっとね」

S「ところでキリン」

キリンさん「…………」

S「いくら、消えた?」

キリンさん「…………」

アッキー「キリン、気にしちゃ駄目だよ。Sの攻撃に凹むこと、ないよ。Sはキリンの資産に嫉妬してるだけだから」

キリンさん「…………」

S「妬いてなんかねえよ。聞いてるだけだろ。キリンの今日の損失、いくらでちゅかッ?」

ギリギリ「マイナス一億六千まんエン」

S「ギョッギョッ!」

侍「さすがギリギリ殿。桁もレベルも尋常ではないでござるな……」

キリンさん「…………」

らっぱ飲み「唖然」

S「ほ、本当ですか?ギリギリ先生」

ギリギリ「うん、事実」

らっぱ飲み「すごすぎて震えてきた。やっぱすげえなギリギリは。俺らとは次元が違うんだな。そりゃ、苦しいな。最後の十分で、千百二十マン損した俺の心境もつらいものだが、ギリギリの抱える圧迫は、それを超越するきついものであろうと、驚愕する。そして暴れん坊の、Sを、ここまで従わせているのも、ついでにすげえといっておこう」

S「うるせ、らっぱっぱ。先生は特別なんだよ。俺様の、師匠なんだ。その辺をおちょくるな、先生に対して失礼だろ」

らっぱ飲み「くけけけけけ、すまね」

侍「原因はやっぱり、いつも貴方のいわれている、心の持ちよう、精神の影響でござるか?」

ギリギリ「そうです、侍さん。自分の頭が、新しく編み出した必殺技を試したい気持ちで一杯になっちゃって、ゆだって、冷静さが欠けて、焦って、どかん」

アッキー「ギリギリでも、そういうふうに感情に呑まれてしまうときがあるんだね。意外だよ」

ギリギリ「意外じゃないです、腹の底ではいい気になっていたんだ。無心になっていなかった。意気込んでいた。内に沈む欲が、ひょっこり浮き上がってきて、反射神経が邪魔され、判断力を低下させられてしまった」

らっぱ飲み「先月は全勝してたのにな、ついに記録は破れたか。先月だけでいくら儲けたことになるんだ?」

ギリギリ「プラス四億円くらい」

侍「呆然」

アッキー「あれには驚かされたよ。腰を抜かしちゃったもん」

らっぱ飲み「今日負けた決定的な要因は心の問題だけなのか?このごろの相場は毎日違うから、動きを読むのは困難だが……」

ギリギリ「自分は人間です。心の揺れには耐えられない。それに――」

キリンさん「それになんですか?ちなみにわたしは五百万マイナスでした、はぐあッ」

S「黙っとけよ、キリン。先生が逝ってしまうかもしれないだろ、邪魔するなって」

侍「ギリギリ殿はそういう臆病なお人ではない、と某は思うのだが」

アッキー「それに?気になるよ、いって、続き」

ギリギリ「動きが単純すぎて、簡単で、深読みしすぎたっていうのもあります。それで、確認したいなと思うんですが、聞いてくれますか?」

らっぱ飲み「聞くに決まってる。耳だけは象になっている」

S「鼻はどうなってる?」

侍「キワドイでござるな。下品でござる」

アッキー「何何、いってみて」

ギリギリ「今日の市場のうねりはすごく自然に動いて、ひねりがないから、単純すぎて難しかったっていうか。難しいものばかりを相手にしてた日ごろの癖で、深く考えすぎちゃって、どうするべきか戸惑って隙ができた瞬間、買いそびれちゃった。ああ、こんなこといってる間にまた、あのときの迷いと狼狽の苦しみが甦ってくるう」

らっぱ飲み「同感だよ。あまり絡まっていないものをほどいていくのは簡単だけど、これで本当によかったのかって、不安になる。反対に、複雑なもつれを解いていくのはたぎる」

ギリギリ「ぐっと集中できるしね。遠くに散ってる地味なやつらにも、自然と目玉が掴んでくれてる」

らっぱ飲み「そうそう。あのときは心地いい。白い世界に一人で立つような爽快感がある」

侍「飛ぶ、というやつでしょうか。ペエペエの某には足を踏み入れたことのない領域でござる」

キリンさん「優しすぎて怖いと感じているのは、わたしも同じです。波の揺れがきれいすぎて表面が静かだと、怖くなるっていうのも分かります。ためらうのです。素直になって流れに身を任せてたほうがいいのか、もっと暴れ出すのを警戒して準備しておき、しばらく待つか、それとも捨てるか。迷ってしまうのです」

ギリギリ「迷うから、捨てるのも遅れてしまう」

キリンさん「次へ取り掛かるタイミングもどんどんずれていく」

S「震えて縮こまっている内に、パア、か。みっともねえ」

アッキー「二人のいってる意味、すごく分かる。ぼくもそう」

らっぱ飲み「浮き足立っているのは俺もだな」

侍「加えて某の場合、古傷の痛みに悩まされているゆえ、もはや息も絶え絶えなのでござる。申し訳ない、愚痴をこぼさせてくだされ。皆様の話を聞いているうちに抱えていた不安が成長してきて、某の内だけに留めておくことができなくなってきたので」

らっぱ飲み「侍の状況は痛ましいな。過去の損失を、まだ取り戻せないでいるんだな。市場は前へ前へと進んでいくのに、傷口が傷むせいで、追いつくこともできないんだな。俺も、あったよ、そういう経験」

侍「……らっぱ飲み殿も、重傷を受けたことがあるのでござるか?」

らっぱ飲み「今ここに参加している連中は全員大ケガした経験を持ってるよ」

アッキー「それでもやめられないんだ、しんどいよ」

ギリギリ「毎日息切れしています」

名無しさん「それでもやめられない。他にすることも見つからないし、見つけようと思う気力すら湧かないし」

S「誰だよ、手前は。消えてくれ」

キリンさん「でも、名無しさんのいうことは一理あります」

S「黙ってろ」

らっぱ飲み「傷跡は再生できても、傷を受けたときのショックは無くならない。一度深く身をえぐられると、その持っていかれたところを取り戻そうとムキになり、あそこへ行き続けるしかないと知る。でも、な、俺は思うんだ。侍」

侍「はい」

らっぱ飲み「明日の心配と過去の痛みが交錯して苦しめられる夜は、冷たい。死体にでもなった気分になる。でも、傷は回復すると信じているなら、市場で削がれたお前の肉は、きっと盛り上るようになると思うんだけど」

アッキー「そうだよ。奴――株の動きの状態はやっと安定してきてるんだし、絶望するには早いよ」

ギリギリ「穏やかだから、付け入るスキはないけど、いっぱいのチャンスが隅まで散っていますし。それに今日のような、動きに速さのない日などは、視野を広くしていく余裕も、侍さんなら持てると思いますよ。監視する疲労は、視野を広げた分だけ増えていきますが、そのおかげで取引が上手になれると、希望が持てるようになります。反対に、株の脅威は自分の傍に、さらに寄ってきます。けれど市場から、抜け出せないんなら、下手なままより上手になっていったほうがいい。せっかく関わっているんだし。見識を高める絶好の機会です」

S「……先生、あなたの目は市場の隅々まで届いているんでしょう?これ以上、どこを見張る気なんですか?目が三つあるんですか?」

キリンさん「侍くんの、今の状況は悪くっても、市場の動きの状態はいいのが事実、さらに、静かで落ち着いてるから、儲けにくいことはないんですけれど――」

侍「けど?」

 キリンさん「わたしは負けた。没」

 らっぱ飲み「俺は三百万損した。今夜もまた眠れないな、こりゃ。何もする気が起こらねえ」

 ギリギリ「単純に考えていたらよかったな、と後悔しつつ明日のことも気にしなくてはいけないから、今夜も布団の中で怖がっておきます」

 名無しさん「損して儲けて損をする。やめられない、とめられない、離れられない。らせん地獄へようこそ、諸君」

 アッキー「ちょっと、誰かな、君は。さすがのぼくもかちんときたぞ」

 らっぱ飲み「放っておけよ。どうせSだろ」

 S「見下すな、俺じゃねえよ」

 ギリギリ「でも、正しくはないけれど、当たっている部分はあります」

 アッキー「ギリギリらしくないね。大丈夫かい?」

 ギリギリ「すいません。大丈夫ではないのが本心です」

キリンさん「わたしも眠れない夜になりそうだから、一人っきりで夜を過ごすわけではないですよ。ギリギリさん」

侍「そうでござる。某もきっと眠れない、だから独りじゃないでござるよ、ちと安っぽい台詞でござるが」

ギリギリ「……そんなことない、ありがとほ。でわ」

S「また」

キリンさん「気をつけて」

らっぱ飲み「あばよ」

侍「一先ずさらばでござる」

アッキー「じゃあ今日はこれでお開きになるってことか、寂しいな」


その日はめずらしいことに、由美が先に帰っていた。

鍵を差し込むと、ドアが開いていたので、出るとき閉め忘れたのかとひやりとしたが、弘のせいではないとすぐに気づいた。

玄関には見慣れない、上等の皮で作られた厚底の靴が、由美のハイヒールの隣に寄り添って、並べられている。

不吉な予感がする。

奥からは、女の高笑いが漂ってくる。由美の声ではないとすぐ、分かった。

「おかえり、浩君」

由美が居間から身を乗り出して、ドアの前にぬそっと突っ立つ弘に、声を投げる。

「ママが来ること、朝に伝えるの、忘れてたわ。今日の夕飯はママが来て作ってくれてるねん」

どんぴしゃりであった。

弘は由美と関わるのは不得手であるが、由美の母親と過ごす時間は、さらにこらえがたい苦痛が上乗せされるから、はっきりいって、迷惑以外にいいようがない。

「ヒロシはん、お帰りになられたんやったら、手を洗ってうがいしなはれ。外のばっちい菌つけたまんまで、部屋に入るのは禁止ですよって」

いきなり指示が飛んでくる。

靴を脱いだ早々弘は、がっくしと、うなだれる。

日々の弘は、簡単な仕事をこなしているだけなので、疲れは溜まっていないはずなのに、由美ママの声がした途端、知らぬ間に蓄積された透明な疲労感が、背中にどっとなだれ込んできたような気がする。

「まだ洗ってはるんのかいな、手だけやろ、どこまで洗ってはるんや。はよこっちにいらっしゃい」

弘が洗面所で手をばしゃばしゃ洗っていると、由美ママことサエは、後ろでせきたててくる。

サエの信条は「早く速く」なので、ぬそっとしたセイウチのような外見の弘は、とんまに見えるようで、

「はよう、いらっしゃい。話があるよって、ね。気がきかへんね」

無条件にコケにされる。

 弘は背が高く、どっしりした肉を着込んでいるが、そんな大木のような風貌とは裏腹に、実のところ小まめに動くほうである。

 自分の実家にも中元、お歳暮、誕生日、母の日や父の日などの記念日には、必ず進物や贈り物を届け、由美の実家も同じようにして、気を配っている。手配は全て浩が担当している。しかもじっくりと探し、相手の喜びそうなものを見定め、丁寧に選ぶ。行動は早い。

 会社での弘も、

「斉藤ちゃんは、応用力があるし、腰が軽くって目ざといから、エエわ」

と評判で、重宝されている存在であるが、敏捷な足取りで常に先を急ぐサエの目には、そんな婿の特色は映し出されないらしく、

「はよう、て。何をちんたらしたはるの、ヒロシはんは、もう」

と盛んに急がせる。

 居間には由美がぽつんと、いた。

 仕立てのいいスーツの下からほの見える皮膚は、枯れた鶏がらのようにすすけており、普段より生命力が少なく感じられる。

 由美が何もいわずにいるせいか、はたまたテレビが消されているせいか、居間はとても静かでもある。

 夕方を過ぎた時間帯でも、窓の外に広がる空はまだ赤みが残って、夏の寄る気配が部屋へ渡っていくのは、気持ちがよかった。

 冷房はまだ必要ない。窓から入ってくる柔らかい風が室内を冷やしていってくれるから。

 「ハイ、ハイ、そんなんええから、ここに座んなさい」

 サエはぱんぱんと手を叩き、背広姿の弘を、強引に、由美の隣に座らせる。

 弘のネクタイの位置は歪んでいたりする。

 これは、ふと、ガラスを透す夕焼けにうっとりしながら、ネクタイを緩めようとしたところに、そんなんあとにしなはれ、とサエに太ももをばしばし叩かれて、無理やり腰を下ろさせられたからである。

 たるんだネクタイのせいで首回りは気色が悪い。几帳面なほうに分類される弘は、さらに不快になり、加えて不可解に陥る。

 サエの突然の来訪は一体何を意味しているのであろうか。

 どうせロクでもないことには違いないが、やけにきらきらしているサエ婆の笑顔は、不吉であり不安でもある。

 「弘はん、今の仕事辞めて、あんた、こっちに来はりませんか?」

 開口一番に、サエはいう。

 弘は一刻も早くこの場から逃げたいと切に願った。

 とんでもないことが起こりそうだと、サエの靴を見たとき、とっくに予想していたので、今更驚く声は出なかったが、聞いたとき、さすがに表情は一気にくもった。

 サエは続けている。

 「パパの体調がすぐれへんのよ。ワタシんとこの工場はちっさいもんやけど、顧客、結構な数を抱えていますよって、ね。パパがあかんようになっても、たたむのはまだ時期と違うんよ」

 ワタシんとこ。

 娘の由美の、「あたしやったら」と似通うものがある。

糸目とどんぐり目、鷲鼻とちんまりの鼻というふうに、由美とサエの面容はあまり似ていないが、なにごとでも自分のこととして置き換える考え方は、確実に受け継がれており、やはり二人はまぎれもない親子なのだと思わざるをえない。

 由美の実家は、携帯電話に埋め込むチップを制作する小さな工場を開き、生計を立てているというのは教えられていた。

小柄だとすばやさがあるのか小回りが利くようで、なんらかの特許も持っていて、不況の時代をしぶとく生き抜くことができ、売り上げをどこかにピンはねさせられることもなく、いくつもの大会社を顧客に持ち、今も繁盛していると、常々由美が威張っていた。   

しかし由美パパが倒れたというのは、弘は初耳である。

 いくら弘が、日ごろの由美のいうことをおざなりに流しているとはいえ、話の要点だけは拾うというコツは体得している。

 父親の健康が芳しくないというのは、ひょっとすると由美も知らないことだったのかもしれない。

 弘の思い過ごしかもしれないが、仲良しのママが来たというのに、由美の顔色がどことなく陰っているのは、父親の変調をいきなり聞かされたからではないか。

 由美はむっつりと黙り込んでいる。

 いや、待て。

 弘は崩しかけた態勢を整える。

 サエにいわれたことについて、弘がどういう反応をするかを、探っているのやもしれぬ。

 しょんぼりしているのは単に疲れているだけで、弘の動向などもはや眼中になく、行きますと返事するのが当然のことのように、信じ込んでいるのかも。

 今の弘は、棺おけに身の半分を突っ込んでいる由美パパへの同情心よりも、未来の自身の保身にあくせくしている利己的な気持ちしか、ない。

 発言するには時期尚早だと、新たな決意を固める。まだ下手に動かないほうがいい。

 そんなおり、卓上にある、きんと冷えたお茶で口を湿らし(弘のグラスはない)、サエは身を乗り出してくる。

夫が、駄目になるかもしれないというのに、どこかしらサエが生き生きしてみえるのは、弘の悪意のせいであろうか。

 「どやろ、ヒロシはん。こっちに来はる気、ありゃしませんか?」

 弘には、たとえばらばらにされても、体内にそんな気持ち一欠けらもない。

 だがそんなこと、優しく、加えて身勝手な弘はいえないので、

 「またいきなりな話ですよって……」

と返事を誤魔化す。

 「なにもワタシらと共済みまでせんでよろし。住むところは、好みのんをそっちで探してくれなはれ、蓄え崩しますよって、協力もさせてもらいます」

 サエの勧誘はずんずんと押し進んでくる。

 早くもサエは、弘がそっちに移転する意向を示していると受け取っているようで、

 「お給料は今のんよりも、弾むようにしますさかいに、そう、不安あらへん。安心し」

一足飛びに突き進む。

 何を基準にして安心しろなどといえるのか。

 弘は解釈に唸る。

 格別に欲しいものもない弘にしてみれば、給料というセコイことは問題ではないのである。

 心の底に住まう魂は、全身を震わせ嫌だといっているのが、喉元まで伝わってくる。

 由美の実家なんぞへ行きたくない、嫌である。

 気に入る仕事を放棄するのも嫌だし、住み慣れた土地を離れるのも心配なら、ましてや由美の家族とこれ以上深い関係を築き上げていくなんて、承知しない。

 「ヒロシはん、あんた、今のお給料に満足なんてしてはりゃしませんやろ」

 そんなことはない。

 弘の月給は、一般の四十の会社員と比べられると、額は少々安いが、差は微々たるもので、嘆いたことは一度だってない。

欲に頓着を持たぬ弘だから、そう思うのかもしれないが、過ごしやすい今の会社は好きで、いたって平和、離れようなんて、思えない。

「ヒロシはんは経理関係の事務に明るいですよって、安心して任せられます。たんと、張り込む気でいます。由美の収入を抜かせるチャンスや思たら、よろしい」

 これである。

 サエが、弘の領土に、ざくざく突進してくるこの無遠慮さは、性質だけのせいではない、ここからきている。

「ヒロシはんはええ人やけど、ちょっとパワーが足りませんよって、鍛え甲斐もあります。工場の皆は、ヒロシはんの到着を心待ちにしてますで」

 「え?工場の人たちに、世代交代の話をもういうてはるんでっか?」

 「そやで、前もって報告しとかへんかったら、いきなり社長が変わってしもたら、皆はん、びっくりしはるやろ?」

 びっくりの騒ぎではない、弘は仰天している。何かをいい返さなあかんと分かっているのに、サエをだまくらかすエエいい訳が出てこない、口をぱくぱくして、目をしばたたいているだけである。情けないのは、知ってる。でもどうしようもできない。弘がぱっとしない要因であろう。

「こういう話はねヒロシはん、上のモンだけでまとめたらあかんのです、社員全員で納得してから動かんと」

サエは、いつもと違っておとなしく正座している由美を、見た。

「ゆんちゃん、いきなりでごめんやで。弘はんがこっちに来はるようになったら、ゆんちゃんの仕事場は遠なってしまうから、不便になるけど、辛抱してくれるか?」

サエは働く女大賛成論者でもある。だからうだつの上がらない弘は駄目で、しっかり稼ぐ由美はいいのである。さらに由美はサエの愛娘だから、なおさらいいのである。

由美の実家と浩のマンション(名義は由美だが)は近い。

徒歩二十分かからない。

ここに引っ越す以前の住居も、近かった。

そうさせたのはサエである。

大事な一人娘と離れるなんてできないワ、と結婚の報告をしに行った日に、サエは駄々をこねて、近所に住むことを条件に、弘は由美をもらうのではなく、お借りした。

そのとき、のんびり放任主義で育った弘は、三十路を過ぎた子供と離れたくないと泣く、涙をほろほろ流す親が、現代に生存しているという事実に驚かされて、化石を発見したように面白がっていた。愚かであったと認めよう。

弘の親など、

「あ、オメデト。(結婚式の援助をするための)お金はないよ」

それだけであった。

 いわれたときは、長年生活を共有してた仲やのに、結構薄情なもんやなと思ったものだが、そんな親のほうが正しかったのだと、今の弘は痛感する。

 「ヒロシはんのお給料が上がったら、ゆんちゃん、なんか買うてもらい?欲しいもん仰山あるやろ、今までと違って、おねだりに遠慮なんかせんでようなるで」

 黙って話しを聞いている由美の、機嫌を労うサエは無邪気である。

そんなサエのべっちゃりぶりに、四十ニの女に、けったくそ悪い、と弘はあきれ果ててしまうが、

「そやね、ママ」

と素直に、由美はニカッと笑う。

 「あたしの職場が変わってしまうわけでもなし、ええんとちゃうかな、それが」

 「せやろ。ああ、うれし、ゆんちゃんならそういうてくれるって、ママは信じてたんよ。これでうちの工場もまだまだ安泰やわ、な、弘はん」

 「はあ……」

 「よかったやん、弘君。お給料上がるって」

 大根をすっぱり切るように、由美はいう。

 「ま、ゆんちゃんたら、おかしいんやから。ヒロシはんの返事はまだやさかいに、そう早とちりしたらあかんよ。まあまあ、ヒロシはん、返事はあとでよろしいから、キリのええところでごはんにしましょ、カレー作っといたんよ。お腹空いたやろ」

 どこらへんがおかしいのか知らんが、サエは口元に手を当てて、ほほほと喜んでいる。

 弘は難しい顔をしている。

 多分今までの人生の中で最も険しい相をしているであろうと思われる。

 弘がこんな表情を浮かべているのはもちろん、サエの来報内容の影響が大きな原因だが、出されたカレーが辛いせいでもある。

 弘の嗜好は薄味だから、一皿全部食べきるのはかなりしんどい、汗が噴出し、水を飲み、無理やり胃へ流し込んでいると、

 「ヒロシはんって、水、がばがばとよう飲みはるねんね。水もね、飲めばええいうもんちゃうんよ、身体、冷やすよ。もうエエ歳になってきてるねんから、もっと健康を心配せんと。早死にしますよ」

サエに目ざとく発見される。

 由美もふふんと笑って、

 「そうやよ、死ぬよ。その、ぼちゃぼちゃした体型も、水太りなんとちゃう?代謝悪くなってんねんやわ、きっと」

ぎゅうぎゅうの目にあわせる。

 カレーを一口食べるごとに、弘は爆発しそうになる。

「うん、ぴりっとしてておいしい、ママ」

 ピリッとどころではない。

炭を入れて火が盛るように、サエのカレーを口に入れるたび、唇がめらめらと燃えてくる気がする。痛いぐらい辛い。スパイスが効きすぎている。

しかしこのカレーとサエは上手く重なる。しっくりくるものがある。弘が秘かに持つサエのイメージにぴったりはまるので、ちょっと可笑しい。

「ゆんちゃんはお仕事でようがんばってんねんねえ。エライ。ママはゆんちゃんのそうゆう姿が見たくって、ここに来させてもろてんねんよ。ゆんちゃんの働く後ろ姿を拝まさせてもろて、ママも、よしッて気合入る」

まあここら辺でおいときまひょという、程度が見当たらず、手加減なしなのである。

カレーに関してもまたしかり。

そんなことを思い、弘の口辺が緩んでくると、

「ヒロシはん、何がおもしろいのん?のん気やね、あんたは」

と叱られてしまう。

由美は浩を攻撃するのに加わってこない。おふくろの味というものに、夢中であるので。

一方でサエは、独りしゃべりに耽っていたりする。

「もう明日は金曜ねえ、早いわ。明日は土曜で工場も休みやから、泊めさせてもらおかしラン。なんせゆんちゃんとおしゃべりするノン、随分久しぶりやし、いろんなこと聞きたいし、聞いてもらいたいこともいっぱい貯まってるねんワン。病気してから、パパはいつもむすっとしてて、一緒にいてても面白ないんよ。毎日ここに通いたいワン」

弘の背筋がぞっとするようなことを、スプーンを握りつつ、サエが仄めかしていると、由美がしゃあしゃあと、

「引越しするようになったら、家、もっと近所にするし。ママ、もうちょっとの辛抱やで」

「あら、迷惑とちゃう?ママが近くにおったら」

しおらしい内容に反して、サエの声は明るさが増す。

「それにそんなんしたら、ヒロシはんの実家がもっと遠なるやないの。ママんとこばっかり大切にしとったら、不公平やいうて、ゆんちゃんが向こうの人らに怒られへんか?」

向こうの人らというのは、いわずもがな、弘の家族のことである。ちなみに由美はあっちと呼んでいる。

「大丈夫やで、ママ。あっちは、しょっちゅう様子覗きに来てくれるママと違って、全然顔出さへんの。忘れられてんの、あたし」

弘の両親は由美たちを忘れていない。由美のほうが弘たちの存在をすっ飛ばしているのである。だがそんなこと、いわなくていいことである。

「冷たい話やねえ。初めて会うたときは、そんな人らとちゃう思ててんけど」

「嫌われてんの、あたし。だから会いたくないみたい」

「あっちの方も、頼れるんは、ヒロシはんだけやのにねえ。せっかくの一人息子やいうのに、寂しくないのんかしら」

由美は皿をすっかり空にして、茶などをすすりながら、

「わざわざ来るのが億劫なんとちゃう?」

と乱暴に吐き捨てる。

遠慮してるのが分からんか。

それに両親は、弘たちをおざなりにしているわけではない。

頻繁に、しかも直々に来るずうずうしいサエとは違い、弘の実家からは、母や父が遠慮はるばる来る代わり、小包がそっと送りこまれるだけの、丁寧な心遣いをしてくれている。

中元、お歳暮、必ず届く。

これを、忘れられているというふうに取る由美のほうが、冷たい。

しかも由美は弘の実家から何かが届くと即座に、

「同じもんばっかりね」

と素っ気無く、

「他に選ぶモンないのん?弘君の地元。田舎ゆうても、そこまで僻地やないやん。デパートとかあるんとちゃうん、ゴディバのコーヒーとかにしてほしい」

と意地の悪さはなはだしい。

それとも、七十前の年配者たちに、そんなハイセンスなマネを強いるほうがどうかしてると思う弘が、冷ややかなのだろうか。

「ほんまにゆんちゃんはよう我慢してる」

食事を終え、後片付けを弘に押し付けると、サエはカーペットにゆったり座りながら、ため息を吐いている。サエ本人はわざとではないのであろうが、台所にいる弘に、声はしっかりと届けられている。

「こんな家賃高いマンション住むねんやったら、一軒立ての家にしたらええのに」

サエの脇で、足を伸ばしながら、コーヒーをすする由美は、それには反応しない。

マンション住まいを希望したのは由美のほうだからである。

家でもマンションでも団地でもアパートでも、雨を防ぎ風呂がまが付いていれば、弘はどこでもよかったので、景色の見渡せるマンションが絶対だと主張した由美に、反抗心はなかったが、サエの不機嫌の矛先を弘へ向けさせているのは、気に食わない。

「ローン組んでもらわれへんかったん?ヒロシはんのお給料のせいで。二万五万の差でも、最近の銀行はキビしなったから、検査に通らへんかったんとちゃうんかしら」

「どやろ」

由美はばっさりと一網打尽にするが、サエは同じ箇所をちくちくと刺し続ける。

「オトコが女よりもお給料低いと、苦労するのんはやっぱり女のほうやもんねえ」

「給料少ないのは弘君だけの問題やないねんて。会社がちっさすぎるのが、まずあかんねんから」

どっちかといえば弘は、執拗な拷問を好むサエよりも、いきなり息の根を止めるやり口の由美のほうが、若干マシであると思っている。

月日というエキスを由美に注ぎ込み、パワーアップしたらサエになるのであろうから、いずれ弘は逃走を真剣に考えねばならぬときがくるかもしれない。

そうなれば闘争になる。

そうなれば厄介である。

 「ほんだら、帰らせてもらうさかい、ヒロシはん。しッかり、考えといてください。あ、ゆんちゃん、商品券あげよな。(金額)ちょっとやけど、好きなもん欲しいもん、買いなさい」

 「ありがと。ママ」

 封筒を手渡され、由美が喜んでいる最中も、サエは弘をぎっと見ながら、

 「ええ返事を、待っていますさかいにな、ヒロシはん。老後のこともそろそろ視野に入れなあかん時期に入ることやし、今のままずるずるいってたら、後悔するときがあるかもしれへんで。二人の未来のためにも、考えといてくださいヤ。答えはいつでもよろしいけど、そんときは、ええ返事を、心待ちにしておりますさかいにナ」

としつこくくり返す。

 まるで魔女である。

 黒の煙を立たせた壷を、呪いの呪文を唱えながら、そこに骨の棒を突っ込んで、ねちゃねちゃかき混ぜている鬼女である。

 「ほな、ゆんちゃん。身体に気をつけて、しッかり、働きなさい」

 「うん。ママ」

 ドアを開ける直前にも、サエは振り向き、

「どうするか、返事はいつでもええですよって、浩はん。夜中でも朝方でも、こちらはいつでもええですねんで」

ともう一度念を押し、去っていった。

「さッ。ホルモンの代謝、良くせな」

 サエの帰ったあとしばらくして、由美がダンベルを握りはじめたので、

 「スーパー行って来る」

といって弘は逃げる。

改造するのだか甦るのだか知らんが、悲しい野望に付き合うのはもう絶対嫌であるから、そそくさとサンダルを引っかけると、

 「ごはん食べたやん」

といいながら、のしのし近づいてくる。

 弘の背後に由美はいる。

 「もう夜の十時半やで」

 「店は開いとる」

 「コンビニちゃうやろね。コンビニのものは高いねんからね。やめといてよ」

 「ぼく、そんなとこ、行けへん。スーパーや」

 「ヘエ」

と興味索然のご様子。

 由美は料理をしないので、この頃のスーパー事情に、詳しくない。

 最近では人ばかりでなく街もみんな、夜更かしをする。

 弘の贔屓にしている近所のスーパーも例外ではなく、午前まで開いている。

 夜も更けたころ、冷蔵庫の中に常備していないものを、ふっと思い出したときは便利だし、とくに外へ出るための具合のいい理由にできるのは、大変いい、それにずらっと並ぶ品物を見ているだけでもよい気分転換になる。

 「朝の用意に足らんもんあるんや、卵とかもうないし。あと、つまみ」

 振り向きもせず、弘はいうと、

 「また太るわ」

と酷なことをいわれてしまったが、由美は弘の夜のしばしのお出かけなど、もはや眼中にないらしく、奥に引っ込んでしまうのを見計らって、ドアを閉めた。

 外に出てみると、見知らぬ女がうろうろしていた。

 女は薄明かりの中できょろきょろし、廊下の左右を探っては、閉じられたドアの前に引き返し、覗き穴から中の様子を見たりして、一向に落ち着かない。

 弘は女に見覚えはなかったが、女の見張る(そうみえる)ドアの住人は、ユーレイ女こと井乃さんの部屋である。

 ――お母さんが毎日来てはる。

弘は、由美がいっていたのを、女の傍を通りすぎるとき思い出すが、直接声をかけるのはためらわれた。

ユーレイ女に会ったのは一度きりだし、親しい間柄でもないので、女を放っておくことにして、先へ進む。

そのときも、とにかく女はドアの奥が気になるらしく、そわそわとして、廊下を行ったり来たりとくり返している。

 住民の井乃さんの歳はいくつなのか、弘は知らないが、うろつく女のざっとした様子から、ユーレイ女の母親のような気がしないでもない。

 「あの……」

 弘の後ろで声がする。

女の声はユーレイ女のものと同質で、今すぐにでも消え入りそうである。

「はい?」

なんとなく、呼びとめられる気がしてたので、弘は女のほうを素直に向く。

弘が振り向いたら、女は黙りこくってしまった。言葉を迷っているらしく、もじもじして、なかなか切り出さなかったが、

「理子……ここに住む井乃の身内のものですけど、ね。お聞きしたいんですけど、理子ちゃんがどこにいるか知ってはります?」

女はドアの表札を指しながら、いっている。

理子。

ユーレイ女の名前であろうか。

だがユーレイがどこを彷徨っているかなど、フツー人間の弘が知るはずもなく、

「すんません。知りませんわあ……」

というのが精一杯である。

 紙のように薄い女の肩がくしゃりとなる。首から結ばれている肩の線が動くとき、ユーレイ女と重なった。二人の体型は酷似している。

 「そうですよね……ごめんなさいね、あほなこと聞いて」

 「いや、そんなことは」

 弘はどぎまぎするしかない。

 女は老けていたが、美しいといっても世間に十分通用するような可憐さが残っていた。しかも顔立ちが、ユーレイ女にそこはかとなく似ていて、どきっとする。

 きれいな鼻梁や輪郭などがそっくり瓜二つであると思う。

 弘は首筋をさすりながら、

 「友達とどっか、遊びに行きはったんとちゃうやろか。若い人やし」

とありそうにもないことを並べると、女は首をふりふり、

 「理子ちゃんはそんなんしません。今風の子やないんですよ……」

哀しそうに笑う。

 ぴたっと閉じたドアを見上げながら、

 「かなり待ったんですけど。帰って来ないから、もう、今日はやめとこう思って。でも大分待ってたんやし、もう少しもう少しって、ずるずる……二時間」

 「ここにいはるわけですか」

 「そーなります」

芯のない返事をすると、女はごそごそとバッグから紙を取り出しながら、

 「あの、理子ちゃんと、顔合わせることってあります?」

 ユーレイ女と弘が会ったのは、梅雨明けのことだったから、もう一ヶ月以上は顔を合わせていない。

 顔を合わせるどころか、一部屋隔てたところに、今もユーレイ女がいるのかいないのかすらも分からんというのが弘の正直な感想であるが、

 「さあ……」

と即答を避けておく。

 弘が首をかしげて苦笑を漏らすと、一瞬女は困った顔をしたので、

 「何か……井乃さんに渡す荷物でもあるんやったら、管理人さんのところにでも」

と提案すると、

 「招待状なんです」

弘がもう行ってしまうと受け取ったのか、女は再び一人で残されるのを焦ったのか、突発的にいい出した。

 「わたし、理子ちゃんの、ここに住んでる井乃の母親にあたるもんなんですが、あの子の、兄の、結婚式が再来月にあるんですけどね」

 女はがさがさと紙を開き、結婚式の招待状の下書きのようなものを、弘に見せる。

 日付のところを指でなぞり、

 「この日なんですけど」

 「はあ」

 空気のいきおいに流されてしまい、しょうことなしに弘も紙をのぞく。

 「わたしが直接渡してもね、どうせあの子は無視するやろし、どないしよかなって」

 「はあ。郵便ポストに入れといてはどうでしょう?」

 「そんなの、駄目駄目。あの子はそんなん見ないんです」

 「電話とかで知らせてみては」

 「人と話すん嫌やいうて、取らないのよね、理子ちゃんは」

 どうせえというねん。

 弘が窮屈そうにしているのを察知したのか、女はぽっと顔を赤くして、

 「すいません、見知らぬ人にいきなり、こんなん。ごめんなさいね」

紙を、腕にかけた鞄に、ささっとしまい込む。

「はあ」

 「宗ちゃんも、ミイに結婚するのんはよいっときたい、っていうし。私も明日の朝まで待たれへんくて、つい」

 この女が朝のはよから娘の元へ通ってる母親であると確信すると、唐突に、弘は嫌になる。女はそれに気づくことなく、頬にしおれた指を当てて、

 「宗ちゃんもようやく一人前になるっていうのに、理子ちゃんはずっと一人であんな怖いことしてて。ご飯とかちゃんとしてるんかなって心配で、つい毎日来ちゃうんですよう」

 「はあ」

 宗ちゃんとは兄の名前であろうか。

 だがそれについて尋ねるよりも、この母親から離れたかったので、ささっと女の横を通り過ぎようとすると、

 「あ、もし、もしね。理子ちゃんと会うことあったら、伝えといてください。きっと、喜びますから、あの子も」

と伝言を押し付けられた。

 しかし、一応預かっておくことになったことづては、すぐ届けることができた。

 ユーレイ女こと理子は、弘の目当てのスーパーにいたのである。

 黄色の籠を持って、先ほど母親がしていたのと同じように、冷えた店内をうろうろしては引き返し、また前へ進むといったことを、繰り返していた。

 理子は軽い素材の灰色のワンピースを着ているが、冷房の効きすぎた店内は寒いようで、ときたま腕をさすり身体を暖めていたりする。

 「こんばんわ」

 弘は野菜売り場にいる理子に、あいさつをする。

 極めてにこやかにあいさつをしたつもりであるが、理子はにこりともせず、ぎくしゃく笑う弘の顔を、ちらと黙認するだけである。

 「ああ、はい……どうも」

元気はない。

 元気というよりも、精力そのものがない。

向けられた理子の顔色もすこぶる青白いので、その血の気のなさに、弘はちょっと怯んでしまう。

 「あ、その、ぼく、ようここに来るんやけど、初めてデスネ、ここで会うの」

「ああ、はい。そうですね……」

「ケガのほうは……その?」

具合を探るように、理子の膝を指すと、

「平気になりました」

理子はゆっくりとしたまばたきをして、弘をふいと見つめ、

「ドモ、ありがとうございます」

と応え、軽く会釈をしてくれた。

「あ、うん。そりゃ、よかった」

 静かな湖面のような眼の迫力が、弘を緊張させてしまうのでたじたじして、視線を迷わせていると、理子の目の先が、いつのまにか弘の足下に落ちていることに気づき、拾い上げるように、

 「この時間帯やと、野菜がうんと安くなるもんやから、つい仰山籠に入れてしまって、これまた、重いデスわ。は、は、は」

籠の中を見せると、理子の、四方にぽうっと彷徨っていた目線が一点に固まり、底に横たわっている野菜へ到着した。

 だが理子は何もいわない。キャベツを見ているだけである。弘は負けない。

 「肉も安くなってるみたいやし、仰山買いだめしたいけど、刺身も安くなってたから、そんなに買うてしまったら、食べきられへんで、ね」

 「お肉好きなんですか?」

 初めて理子が唇を動かした。

 理子の声は空音のようで、聞き取りにくい、がそれは、弘が耳をすませばいいだけのことで、問題はない。

 きんきんとかん高く速い、サエのとは違い、身を乗り出して聞いてやらねばと思うような声である。

 弘は鼻をぽりぽり掻く。

 「好きですな、よう、肉は買うてる。特にここのは値段のわりにおいしいから、ええんです」

 「へえ」

 「ここの肉はお勧めです」

 「へえ、知らなかったな。っていうか……」

 「っていうかなんです?」

 理子の濡れた蕾のような大きな瞳はもう、弘の、見開いても細い目を捉えていない。目は色彩豊かな陳列棚のほうへいっている。

 「あまりこういうところで、買い物しないんですよね。外に出ないし、通販で済ませるんです」

 「通販?出前とかじゃなく?」

 「はい。野菜とか魚は全部通販にしてます」

 当たり前のようにいう。

「はあ」

 弘の知らない世界である。

 布団や化粧品が宅配される形式はお馴染みであるが、普段の食事の材料をどっかから届けてもらうというのは、弘にはあまり身近でない。

 ちょっとの間、ぽかんとする。

 そのときふと、理子の実家は裕福だという由美の言葉を思い出す。

 弘が理子の発想についていけていないのではなく、あるいは経済感覚の違いというやつかも知れない。

 理子は菓子コーナーへ曲がっていくので、弘も自然を装いついて行く。

 チョコレートの箱の裏をじいっと眺めている、理子の肩の位置はうんと低く、図体のでかい弘に隠れてしまいそうなぐらい、小さい。

 ふっと吹かれてしまえば、ひらひらとどこかへ飛んでいってしまいそうな、薄い紙のような理子はいっている。

 「外へ出る気がしなくって。そうなっちゃった。値段は、近所の店で買うより、ちょっと張るし勿体ないけど、外に出たくない気持ちのほうが強いから」

 理子は、弘を話し相手として意識しているのか時折、ぼっとしている弘をちらと見つつ、

 「魚とかは冷凍しといたら長持ちするし。味は落ちるんやけど、私、そんなの気にせえへんです」

同じ種類のチョコレートの箱を二つ三つと、籠にぽいぽい入れながら、独り言をいうときのように頬を優しく動かしている。

 夜の十一時を過ぎているので、レジは一台しか作動していなく、少し込んでいた。

 短い列に弘が並ぶと、理子もふわふわした足取りで、後ろに加わってきた。

 弘は理子に順番を譲ることにして、後ろに回る。ほとんど同時にレジに並んだのだし、別によいではないかいな。

 「また、会いましたな」

 「奇遇です」

 理子ははみかむ。

 かすれるような微笑は希少である。心の中で弘は拝む。

 「お互い、大量やね」

 籠を傾け、底で沈む品々を見せると、理子は若い女にしては珍しく、四十五の太っちょおっさん丸出しの弘に話しかけられるのに、拒否反応を起こしていない、大人しく、うれしそうに目を細めてくれている。

 結構柔らかい人なのかもしれない。

理子は子どもと大人がうまく混在している人のような気がする。

「あの、その、お母さん来てはったよ」

 それで弘はいうことにする。

 理子に会ったとき、いきなりいうのは躊躇って、そのままずるずると伝えるタイミングを逃していたから、黙っていたが、今の、感じ良い雰囲気ならいい出せた。

 「ついさっきやねんけどね。お母さん、どこへ行ったんかって心配してはったんよ、ドアの前でずっと待ってはったみたい。井乃さんが帰るんを」

 弘は初めて理子の名字を呼んだ。理子の瞳が弘に入る。どきどきする。

弘の会社に女はいない。いるのは清掃のばあさんだけである。たとえ名字だけにせよ、女の名の一部を口にするのは、随分と久しぶりであるから、なおさらどきどきした。弘の胸は破裂しそうである。

乱れもしない短髪頭を、ちょいちょい触れながら、弘は続ける。

 「なんや、お兄さんの結婚式の招待状を直接渡したかったみたいで。ドアの前にいてはったんよ」

 「別に明日でもいいのにね。斉藤さんに、また迷惑かけたみたいですね」

 不意に、理子は弘の名字を口にする。一部屋隔てた者通し、理子が弘の名字を憶えていても、特に不思議ではないのだが、弘は意表を突かれた思いである。

 ――ぼくのこと、覚えてはったんや。

と頬がほんのり朱く色付くと、

 「最近、斉藤さんの奥さんとよく話してるみたいで、私の、おかあさん。朝、奥さんの出掛けるときに色々話しかけて、邪魔してるみたいで。どうも、いつもすいません」

といわれて、今度はさあっと血の気が引く。

 弘の顔色は真っ青になった。

おそらく、きっかけを作ったのは由美のほうからである。

 理子の母親は、弘を、通りすがる見知らぬ隣人に話しかけるのを、随分躊躇していた気があった。

 それに挙動不審でもあった。

 そんな人が、すたこら前へ急ぐ由美の歩き方についてこれるとは、到底思えない。

 不可抗力である。由美はものすごいのだ。神出鬼没である。

 弘は口をつぐんでしまっている。

 理子は、浩の顔色の移り変わるのを気づいているのかいないのか、レジでもらったビニール袋に、葱のみじん切りのパックを詰め込みながら、ため息を吐いている。

 「斉藤さんの奥さんは、明るくて優しい人みたいで」

 「とんでもない」

 本心である。

 「そっちのお母さん、美人で羨ましいです。ぼくんとこのおふくろは、なんや、マンホールみたいにまん丸で。もっと『女』してほしいです」

 娘の引きこもりの状態を心配して、母親が毎朝、通っていることについての感想は避けておく。

 理子は朱色の唇の端を片っ方だけ上げて、

 「結婚式のことは宗ちゃんから――兄に直接聞きました。夕方に、わざわざ報告しに来ましたよ。私のところに来たことを、宗ちゃんは母にいわへんかったのかも」

ぱんぱんに膨らんだビニール袋を手に提げる。

 浩は籠から袋に品物を移す手を止めて、また、きょんとする。

 「あ、そうなんや。ほんなら、もう驚かんかった、ね……」

 「そうですね。驚きはしなかったです。さっきまで母がドアの前で待ってたっていうのと同じです。毎朝来るんですよ、ごはん作りに通いに来るという」

 「そら、大変やわ……」

理由はさておき、親元から離れて暮らす娘の元に、毎日いそいそ通う母よりも、大変なのは理子のほうであろう。

弘は理子の母親の立ち姿を思い出す。無垢な子どものようであり、胸の内は溢れんばかりの厚意がつまっていたかに思う。

外へ出る気がしないという厄介な面倒を抱え込んでいる矢先に、そんな真摯な無神経が交わると、理子の心労はさぞかし堪る一方であろう。

 「それなのに夕方、兄も来たという」

 他人事のように、理子はいう。

 「そら、敵わなんなあ」

 弘は吹き出してしまう。

 深刻な状況に立っているというのに、もはやお手上げだと完全にあきらめて、あぐらをかいて見守ってるような、理子の他人事の調子がなんだかおかしかったのだ。

 それは弘の境遇に通じるもの。

 「うん。しんどいのん、分かる」

 「つまんないです。色々と」

 「ははっ。うん、つまらんわ」

 弘は白状して、底なしに笑ってしまう。

 後ろめたい気持ちはない。

 愉悦の海に浸るのはひとえに楽しいだけであるので。


 ギリギリ「今日は異様に強かったね。すごかったよ」

 キリンさん「同感です。中途半端な攻撃なんて全然効かなかった。すぐにはじき返されて、なんじゃこりゃ、って感じでした」

 侍「某はいつも、何を買ってもどれを売っても、でんぐり返されてるだけなので、そなたたちのいうことが、いまいちよく分からんでござる。目先の上がり下がりばかりに気が向いて、市場の脈の流れというものがまだ見えてこないのでござる。某、早くギリギリ殿たちの境地に辿り着きたいでござるよ」

 らっぱ飲み「やめとけ、やめとけ。つらいだけだぞ」

 ギリギリ「そう、つらい」

 キリンさん「しんどいし」

 アッキー「ぼくもギリギリらに同感だな。侍の今の状態が一番楽しいと思う。侍は若いみたいだし、養わなきゃいけない家族とかいなかったよね。だから、資産が減って躍起になってる気持ちより、もっと上手く操作できるようになりたいと願う心のほうが強い、とぼくは思うんだ。一途に努力してるそのときが、一番わくわくできるときだと思うから、焦らなくてもいいと思うけど」

 らっぱ飲み「そうだ、これから上手くなっていけばいいだけのことだ。今日や昨日の失敗を経験に代えて、お前は、前へ進める立場にいるんだから、落ち込む必要なんてないぜ」

 S「ぷ。やめとけっていったくせに、なんだよ、それ。手前がやめろよ、らっぱっぱ」

 らっぱ飲み「Sよ。なんでお前がここにいるんだ?」

 ギリギリ「ごめんなさい。自分が、ここに入るパスワードをSに教えてしまいました」

 らっぱ飲み「まじ?」

 ギリギリ「まじ」

 アッキー「まあまあ、いいじゃないか。皆で仲良くするのは無理でも、世間にはいろんな人たちがいるんだっていうお勉強になるよ」

 S「なんだよ、それ」

 キリンさん「香辛料みたいな役割ですかね」

 アッキー「ああ、いいね、それ。ぼくらみたいに、ずっと家にこもっていると、嫌いとか好きとかいう、ぴりっとした感覚が削られていくからね。Sの発言にむっときているっていうのは、まだ人間してるんだ、という証拠になるね」

 らっぱ飲み「なんかやたらと今日は語るな、アッキー」

 アッキー「まあね」

 侍「プラスでござるか?」

 アッキー「ぷらす千九百十まんえん」

 侍「をを。その辺のサラリーマンのちょっとした年収を越えてるでござる。動かす資金が億を越えたら、たった一日で、その額を稼げるようになれるのでござるか。たくましい」

 S「自慢すんなよ、いちいち。手前にとっちゃあ少ない収益じゃねえか」

 らっぱ飲み「アッキーは鼻が利くからな。遠くでばらつく、地味な銘柄に噛みつくのは、得意中の得意のはずだ」

 キリンさん「いいですねえ。わたしは急所ばかり突かれていたんで、てんてこ舞いでした」

 侍「だがプラスでござろう?」

 キリンさん「まあ、なんとか踏ん張って、プラス九百ってとこでした。疲れました、はふ」

 侍「ところでギリギリ殿の、今日の収益はいかほどでござるか?」

 ギリギリ「なんとか三千、ほんとにすれすれ」

 S「お疲れ様です、師匠」

 らっぱ飲み「さすがだな」

 ギリギリ「でもいいやつもいっぱい見逃してて、がっくりきてます。もうへとへとです。監視に集中しすぎて、目が真っ赤です。嫌だな」

 らっぱ飲み「市場の中心の渦はじっと停滞してたけど、周辺にいる取り巻きたちがざわついてたからな。ちょろちょろした細かな動きを追うのは、どっとつかれる。しんどい日だったな」

 S「楽なときなんてないだろ。弾む一瞬はあったとしても」

 ギリギリ「地味な銘柄が、跳ねたり転んだりして、一向に落ち着いてくれないのは、一瞬足りとも気が抜けなくて、怖かった」

 キリンさん「明日は勘弁してもらいたいですよね。やたらと動きが速いほうが、まだいいです。不安抱えてタイミングを計ってるよりも、追いつこうとして必死になってるほうが、ハラハラ度数が少なくて済むので」

 ギリギリ「同感です。速い動きの真っ只中へ、突っ込んで注文を出すときは、何かを思うより先に勝手に手が動いてるから、どきどきしてる余裕すらないっていうか」

 侍「ギリギリ殿の反射神経は抜群でござるな」

 S「神が与えたもうた才能ってやつですか?」

 ギリギリ「そんなんじゃないです」

 アッキー「経験と実践を積み重ねていってれば、自然と身につくスキルの一種だと思うけど」

 らっぱ飲み「出たな、アッキーの、負けず嫌いの本性が」

 アッキー「そんなんじゃないけど」

 侍「アッキー殿が牙を剥くのは随分と久しぶりでござる、ぶるぶる、でござるよ」

 アッキー「そんなんじゃないけど」

 S「いいかえしてる時点で負けず嫌い決定だ」

 アッキー「『確定』に直しといてくれるとうれしいな」

 S「ゲハハハハハ、鬱陶しいな」

 らっぱ飲み「お前のほうが目障りだったりするというのは、黙っておいてやろう」

 S「うるせ、らっぱらぱあ!」

 キリンさん「それにしてもアッキーさん、ホント、今日はやたらと攻撃的ですね、どうしたんですか?いつものアッキーさんじゃないみたいです」

 侍「儲かったのがうれしいのでござるか?浮かれているのでござるのか?」

 ギリギリ「いらいらしてる?」

 アッキー「そうだよ、ギリギリ、その通り。いらいらするんだね。儲かったといっても、もっと上手く立ち回れたはずなのにって、悔しくって仕方ないんだ。今日の市場の動きは、ぼくの、得意分野連発だったから、いけるだろうって油断して、集中力が散乱してた。終了したあとですぐ、ああすればよかった、こうすればよかったって、儲けられなかったことを惜しむ気持ちばかりが沸騰してる」

 侍「儲かったというのに、いらいらするのでござるか。某は、今日はなんとか切り抜けた、損しないですんだ、とほっとするだけでござるから、アッキー殿の心境へはまだまだ辿り着けないでござるよ、すまぬ、どういったらよいのかが某にはわからぬでござる」

 キリンさん「儲かっても、あんましうれしくないっていう気持ち、わたしは分かりますね。過去に損失出してたら、その穴を埋めてるだけって感じもします。数字が増えても、もうあんまし楽しいもんじゃないですし」

 ギリギリ「今が儲かっても、次の日に損したら、昨日に増えた資産の意味もなくなるから、儲かっても、素直に喜んでばかりではいられないです。資産が増えていくと、損する額がますます膨れていくし、緊張が募るばかりで」

 キリンさん「もっと上手くできたはずなのに、どうして気づかなかった、なぜ動けなかったんだろうって、市場が終わった、一日の内の余った時間は、苦悩しているのがほとんど。自分の予想以上に身動きできて、すいすいと波に乗れる日なんて、ほんと、年に数えられるぐらいです」

 らっぱ飲み「ここの稼ぎ頭の二人もこういってるんだ。そんなに気落ちするなよ、アッキー。お前の、一日の収益は目をみはる勢いで増えていってるじゃないか、求めるレベルが上がってきてるんじゃないか?もっと自分を褒めてやってくれよ」

 侍「アッキーがささくれてると、なんだか某、つらいでござる」

 アッキー「……最近、家族に、株をやめればって、よくいわれるんだ」

 キリンさん「わたしも、夕ごはんを食べてるときなどに、親にいわれます。いわれるときって、自分のものすごく落ち込んでるときを向こうは狙ってるもんだから、胸のヤなところに命中するんです。わたしがひたっと黙るのをいいことに、家族って容赦ないもんで、トドメを射そうとしてくるんです。奴らはわたしの息の根を止めるつもりなんだ」

 S「連続乱射されるのか」

 キリンさん「その通り。簡単に、やめろ、だなんて、よくいえますよね。やめられなくって、市場から離れられなくって、悩んでいる部分もあるっていうのに」

 らっぱ飲み「でも、いったとしてもきっと何も伝わらないしな」

 キリンさん「そうなんです。だからもう、家族に分かってもらうのはとっくにあきらめてるんですけど……」

 ギリギリ「でも、誰かと、自分の気持ちをいい合いたい野望みたいなのはありますよ。ずっと」

 侍「……乱暴でござる、希望っていってくだされ、ギリギリ殿」

 キリンさん「いつか、わたしについて、わかってもらえるような人が、現れてくれるって、幻みてる」

 らっぱ飲み「幻なんていうなよ、キリン。現に、俺らは、こうして集ってるじゃないか。上がった下がったの報告だけじゃなく、そういうふうになれるように願いも秘めて、ここを開設したんじゃないか」

 S「資産十億達成者たちの集う憩いの空間」

 侍「某はちょっと条件に漏れているでござるが――」

 ギリギリ「もうちょっとで一億到達でしょう。がんばってください」

 らっぱ飲み「わかってくれる人はいるもんだって、あきらめたくないから、俺らは俺らだけの居場所を、作ったんだ」

 S「貧しい着想だよな。結局、どうやったら独りで殻に閉じこもっていられるかを考えてるんだ」

 らっぱ飲み「しょうがねえだろ、引きこもりの思いつきなんて、この程度だ」

 キリンさん「捨て身にならないでください、らっぱ飲みさん。なろうと思って、引きこもったんじゃないですし」

 ギリギリ「気がついたらそうなってたって感じかな。自分の場合は」

 らっぱ飲み「俺もそうかも」

 キリンさん「損した日なんか、外へ出ようなんて思いつかないですしね。しばらく床に伏してるだけ、そんで夜また起き出すという」

 ギリギリ「アメリカの市場の動きを眺めておいて、流れとリズムの調子を身体に循環させておいて、明日の市場に備えるという」

 キリンさん「それも同じ」

 侍「あわわわわ、なら、お二方は一体いつに休んでいるのでござるか?」

 らっぱ飲み「休み、なんて、ないんじゃね?株トレーダーにさ。俺なんかもそうだし」

 侍「…………」

 ギリギリ「常に頭の巡りをよくしておかないと、調子が狂っちゃうから、休めません」

 キリンさん「同時に、精神の状態も毎日一定に保たないと駄目ですから、突発的に普段とは違うことをして、神経を乱されたくないっていうのもありますね。何か、普段と違うことをすると、心が変わってしまう恐れがあるでしょう?」

 S「暗いやつめ」

 ギリギリ「でも、一理あります。さもしい考えだけど、前にもいったように、心の乱れは市場にモロ影響します。試合前のスポーツ選手と同じです。無になっておかないと、勝てない」

 らっぱ飲み「外の俺が元気ないのは、市場に吸われてるからかな、全部を」

 侍「確かに某も、食べていても歩いていても、頭の中は株ばかりで、生きた心地はしないでござる」

 キリンさん「わたしは、心が市場の奈落へ沈みかかっています。げはッ(血を吐いた)」

 S「げはッなんて生温い。ぐふうッ(消滅)、だ」

アッキー「心を削除できたらいいのにな。そうしたら楽になれるのに」

らっぱ飲み「アッキーが復活したと思ったら、いきなり怖いこといってるぞ」


「由美ちゃん、井乃さんのお母さんと、よう、話てるのん?」

「そやで。隣近所とナカヨクするのは、普通のことやん」

スーパーから戻ってすぐ、弘は風呂場から出て来たばかりの、ほかほかした由美を捕まえ聞くと、あっさりといわれる。

「毎朝仕事の出しな、あそこのお母さんとは会うねんもん。あっちのほうも通りすぎるあたしのこと、気になってたみたいで、こっちから話しかけたらすぐ、にこーって笑いはって」

やはり。弘の推理は命中である。

由美は化粧瓶の蓋をきゅるきゅる開けながら、

「フツーの人ヨ」

とつまらなさそうにいい、居間の壁に立て掛けてある鏡に向かい、化粧水を肌に注入している。

 「あ、もうないわ。イヤン、もう、ないわ」

 薄い細工の施された透明のガラス瓶をふりふりするが、一滴のしずくがぽとんと手のひらに吸われただけ、化粧水は空っぽである。

 四十路の皮膚は、水をぐんぐん内へと吸収していく仕組みになっているようで、上からどれほど水分を浴びせても、肌は、なんのこれしき、まだまだ飲めまっせ、といいながら肌理を開きっぱなしにして、まるで猪口を掲げたおっさんのように、おかわりの催促は緩めてくれない。由美の化粧水の減る速さは半端ではない。

 「買い置きしといて正解やわ」

 若さに固執する女はみんなしぶとい。

 だいたいのことに勝つ気でいる。

 ただでさえ女はねばりっけが強いものを秘めどころに隠しているのに、そこへ妄信の念の鎧をまとい始めると、もっと勝てるようになってしまうから、弘のような男などが対抗しても、あっさり、敗れる。

 現に由美の足元には、空瓶が転がっているのだが、なぜか弘が拾わされている。戦争の後始末をするのは敗者のつねであるといえよう。

 「空瓶はゴミ箱に捨てんといてな、会社に送るとポイントもらえるから」

 購入した、化粧品会社に空の瓶を送り返すと、なにやらポイントが加算されていき、提示された数字に辿り着いたおり、その会社直属の商品券がもらえるらしいとのこと。

 由美との生活の中で弘は、本気でどうでもいいことを、星の数ほど覚えさせられたが、特にいらん知識の一つである。

 「自分で買うてんて」

 「は?何を」

 弘が台所のゴミ箱に、瓶を捨てに行くと、いきなり由美がいいだした。

由美は(会社では知らんが)、弘に対する会話の中では主語を用いないことが多いので、何をいっているのかわからなくなることが多い。

 弘が釈然としないでいると、

 「あのヒトのことやん、井乃さんとこの娘さん。このマンション、自分のお金で買いはってんて」

 「ローンでか?そらまた大変や、井乃さん、働いてへんねんやろ?どうやって払っていくつもりやねん」

 由美は、違うわヨン、とせせら笑う。

 「一括購入やねんてさ。おかーさん、そう、いうてはった」

 弘は意味がつかみ取れないでいる。目を点にして耳をそばたてる。

 「買ったって、え?ここを。え、どうやって」

 理子は引きこもりのはずであり、稼ぐという動作から無縁の、妖精のように無力な人であったはず。

 「娘さんのために親御さんらが貯金してくれてはったとかいうんじゃなくって?」

 このマンションは都内ではないが、安くない。

 交通の便はいいし、部屋の設備もまあまあ新しい。

 四十八の浩は、毎月支払う家賃だって高いなと渋っているというのに、一括購入になれば、そりゃもう、大した額に膨れ上がる。

 あの理子にそんな豪快さがあったとは思えない。

 由美は、息をつまらせている弘を見ていると爽快なようで、すきっとして、

 「株、やってんねんて、あのヒト。三十でよ、すごいと思わへん?」

となぜか威張っていう。

 「引きこもってはるねんやったら、会社なんか行ってはれへんやん。どうやって取引してるねん?」

 「家でよ。ネット取引やねんて。朝の九時から昼の三時過ぎるまで、パソコンの画面にべったりひっついて、何千万エンいう数字入力して、マウスでカチンや。なんかネあのヒト、すごい持ってるみたいやで、コレ」

 人差し指と親指で丸のかたちをつくり、弘に示す。

 理子の母親はしかし、収入面で娘がダントツに成功していても、一日中パソコンの画面にへばりついている年頃の娘の状態を、嘆いているそうである。

 「株なんて怖いもん、やめてほしいって毎日いってるんです。でも全然、やめられへんいうて、理子ちゃん、聞き入れてくれなくって」

 理子の母親は、視線を、重ねていた由美の目もとから地面へゆっくりとずらしていき、悲しそうにつぶやいた。

 「扱う金額も、だんだん大きくなってるみたいなんやけどね、その分、リスクを負うでしょ?いつか、あのコの人生狂うんちゃうやろかって、家中、心配で心配で」

 「ここのマンション買うような懐あるんやし、そんな、大丈夫ちゃいます?」

 由美は、そんなお子さんがいてはって羨ましいと、笑った。

 「お宅の娘さんがそんなことしてはったやなんて、むっちゃびっくりしました。造幣局じゃないですかあ、そんだけ稼いでくれてるんやったら、もっとホメテあげなきゃ」

 理子の母親は首をふるふるして、

 「ええ、でも、お金の使い道の知らんコやから、お金あっても、いっこも意味がないし……」

 「そんならお母さんが代わりに使ってあげたらどないです?」

 がははと笑いながら、薄い肩をぽんとたたくと、

 「家、買ってもろたし……もう」

理子の母親は特に喜んでなどいなく、悲しそうに微笑んだ。

 「家?!家も買うてたんか?」

弘の腰が抜けると、由美は最高潮に上りつめることができるらしい。ご機嫌に、

「そうよん。でもねソノ家、広すぎて掃除大変やって、家族には不評みたい」

「……」

 「お金が思ったより増えたいうて、端数は邪魔になるいうて、何もしていらんいうのに、あのコ、家を勝手に買ってね。この頃は直接触れたこともない物件を、パソコンでポンと、簡単に購入できるらしいんですね。気安いことしとるって、おとーさんはふてくされてるし……」

 「……」

 「わたしも歳なのに、大きい家もろても、活用なんてできないんですう、そんな広いとこ居ってもしんどいだけで。おとーさんはおとーさんで、子どもに買ってもろた家なんか、好かんねん、いうて、しょっちゅうお出かけしてはるし。かといって、前に住んでた家はもう売れちゃったから、戻れなくなっちゃってね。ほんとに困ってるんです」

 理子の母親は久しぶりに人と話せてうれしいといい、やんわりと手のひらを重ねる。

 「ご近所とかには黙ってるんです、家のコトは。いろんなこと、ねほりはほり聞かれそうで……子どものお財布当てにして、とかいわれたりなんかしたらどうしようって、もう、恥ずかしいばかりでね」

 「……」

 「そんなに豊かじゃないけど、コドモらには、経済的に困らしたことなんてないんやから、お金の取引なんて卑怯なこと、さっさと辞めて、カレシとか楽しいこと見つけて、普通の生活を送ってもらいたいんですう」

 「はあ」

 異次元空間の話である。

弘の口はぱかんと開いたままになっている。なぜか知らんが、またしても由美に一本取られた形になってしまっている。

 由美は手のひらで頬を押しながら(クリームを浸透させているらしい)、

 「そんだけオカネ持ってるねんやったら、うちにちょっとくれたらええのに」

と屁理屈をこねる。

 「だって、思わへん?」

 由美は賛成の声を求めているのであろうが、弘は押し黙る。

 また無茶なことをいっとぉる。

 毎度のことである。弘はもう観念している。完敗である。

 午前になった。

そろそろ弘も風呂に入ろうと思い立ち、寝巻きをタンスから出し、入浴の準備をしていると、インターホンが鳴った。

 深夜の訪問者の予定はない。

 確認のために、ワインをちびりちびりとやっている由美を見たが、弘と同じような顔して、あたし知らん、というように首を傾け、

 「ママかな?」

縁起の悪いひらめきである。

 まさか。

 弘の頭に一筋の闇が過ぎる。

具合が悪いという、由美パパの容体が急変でもしたのであろうか、恐れを抱きながら弘がすぐさまドアを開くと、

 「すいません、夜遅くに」

噂をしていた理子であった。

 「こんな時間に来てしもて、迷惑なん、分かってるんですけど、はよ、渡しといたほうがええ思て、これ、どうぞ」

 ドアの隙間から、理子はビニール袋を弘に渡す。

 「この前、ゴミを運ばせてしまった、ささやかなお詫び……」

 「ああ、そんなん、ええですのに。大したこともしてへんのに、こんなことしてもらって、エライすんません」

 受け取り、ドアの動きを背中で止めながら、袋の底に着く箱を弘が見るなり、

 「お肉です。さっき、好きやというてはったから」

行動の先を読む理子である。

 「おすそわけです、たくさん、注文してしまって」

 「すいません」

 弘が頭を下げると、

 「自分の食べられる量がわかんないから、いっぱい買っただけですし……どうぞ、食べてください」

理子はすうっと消えていく。

 「愛想のないヒトね。変や」

 由美は手加減なしに理子の風采を叩きのめす。

 「ナニ、あれ。白子みたい、病人みたい」

 由美も、弘のすぐ後ろで理子を見ていた。由美は以前に理子を見かけたことはあっても、それは一瞬の出来事だったらしく、理子をじっくりと観察したのは今晩が初めてなようで、眼光けいけい、

 「若いうちからお金持つと、ロクなためしあらへんって、ほんまやねんね。株で稼いで大金つかんだいうのを、あのヒトのおかーさんから話聞いたときは、ソラすごい、って尊敬したけど、アンナンになるんやったら、あたしやったらご免やわ」

 また自分と比べている。

 だが弘は別のことに関心を持っている。

 「アンナンって何なん?」

 たとえ由美であっても、たとえそれが悪口であっても、他人の口から理子の影が出てくるのを見たくって、弘がつい口を滑らせると、

 「アレ、死んでるやん。そら、お母さんも泣きはるわ、ぼーっとして、ぽそぽそしゃべって、何いうてるか聞こえへんねん。目の焦点も合ってないし。オバケみたい、気色悪」

 由美に理子はことごとく不評である。

 いただいた肉はとても高級品らしい、ひろげた箱の中には、上品な紅色の上へ、真ッ白い霜がぱらりとかかった薄いものが、みっちり、敷かれていて、眺めているだけでも弘は思わず舌なめずりしてしまう。

 「ほう、これは――」

 美味そうだという前に、横から由美が出てきて、

 「牛ね。豚のほうがいいのに。カロリー高そう」

卓上に置かれた木箱を覘いて、渋い顔をする。

 さらに、

 「サシガネちゃうか、お母さんの。わたしのいない間、娘をよろしくってことちゃうの?」

 「よくもまあ、そんなこと……」

 弘は由美の意地悪さにおったまげる。

 だが由美は由美で、突然の贈り物に素直に頬をほころばせようとした弘が、バカバカしいようで、ぎょろりと目玉を動かし、

 「何ヨ。あたし、検討外れなこというてへん」

といって、唇を尖らす。

 「一階からここまでゴミ運んだくらいで、こんな高価なお礼しはる人なんか、怪しいやないの、反対に。魂胆あるんやわ、何か」

 由美は弘と理子の出会った経緯をどうしてか知っていた。

 どうやらマンションの住人の中に、由美直属の密告者がいるらしい。

 理子のゴミを、理子の部屋までわざわざ運んでいったあの夜の、弘の姿を誰かに見られていたのだ。

 弘は、普段の行動を勝手に誰かに、由美へちくられているのを知って、あまりいい気分ではないが、それにしても、由美のこの鋭敏さは、何であろう、触角でも生えているのであろうか、感服させられるばかり。

 「あんな不気味なヒトに関わるなんて死んでもごめんやからね。絶対そうやっ、そのお肉、おかーさんがあのヒトに持ってこさせてん、テ。我ながら冴えた考えや」

 つるべうちに由美はいってくる。

 「弘君、それにしてもよく、あんな変なヒトと二人、並んで歩けたね、あたしやったら、そんなこと、ようせえへん」

などと眉間に皺を刻みながらいい、三週間ほどしたある日になれば、けろんとした顔で、

 「ちょっと弘君。コレ、あっこにあげてきて」

 「なにこれ、由美ちゃん」

華奢な銀の細工が施されている、紺色の、小さな紙袋が弘に託される。

「『あっこ』って、どこの、誰のこと?」

 弘は突然のことにわけがわからず、ほけっとした表情で、誰に何を渡しに行かせようというのかと、尋ねる。

 「井乃さんとこの娘さん。ほら、だいぶ前に、お肉もろたでしょ。その、お返し」

「ああ」

理子にもらった肉は予想以上にうまかった。

 「え、だって、由美ちゃん、肉なんかいらん、いうてたやん」

 牛肉は、しゃぶしゃぶにした。

 昆布を沈めた鍋の透明な湯の中へ、一枚、二枚と紅色の花びらを、ゆっくり、弘がなびかせているとき、

 「あっ、やっぱりあたしって、牛肉苦手な人なんやわ」

出し抜けに由美がいい出し始める。なんでもケチつけないと気の済まない、由美のこんがらがった性格は、弘にとってはお馴染みなので、

 「え?でも、これ、すごく、甘いで。肉食べてる感じがせえへんで、肉苦手な人でも食べれるぐらい、油あるのにさっぱりしてるっていうか。溶けるで、舌に置いた瞬間、ふわって」

もう驚きはしない、冷静に対処したつもりであるが、

 「油いっぱいあるってことやろ?トドノツマリハ」

由美の目は見開いてたままであった。瞳は赤い。これはビールのせいであろう。

 「あたし、牛肉のどこが苦手いうたら、むわってくる、鼻にくるニオイ、や思うねん」

 「ああ」

適当にあいづちを打って、由美の発見を特に気にすることもなく、弘は五枚目の肉を泳がせている。

 「なんで焼けへんかったん?そっちのほうが肉の味消えるのに。あたしたっぷり、肉にタレつける人やのにい」

稲妻が光った。

 弘は線のような目を棒にして、正直、驚き入る。

 「だって由美ちゃんが」

 肉をもらった次の日の夕暮れ、弘はときめいて、フライパンを握ったとたん、由美の目の光はそのときも瞬いたのである。

 由美は台所に突撃してきて、わめく。

 「あ、止めて止めて。肉を焼くのんは、油っぽいのん、嫌ヤ。あたし、ダイエットしてるん、弘君知ってるやろ」

 そうであったか。

そんなこといきなり報告されても、由美がダイエットしてることなど、弘は気づかなかった。由美がいちいち、弘の作った手料理に、あーだこーだと文句をつけるのは、嗜好が合わないせいだと、決め込んでいた。もちろん由美は勝手者だが、弘も独りよがりなところはあったのだ。ちょぴっと反省する。

 だから弘は由美を慰めた。

 「由美ちゃんは太ってへん」

 本音をいえば、由美は痩せぎすだから、脂肪をもうちょっと蓄えて欲しいぐらいである。

 ところが由美は弘の優しいつぶやきに不満たらたら、

 「太って堪るもんですかッ。夜に、そんな高カロリーのもん、身体に入れたら、体型崩れるきっかけになるかもしれへんから、やめていうてるのッ。あたし、焼肉は嫌やよ、食べへん。お野菜たっぷりのお鍋にしてッ」

おまけに、

 「あたしは弘君みたいな豚人間になるのは、嫌な人やねん」

弘を確実に成敗していく。ずばっと切られた。

 そんな由美はただ今、くぱくぱと静かな良い音を出す鍋へ、大量の白菜をどばっと入れて、箸でぐちゃぐちゃこねくり回しても、無神経でいる。

しかも、

 「そんなこと、もうええねん」

と認めない。

 そうかい。

 弘が黙々と肉汁を吸っていると、由美は勝手にふてくされて、箸を捨てる。

 「あたしもう、お野菜しか食べへん、今日は。弘君全部(肉)食べていーよ」

 「え、いいん?ほんだら」

 遠慮なしで、もりもり食べたら、弘の腹は気持ちよく膨れていった。

 弘は、膨らんだものはいつか萎むものだと考えているのだが、出っ張った腹は、幾日立てども引っ込んでくれない。これも運命、と諦め、忘れる頃合いになると、すかさず由美が見つけて掘り起こし、 

 「弘君また太ったんとちゃう?お腹、風船みたいよ、けったいやね、そこだけ太るなんて、もうすっかり中年やね。だらしない証拠やわ」

と酷いいわれよう。

 妻は夫の変化には敏感なのである。

 由美もまたその例外に漏れない。

 袋の真ん中に焼印された、プラチナ色のマークの意味を、弘は知らない、このごろの紙袋はハイカラやねんなあ、としげしげ眺めていると、

 「それ、初めて日本に進出するもんなんよ。弘君みたいな人は知らへん」

 浩君みたいな人とはどういう意味が含まれているのであろうか。

 「新製品よ、それ、おいしいの。イタリアの有名メーカーお抱えのパティシエのレシピを参考にして作られたジェラート」

菓子事情にくわしくない弘には、解読は難解であるが、ごちゃごちゃ入り混じってなんだかすごそうであるのは、由美の朗読から、垣間みえることはできた。

由美の仕事は、世界中に店舗を持つ、有名洋菓子店のマネージメント、関西支部長直系の部下をしている、という。

総合職の椅子に座り、毎日がてんてこ舞いとのこと、弘はくわしく知らないし、由美が関わっていることに興味など持てないが、たまにこうして、

「海外の新しい製品を、日本に進出してええもんかどうかを話し合うとき、サンプルもらえるねん、それも、その一つ」

会社から授かるらしく、

 「溶けるやろ、はよ行ってきて。ドライアイスいっぱい入れてても、こう暑いと、すぐ溶けるねんから」

と弘の背中をぐいぐい押す。弘の手の平に乗せられた紺の紙袋の底はひやりと冷たい。

「でも由美ちゃんは肉食べてへんのに、ええのんか?こんなんして」

「ええんよ」

 由美は得意げにいう。確認されると優越感が沸くらしい。

 「もらったもんにお礼をしにいくのは、普通のことやし」

 あれだけくそかすにいっておいても見得を張るのは忘れていない。

由美の主義を真似ているわけではないが、弘だったらそんなことできない、由美だからこそできるのであろう、見事なもんである。

「はあ」

 「そのジェラートやったら、あの肉に勝るとも劣らん思うし」

 味覚の貧しい由美に、味の太鼓判を押されても、不審がつもるだけである。

「はあ」

 「はよ、行きって。もう、ちんたらしてなや」

 「いきなりいって迷惑ちゃうか?いてはるか?」

難渋を示すと、由美に肩をばこんと叩かれた。痛い。

 「相手は引きこもりやねんから、ずっと部屋でおるに決まってるやろ、あほやね」

 ついに弘は部屋を追い出されてしまった。

 仕方がないので、理子の部屋のインターホンを鳴らし、しばらく待ったが、人の出てくる気配はしない。

 「あの、すいません、井乃さん?いてはりますか?斉藤ですけどお」

 ひょっとして理子は、弘の訪れを母親だと勘違いしているのかもしれない、そうなればますます出てこないような気がする、声を出して、部屋の奥まで届くように、ドアを強くノックする。

 「井乃さーん、斉藤です。いたはりませんかあ?」

 理子はいた。

 「はい」

きいっと、ドアは縦に細く開き、隙間から理子が顔をのぞかせ、外でぼさっと立つ弘の動向を伺っているが、その目に猜疑心は浮かんでいない、ぽうっと無防備そうで野心なく、

 「こんばんは」

へこんと頭を折ってくる。

 「あ、こちらこそ、こんばんは。すんません、夕飯時分にいきなり来てもうて」

 午後八時を過ぎれば、夏の空は薄墨が塗られて、辺りは単調な色づきになっている。

 夜の突然の訪問を詫びながら、弘は腰をちょっと曲げて、理子に紙袋を手渡す。

 「これ、肉の礼です」

 漆黒寄りの紺色の、壊れやすそうな紙袋は、白い理子の手元に入るととてもよく映えた。

 「アイスみたいなんですが……、井乃さん、甘いもんは――」

 「ああ、好きですね。すいません」

 理子の返事は無駄がない。声こそ細いが、的確で隙間がない。

そして理子はチェーンのかかっていないドアを大きく開けて、弘を警戒することなく背中をみせて、奥へ伸びる廊下へやすやすと引っ込んでいき、途中、振り返り、

 「ま、どうぞ」

と手招きし、内に弘を招き入れようとする。

 外の廊下で、弘はぐずついていたが、理子は玄関を開放したまま戻って来ないので、こわごわ中を覗き込みつつ、ドアを閉め、靴の端に指を入れて、脱ぎ、部屋へと上がる。

 「あのー……」

 弘は理子の痕跡を辿るように、ほの暗い廊下を真っ直ぐ進んでいくと、居間に足を踏み入れる。

 間取りは弘の部屋と同じだが、模様は随分違う。

 居間に家具は置かれていなく、がらんと殺風景で、カーテンの間から見え隠れする、窓の外に拡がる景色だけが唯一の色という、非常に質素なものだが、ふと、目を引くものがある。 

四方を包む壁の西側に、テレビが五台、上下にずらりと並べられてある一角を発見する。

五台の薄型テレビは細長い机の上に、全て壁に貼り付けられているように置かれていて、入り口から見ていると、まるで葉書が留められているようにも、映る。

そこに入るとむわりと暑い。五台のテレビが爛々と、部屋中を照っているせいであろうか、それとも窓が閉じられているせいか、とにかくここは蒸し暑い、夏とはいえ、夜になればまだ涼しい時分であるというのに。

弘は居間の縁に立ったまま、熱の元凶であると思われる、白々と明るいテレビをすがめていると、黒の画面の中に沈んでいる数字の羅列が、黄色ったり赤かったりして眩しく、目がちかちかと沁みる気がしてくる。

「見るのは初めてなんですか?市場風景」

横で理子の声がする。盆に乗せたペットボトルの茶を弘に勧める。

浩は聞く。

「株やってはるんですよね?」

水滴のついた冷たいペットボトルを受け取り、先にもらいますと理子に断ってから、キャップを開ける。

「はい。あ、すいません。さっきまで冷房入れっぱなしにしてたから、窓閉めてて。暑いですね」

理子がリモコンに手をかけると、弘は慌てて制止する。

「窓を開けたらええですよ、そのほうが、早う涼しなりますで。せっかくええ風、吹いてるし」

「そですか。なら」

素直にいうことを聞き入れ、理子は窓を開けてくれた。

弘はもらった茶で喉を冷やしていくと、弱い風が頬を切って、体の熱を冷ましてくれてる。

マンションの付近を巻きつく道路は、細く狭いので、車の通りも著しく少ない。静かである。

「一日中、取引やってはるんですか?その……」

「株ですか?いや、それは」

乱れたベージュのカーテンを整えながら、理子は窓の脇に座り壁にもたれ、部屋の隅にいる弘と向かい合う。

「さすがに二十四時間は見張れません。日本の市場だけです、やってるのは。まあ、外も監視はしてますけど」

「外?外国の株?持ってはるんですか?」

「いや、持ってないけど、ホラ、売り買いしてるのは日本の株だけやけど、市場は連動してるから、一箇所だけ注目してても駄目で。他もできるだけ見張っておかないと」

ホラといわれても返事のしようがない。弘は目をしばたたいているときも、理子はちょっと声に力を集めて、いっている。

「日本の株だけ監視してても、駄目なんで。日本と同じ時間帯に開いてる市場は注意を置いてます。視野は広いほうが有利になるでしょ?情報は集めれるだけ集めとかんと、危なっかしい取引はなるべく避けたいですし。まあ、ソノ分、疲労は濃いんやけど」

理子は手の平の中でペットボトルをもてあそびながら、弘を見据える。

「興味ありはるのん?株に」

「いや、ぼくにはそんなん」

ぶんぶか首を振る。

「家での仕事持つ、いうのは、精神的に辛いと思うていなんですわ。ようするに怠けもんなんですわ。それに、なんか、お金とずっと関わってるいうのは、きつそうで、怖いです」

膝を崩して、理子はくつくつ笑う。笑い声を喉の中で転がしているだけなので、顔に崩れはない。卵のようである。

「正解だと思います。それが」

「セーカイ。そら、うれしい」

弘は笑うと、理子はこうもいってくれる。

「斉藤さんは分かったはります。本筋を突いてますよ」

「いやいや、そんな」

褒められた。胸の前で手を振り、照れる。顔の火照りを理子に悟られるたくないので、茶を飲み、体を冷やし、ふいと視線をそらして、五台のテレビがずらりと居並ぶ壁を指す。

「井乃さんは、なんだか派手な舞台におるみたいで。賑やかそうですな。毎日、やりがいあって楽しいんとちゃいます?」

理子は下を向き、薄いまぶたを閉じて、

「損するか儲かるか。選択が二つしか選べない世界は楽しくありません」

目を開けて、弘の目を追う。

 理子の両目にたやすくすくわれて、弘はどぎまぎする。

 「株いうのんは、ソノ、面白いもんじゃないんですか?」

 「はい、自分のお金が減っていくのを見るというのは、つらいでしょう」

 「増えないんですか?減るばっかり?」

 首をかしげて理子はいう。

 「減るばかりとは一概にいえないけど。でも増えたところで損失を出せば、その分を取り返しに行くだけになるし」

 覇気はない。弘は心配して、こわごわ聞く。

 「じゃあ今日は――」

 損しはったんかという前に、

 「儲かりました。だからちょっとほっとしてるんです。ちょっと、今は休憩中」

理子が先を掠め取る。

 磨かれた床の目を指の腹でなぞりながら、理子はいっている。

 「ここ最近ずっと安定してないから、市場。画面から片時も目を離せなくって、つかれちゃって。その上損なんかしたら、もう大変、つらくって寝れません」

 「でも今日は儲かったんやから、そんなんいわんと」

 弘も床に腰を下ろすことにする。理子との距離は変わらないが、視線はうまく絡み合う。

 「その、甘いもんでも食べて、疲れ癒してください」

 「あのアイスクリーム?冷蔵庫に入れといたんやけど」

 理子は渡した紙袋の中身を弘に尋ねる。

 「なんや、ジェラートいうもんらしいんですが……お口に合うといいんやけど」

 弘は頭をぼりぼりかきながら、笑う。

「ジェラート?イタリア」

 盛り上ってきたようである。つぶやく理子に身を乗り出す。

 「そうそうそう。イタリアのお菓子らしんですわ」

 しかし弘の顔つきがぱっと明るく崩れるのに対し、理子の顔色はたちまち深みにずぶずぶ沈み込んでいき、

 「……イタリア」

と一人ごち、いきなり落ち込む。

 「あの?どないしたん?」

 腰を折り、伺うと、理子はさらさらした髪を指で分け、きれいな額を手で押さえ、苦々しそうに笑う。

 「いえ、IT関連でだいぶ損させられた経験があって。それを思い出しちゃって。すいません。私、何でも株に関連して考える癖、ついちゃってて」

「損?どれぐらい?」

 理子は即答する。

 「六億円くらい。もう、ほんと参っちゃって、あんとき。株辞めようかと迷った」

 弘はうなだれた。

 理子の瞳はぼうっとして、目の中の水は潮がさあっと引くように、湿り気がなくなっていく。

 「それでも株から離れられなくって。笑えるわ、ほんまに」

 理子はじいっと、弘の胸の内に潜む心臓をわしづかみするように見ている。だがしかし、理子は弘の体を通して、壁にいる何かをぼうと睨んでいるらしく、その眼に宿っている灯の力はちょっと、怖い、すくむ。

 「景気がよくって、上がり調子のまんまの精神で、操作してたんです。そろそろ警戒しとかなあかん時期やったのに。あほやわ私」

 「……借金抱えてへんねんからよかったやん。まだ」

 ぎりぎりの慰めであろう。六億エンの損という感覚が分からへん。だから何をいえば理子へ伝わるのかも見つけられへん。

 届いたのか届いていないのか、知る術はなかったが、弘の声は耳に入ったらしく、理子はつと、隠した顔を現し、

 「ソですよね。でも、もともと手持ちの金額以上の取引はしないから、ゼロになるだけで、それはまあ……」

 「負債を抱えることはないと」

 「はい。破産するだけで破滅にはなりませんね」

なんともシビア。

「ちなみに一日でどれぐらい稼ぎはるのん?」

 興味が沸いた。質問すると、理子はちょっと考えて、

 「まあ、日によるねんけど、今日はまあ八百万円ぐらい、かな」

嘘みたい。浩は完全に何もいえなくなってしまった。

 一日で八百万円稼ぐと理子はいう。嘘のような話だが空言とは思えぬ、たわごとと思いたいが、弘は由美の話をタイミングよく思い出してしまう。

 理子はこのマンションを一括購入し、しかも両親に家まで買ったといっていた。

 ふらふらになってきた。

弘が目をごしごしこすっていると、理子も同じ仕草をしていたりするのに気づく。

 「ほんと、目とかすごい真っ赤になるし。胃とかずっとしんどいしで、体のあちこちが崩れていくから、割りに合わないっていうか、なんていうか……」

 「どうやったらそんなんなれるん?」

 聞きたがるのは自然な心理であろう。

 「なろうと思ってなったんやないんです。気づくとこうなってたって感じで」

 しんとしていい、理子の茶をすすっているさまは、生命力が枯渇して、落ち武者のようにくたびれている。

弘は、なんだかなー、という感じで、小首を傾げてしまいつつも、つい横目で理子を追ってしまうのは、とにかく不思議だからであろう、目が離せぬ。

 不思議は理子にふさわしい。

 理子は老成しているのに、子どものようでもある。

 いわば子ども仙人とでもいうべきか。

 以前は、子どもと大人の両方を半分コして持っている、稀有な人だと弘はええふうに、理子のことを捉えていたが、そうではなかった。

 理子は子どもの中へ大人が配合されてできあがっているようである。

浅いようで深く、重いようで軽い。

大人の香りもそこはかとなく漂わしているのは、諦観するのを知り、あきらめることを覚えた空しさが、根本に潜んでいると思われる。

 そんな理子はぼそぼそいっている。

 「人の調子に合わせるの、私苦手じゃないんです。だから市場の流れに自分の力をはめ込めたっていうか、織り込められつつ動けたっていうか、時代の波に乗れたっていうか」

洞察力も鋭そうである。鋭すぎるものはもろいのだ。

 理子は裸足のつま先を浩に向けて、足をゆったりと伸ばし、くつろいでいるようす。

 弘は何もいえなくなる。黙らされているのではなく、自ら口を慎んでいるのである。何をいっても理子には届かない、そんな気がする。

 しばらくの間、沈黙の膜が垂れ下がり、弘と理子をへだてていたが、

 「そや、せっかくのいただきもの、一緒に食べませんか?」

と理子はいって立ち上がる。

 返事する間もなく、理子は台所へ霧が溶けるように消えていく。

 「すんません」

 弘は銀の小ぶりなスプーンを受け取り、礼をいう。

 「いただきます」

 「粘り気のあるアイスですね」

 理子は黄色の表面を薄くすくう。

 「レモン。斉藤さんのんはなんですか?」

 「バニラです。さっぱりしてます。牛乳の味、ようしてる」

 「もらっても?」

 ええですか、と理子が銀のスプーンの先を弘のカップへ向けたとき、

 「何や、なにしてん?」

突然、男の声が突っ込んできた。

 「ミイ、そのおっちゃん、誰や?」

 近づくたびに膨らんでくる男の声は底力があり、よく響く質のいいものだが、怒りが込められている。

 出現した男は若かった。いかにも三十台真っ盛りというふうに、勇ましく、ずかずか居間に乗り込んできて、窓際にぺたんと座る理子の隣で止まり、荒々しく弘をすごむ。

 理子は、姿勢も崩さず現れた男を直視して、

 「斉藤さん」

といい、ぽかんとしている弘へ視線を戻す。

「私の兄の宗一郎、宗ちゃんです」

 「あ、どうも」

 床にあぐらをかいた姿勢で、弘は宗一郎にお辞儀する。

 「斉藤です。その、ぼくは――」

 自己紹介をぐずぐず迷っていると、宗一郎は険しい顔つきをぱっと壊し、

 「ああ、あんたがサイトーさんか、なんや、そーか、そーか」

と微笑み、尖らしていた目元をめためた溶かして、理子の頭にぽんと手を乗せる。

 「どうも、サイトーさん、いつもミイのこと、何かと世話になってしまって、申し訳ないです」

 「はあ。……そんな世話いうても、ゴミ運んだぐらいで取り立てて何かしたってわけじゃ――」

 「おふくろ、なんや、斉藤さんとこの奥さんとナカヨクさせてもろてるみたいで。斉藤さんとこの奥さんはいつもキレイにしたはって、すごい、いうて、羨ましがってますわ」

 理子の母親の話の中に、弘の形は縁取られてもいないらしい。

それはいい、それはいいが、どうやら由美は、美人だとはいってもらっていないらしい。とりあえず弘は安心しておく。妻を褒められてもあまりうれしい気分にはなれないので、弘の場合は。

 「こおら、ミイ、あんまりご近所さんに迷惑かけたらあかんで」

 宗一郎は理子の、肩に垂れた髪を耳にかけてやっている。

 理子は無反応である。黙々とスプーンを動かしているだけで、こけしのように無表情。

その隣で、理子の返事がないのに馴れているのか、それでもうれしそうに頬を緩めて、宗一郎は目を細めている。

 静かに笑うところは、理子にどことなく似ている。

 はっとする。ちょっとだけ、弘は理子と宗一郎が兄妹であることを忘れてしまっていた。でもはっと正気に戻っても、宗一郎の動く手は、ますますエスカレートしている感じがする。

 「ミイはあんまりしゃべらへんから、こいつと二人でおるときは、俺は一人、人形に話しかけてるみたいに、思われますんやわ」

 ここでも弘の存在はかっ飛ばされた。どうやらもう、宗一郎の目に弘は映し出されていなく、理子ことミイだけが沈んでいるらしい。

 理子の耳たぶをはさむ宗一郎の指先は愛しさが込められている。

 「アイスか、それ」

 弘に横顔を向けて、宗一郎はいっている。

 「くれ」

 理子のスプーンを奪い取り、食べる。

 「ミイは極端なもんが好きなんですわ。めちゃめちゃ辛いもんか甘いもん。ほんまに、わけわからんやっちゃ」

 わけわからんのはお前のほうや。

 だがそんなこと気の弱い弘はいえぬ、またいえる立場でもない、ぽかんと見てるしかないのである。

 その視線の先にふくませた意味が通じたのか、宗一郎はスプーンを理子に握らせなおし、真正面から弘を見返す。

 ――はよ、帰れ、おっさん。

 宗一郎はそういっている。

 声には出していないが、宗一郎の目からは確実にその警告が、弘にびしびし伝わってくる。

古式ゆかしき顔立ちが、弘のちんまりの眼になだれ込んでくる。

 宗一郎の容貌は、理子に負けず劣らず、麗しい。だから凄むと迫力が沸く。

きゅっと細長く上がった切れ長の目と整った輪郭は、粉でも刷いたら女といっても通用しそうな、繊細なもので、真っ直ぐに線が引かれた鼻梁にくわえ、弓を引いたような眉は最高級品、背も高い。

弘もでかいが、ただずどんと伸びているだけで、なんの役にも立たぬ大木であるのに対し、宗一郎のは違う、歩く姿はスラッとしていて美しかった。

 膂力もありそうである。

 簡素な黒のポロシャツの袖から伸びた腕には無駄がなく、細い体つきのわりに、太い手首をしている。これまた、弘のぼてっとしたものとは違うもの、色々と世間の役に立ちそうである。

 宗一郎は腰を浮かせてしゃがみこみ、理子の傍から絶対に離れようとしない。

 「ん?アイスはサイトーさんからもろたって?そりゃ、どうも」

 「はあ」

 「うまいです」

 「はあ」

 いつかしら二人は意思疎通していたりする。

理子と宗一郎の言葉のやりとりは、弘の耳には届いていない。弘の見る限り、理子はずっと黙っていたはずであるが……

 「ミイ、晩ごはん持ってきたから、食え。また痩せたんとちゃうか。食わんとあかんで、ちゃんと、え?食うてるって、そーか」

といいながら、肩を抱いていた手を離し、提げた革の鞄の中からイカリスーパーの紙袋を取り出して、

 「色々、買ってきたから、ミイの好物。ニラ玉とか。あ、こいつね、中華、好きなんですわ」

 宗一郎がわざわざ、弘の知らない理子についての情報を、丁寧に教えてくれるのは、きっと、多分、

 ――おっさんは知らんやろけどな、こんなこと。俺のほうが、たーんと、詳しい。

と見せつけているのではないかと思われる。

頭が痛くなってきた。冷たいもんを一気食いしたからであろうか。

 「あ、夕飯まだでしたんか、そりゃ、すんません」

 空になったカップを片手に、弘が膝を上げると、

 「すいません。サイトーさん。お茶も出さんで」

宗一郎は微笑みを止めて、牙を研ぐ素振りをみせるもんだから、

「はあ」

としか、やっぱり返せない。

「これ……」

弘はしかし立ち上がりざまに、ペットボトルを理子へ見せて、礼をいおうとすると、

「俺が送ったやつやな。残りはあげますわ」

と宗一郎に遮られてしまい、きちんとした礼をいうことができなくなってしまった。

 「もしミイに何かあったら、迷惑かけるかもしれませんが、助けてやってほしいです。一人じゃ何もできへんやつやから」

 上下に動く鳥のような口ばしからは、理子を無力と決め込んでいるという匂いが、ぷんぷんしてくる。

その意見は弘も同感であるが、ちょっとだけ、弘の理子に対する感覚とは、ずれているような気がする。

 「すいませんね、色々と」

 それは弘に遠慮しているようで違う。

 「これからも、よろしく頼みます。サイトーさん」

 宗一郎のいう「サイトーさん」は敵意しか感じ取れない。


 「血はつながってない兄妹やねんてよ。子連れ婚らしいわ、お互い」

 理子の母親はもう、由美を知己としているらしく、身の回りのよしなしごとを、朝、由美と会うとき色々と漏らしているらしい。秘密よ、と口どめはされているようだが、由美の、得た井乃家の情報を即座に弘にばらすのは、話題が盛り上るためとか膨らませようという野望はなく、単にいいたいだけなので、身近なもんが選ばれる。

 「夫婦仲はうまくいってんねんて。はぐれてるんは、あのヒトだけみたい。問題ね。どこの家庭でも、たんこぶってあるんやよね」

黙っているということができない由美は、うきうきしていう。

そんなわけで弘は、理子の鮮度の高い情報を結構入手できるようになっている。

ぴちっと生きがいいのを例に出すと、

 「あのヒトがお父さんのコ、やねんて」

ということと、生さぬ仲もええということ。

 体格チェックは欠かさず毎日やる。由美は鏡でお腹周りの肉をつまみながら、ボディクリームをすり込み、一糸も纏わずすっぽんぽんのままで、ポーズを決めた。

 「息子さんが十四歳のとき、再婚しはってんけど、六歳下の妹をものごっつう可愛がるお兄さんになってくれてね、いうて、お母さん、めっちゃ喜んでいいはるねんよ。ええ按配に、進んでた家庭やったみたい」

湯気を漂わせている由美の身体は石鹸の、いい匂いがする。クーラーの風にそよがれる香草の薫りは、苦くて甘い。ちなみに弘は由美の石鹸を使わせてもらえない、高いから触るなといわれているので。

 「相変わらず今朝も、あっこのお母さん、来てはった、他人の子どものことやのに、よう想てはるって、ほんまに感心するわ」

 ダンベル体操を辞めてからというもの、由美の入浴時間は早まり、長くなった。二時間は風呂場で籠城している。

身体を包む皮膚から、湯気がもうもうと立ち上っている。

 「ああ、やっぱり疲れた身体を癒してくれるんは、お風呂やなあ。ゆっくりタブに浸かって英気を養って、明日の戦争に備えるあたしは、ほんま、戦乙女みたいやわ」

 ぶんぶん肩を動かすと、二の腕の肉は下がり、スライムのようにふるふる揺るえている。

 ダンベル体操の日課を放棄してからというもの、由美はなんだか肥えてきたかに思うのは、弘の気のせいだろうか。 

 「弘君、手洗いしといてくれたやろね」

 このごろの弘はついに、由美の下着まで手洗いさせられている。女の汚れものを平気で男の手に触らせるという、由美の図太さには、お手上げ状態である。

 ここまで従う弘も変だが、悪いのはやっぱり由美であろうと思うのは、考えが甘いか。

 弘の返事は待たずに由美は、なめらかなタオル素材でつくられたオレンジのバスローブを身につけて、干してあったお気に入りの下着を取りに、ベランダへ出る。

 「ちょっと、弘君、来てみ」

 手だけを出して、弘を呼ぶ。

「なに、由美ちゃん」

 ぎらっとした爪が並ぶ由美の指先に、なにがあるかはしらないが、どうせ大したもんでもなさそうなので、弘の腰は重たい。

 「早う、て」

 きつく咎められる。

 「ええ男おるで」

 興味はない。

 「誰やろ。あんな男前、レアものやな、目の保養や」

 ええ男は宗一郎であった。

 ベランダの手すりに腕を乗せて、煙草をふかして外を眺めていたが、弘たちに気づく。

 「サイトーさんとこか。ドーモ、こんばんは」

 ベランダを一つ挟んでいても、宗一郎の声はよく通る。

 えっと由美は叫び、

 「弘君の知り合いなん?」

しきりをまたぐ弘を振り返る。

洗濯物を干す習慣が由美にはないので、井乃家のベランダだということを、気づいていないらしい。

 「井乃ですよ。先日会いましたですわ。おたくの旦那さんとは」

答えを教える前にいわれてしまう。

 「アイスクリーム、美味かったですわ、おおきに」

 唇に挟んでいた煙草を引き抜き、煙を吐く。

 「そちら、サイトーさんの、奥さんですか?こんばんは。いつもおふくろの話し相手になってもろうて、感謝してます」

 さわやかに笑うと、由美は全身から熱い蒸気を放出させて、うっとりした声で、

 「いえ、そんなん、ふフッ、いいんですよう。おいしく食べてもろたらアイスも幸せやろし」

はしゃぎ、宗一郎が吹き出す。

 「アイス幸せ?ははっ、奥さん、おもろい人やなあ。そんなんいえる人、あんまりおらへんで」

また笑うと、由美はくらっときたらしく、濡れた髪を弄りはじめて、

 「ま、そかしら。いやん、恥ずかしいわン。こんな格好でオトコノヒトの前に出てしもて」

化粧の剥がれた頬を指でつつき、照れる。

 「僕は理子の兄貴にあたるもんですわ。ま、どうぞよろしく、奥さん」

 由美は何も答えない、手をひらひらさせているだけである。

 そして片っ方の手で、後ろで牛のようにモウっとしている弘をがっとつかみ、声を低めて、

 「弘君」

 「由美ちゃん、痛い」

 「そんなんええねん」

 ちっともよくない。由美は服だけでなく腹の肉も一緒につねっているのだ。

 「あたし、ちょっと口紅つけてくるから、弘君、時間稼ぎしといて」

 「口紅?」

 「あんな男前と話しするのに、こんな格好してたら、みっともない思いはるやろ」

 「そーかなー」

 自意識過剰ぶりはなはだしい。

 あきれて、星がまたたく夜空を見上げようとすると、由美は弘の足を踏んで恫喝する。

 「とにかくッ、あたしが戻ってくるまでは、しゃべり続けてるねんで」

 「でもぼく、仲良くないで」

 事実である。

 「好都合や、仲良くなったらええ。あんな男前の友達、弘君なんかにおらへんやん。丁度いい、視野広める絶好のチャンスや、あんなハンサムの傍におったら、爪の垢でも飲ませてもらえて弘君でもレベルアップでけるかもしれへん、がんばりやッ。あたしの戻るまで」

といって、由美は部屋に引っ込んでしまう。

 宗一郎は煙草を指ではさんで、カーテンで閉ざされた窓ガラスの奥に続く部屋を透かし見ている。その先には理子がいるのであろうか。

 「ミイは煙草、嫌がるからな。苦い臭い、嫌やいうて、煙たがる。子どもみたいなやつやねん」

年配者の弘を敬おうという気持ちはさらさらないらしく、敬語はかき消えていた。

 煙を思いっきり吸い込み、

 「あんたもやりはるやろ?臭いしてたで」

吐く。

 「いや、最近止めてますんやわ」

 「なんでや?」

由美の命令とはいいたくない。

 「長生きしたいからでんねん」

 こじつけである。

宗一郎は整った顔を甘く崩し、声を外へ漏らさぬよう配慮しているのか、腹を押さえて忍び笑う。

 「ははあ、糸かけられているねんな、奥さんに」

 「糸?」

 「そうや」

口元を緩めたまま、宗一郎は弘に近寄ってくる。

こっちに来れるわけはないのに、弘は後ずさりする。足は動いていないが、腰が逃げてる。

宗一郎はぎりぎりのところまで寄ってきて、にんまり笑い、手すりから身を乗り出して、吸殻を足でもみ消し、もう一本、煙草を取り出し、悠々と火をつける。

「操られてるいうことや、上から紐垂らされてな、身体はがんじがらめいうことや」

真新しい白い煙を闇路の中へゆっくり流しながら、

「かかあ天下いうこっちゃ。気の毒に」

笑みを消す。

 暗さのおかげで、宗一郎の目の輝きはだいぶ薄めてられているが、強く発色しているのは間違いなさそう。弘はさらにすくむ。なさけなや。

 しかし。

 「そっちも結婚されるそうですな、おめでとうさん」

と話題を切り返す。こいつに連勝させるわけにはいかぬ、弘はちと、燃えるが、肝心の宗一郎はイマイチ乗ってこず、

 「ああ」

と素っ気無い返事だけ、そんなんもあったなあ、という具合でなんともつれない態度で、しかもすげないだけでなく、結婚するというのになんの感慨もなさそうに、

 「今度連れてくるさかい、ま、ヨロシク」

といい、引っ込む。

 そこへ由美が飛んできた。

 口紅だけだといっていたくせに、髪までセットしているのには、正直、びびる。

 「あれ、男前どこ?」

 胸元もちょっとはだけていたりする。

 「戻ったで」

 「ハ?」

 声を太らせ浩を睨み、ズボンからはみ出た腹の肉をぎゅうっとひねり、

 「役に立たへんねんから」

といい捨てて、つねられた痛さに呻いたそのとき、弘の頭のはしで、きらっとした直感が光ると、隠れていたものがじわじわと浮き上がり、まるで海に沈んでいた島国が姿を現すがごとく、縁取られ、形が見え出してくる。

 弘は由美のきびすを返すのを見て、確信する。

宗一郎は由美と同類なのだ。

今わかった。

宗一郎の声は、ソロバンのぱちぱちはじく音と同じで、歯切れよく容赦ない、由美と一緒で、手加減を知らんやつなのだ。途中のミスは絶対で、許しのないやつなのだ。

弘などもソロバンをたしなんでいた頃があったが、玉をはじいて答えを出すよりも、指で数えていたほうが速いと思い知り、子どもの時代が過ぎるころには、電卓が味方をしてくれたもの、流れに身を乗せて世を渡ってきたやつと、機械よりも無駄のない精密なやつとでは、生きかたの気合いの入れようが、根っから違い、気の合うはずがない。

あら、堪忍するしかない。

お手上げである。

理子があんな調子になってしまうのも、理解できる。

直視して、いちいち反応していたら、身がもたんようになる。そこんところだけは弘と一緒。

見ていないふりを装っておいたほうが身のためなんである。

理子はえらい大変な事情に巻き込まれているのであろうと弘は察する。

そんな理子の白い足の指が、部屋に戻って来た宗一郎に近づいていく。

 「宗ちゃん。今日は泊まるのん?泊まるんやったら――」

 「あいつおったで」

 長い四肢を伸ばして、床にどさっと寝転がり、宗一郎はぶすっとしている。

 「あいつって誰?」

 理子は意味をつかめない。聞くともなく聞くと、

 「サイトー」

 「ああ」

思い出す。

 「なんであんなおっさん部屋に入れたんや。ミイ」

 ぎろっと見上げ、

 「俺、結婚するねんで」

理子の応えを待たずに、

 「ミイ、なんか、いえや」

 「いったところで、聞く耳もたんやろ。宗ちゃんは」

 スカートの裾をひるがえし、離れようとすると、

 「あのときが忘れられへんねん」

宗一郎は理子の足首をつかむ。

 「義父さんは気づいとったやろ、俺らのこと。それに、おふくろが知ったところで、別に何の問題もないやろ。どうせ何もいいよらへんわ」

 宗一郎の手は、理子の膝の丸みにひたりと添えられている。

 「なんであかんねん?ほんま、腹立つ」

 むくりと起き上がり、理子の足にしがみつき、太ももをいじり始める。

 理子は黙って、宗一郎を見下ろしている。

 「戻って来てくれ、ミイ。株なんか辞めろ」

 宗一郎は理子の手を握ろうとするが、包む寸前で引っこ抜かれてしまい、笑う。

 「儲けとったな、今日も」

 「履歴見たん?」

 「見た、ごっつい金額に到達しとったな。ほんまに、嘘見てるみたいや」

 「…………」

 「ずっとモニター付けっぱなしにしとるそっちが悪いで。見られとうないんやったら、消しとけ」

 逃げる理子の指を捕まえた。

 「そない、がむしゃらに金集めてどないするねん、金なんてミイには用のないもんやろ。義父さんの会社も堅実に残ってるんやし、はよ、こんな生活やめてしまえ。全部、捨ててしまえ、株で増やした金なんか、どうせ全部無くなるもんやろ、違うか?」

 「お金のためにやってるんとちゃう」

 宗一郎を剥がそうとするが、離れてくれない。強い力が理子を縛る。

 「なら、なんや?」

 頭を、足にこすり付ける。

 「なんや、いうてみい。聞いたるさかいに」

 「いうても分からん。誰にも分からん」

 「なんじゃそりゃ」

 太ももが、焼けるように熱いのは、宗一郎が息を吹きつけている仕業である。

 宗一郎は笑っている。理子を困らせて笑っている。

 「ミイは一人っきりやないか。一人で抱え込むんは、あかんやろ。つらいで」

 「自分だけしかわからんことを、独りだけで抱えてるのって、そんなにあかん?」

 理子は立ち尽くしている。腰に巻きつく宗一郎の腕が痛い。

 「あほ」

 「アホ?なにがあほ」

 「そんなん俺に向かっていうことがや」

 「宗ちゃん」

 たしなめると、宗一郎は駄々をこねる。

 「俺の知らへん世界に独りで行かんといて、頼むから」



ごきげんよう。

読んでくださり、感謝いたします。

この作品は、数年前のジェイコム誤発注問題に影響を受け、小説にしたものです。

家に引きこもりながら、百億円以上のお金を動かしているという青年に感銘をうけ、その思いを形にしたものです。

たとえたくさんお金があっても、人生ってやつは、なかなかうまくはいかないみたいです。

そんな風に考えられる人間になりたくて、書いたものなのかもしれません。

果たして今後彼らの行方はどうなるのでしょうか?

続き後編を是非お楽しみください。

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