第2話 棺桶の中の戦争
――その路地は宵闇に閉ざされていた。
かつては表の街灯から来る明かりで、この路地も多少なりとも照らされていたのだ。しかし占領下の首都において夜間外出は厳しく制限され、電力問題もあって街灯は『帝国軍』に必要なぶんを除いて、全て明かりを消されてしまっていた。
そんな路地を、不意の光が切り裂いた。
眩くようなその輝きは、軍用トラックの有する強力なヘッドライトのものである。
路地に入り込んできたのは、帝国軍の輸送トラック一台に、黒塗りの自動車が二台である。自動車の方はいずれも『カブトムシ』と通称され、帝国では官民両方で広く使われている乗用車であった。
停車したからも点けっぱなしのヘッドライトに照らされ、路地は俄に明るくなった。そして車三台からは次々と、その明るくなった路地へと人が吐き出されていく。
『カブトムシ』から出てきたのは帝国軍の将校達であり、その乗車と同じ黒い制服は秘密警察の一員であることを意味している。転じてトラックから出てきたのは大勢の歩兵達と、歩兵たちの手にした小銃と銃剣に追い立てられる服装も年齢も雑多な人々――捕らえられた『レジスタンス』達であった。歩兵に食ってかからんとして、銃床で殴り倒される者なども出しながら、のろのろとヘッドライトの光の輪の中へと並ばさせられる。
これより始まるのは『処刑』である。レジスタンスたちは壁にそって立たされ、銃殺されるのだ。
レジスタンスは逮捕されても裁判にすらかけられることなく、その生死の決定は全て現場の判断のみで行って良いとされていた。
彼らを捕えた秘密警察の大尉は、レジスタンスはゴキブリ同然の害虫であり、とにかく見つけ次第殺すべきだと考えていた。故に即決で処刑との断を下したのだ。
「壁の方を向いて、手をついて並べ」
この大尉の命令に、捕まった時点ですでに観念していたのか、レジスタンスたちは殺気の篭った目でひと睨みこそそれど、のろのろとしながらも指示通りに壁のほうを向き、両手をついた。
歩兵たちもまたそれに合わせて一列横隊を作り、捧げ銃の形をとる。
「構え!」
大尉の声に従い、銃口の群れが一斉にレジスタンスたちへと向いた。
「狙え!」
銃口がそれぞれ、標的の胸の辺りへと擬される。レジスタンスたちは、ある者は両目を瞑り、ある者はブツブツと祈りの言葉を唱える。
大尉がその右手を掲げた。その白手袋に包まれた掌が振り下ろされた時、それがレジスタンスの最後の時なのだ。
「撃てッ!」
――という言葉は大尉の口からは出てこなかった。
その言葉よりも先に響いたのは一発の『銃声』である。
「!」
歩兵たちに先走って撃った馬鹿がいたのか?否である。自分たちの誰ひとりとして引き金を弾いていない事に彼らが気づいた時には、もう遅かった。
こめかみを一発で撃ちぬかれた大尉が斃れるよりも速く、立て続く銃声が闇を貫き、銃弾は音の壁を引き裂きながら横殴りに打ち付ける。
宵闇に瞬くのはマズルフラッシュの連なり。重なって殆どひとつなぎになった銃声をバックに、歩兵たちは血の華を咲かせ、死の舞踏を踊る。
「敵襲――!」
秘密警察の士官の一人が、ようやくそう叫んで斃れる。
なんとか拳銃を抜いて、それを銃火燦めく闇へと向けた士官も後を追う。
「散開!散れー!」
少尉の階級章の士官が、叫びつつ伏せる。歩兵たちもそれに従い、ある者は伏せ、ある者はトラックや『カブトムシ』の陰に身を隠す。レジスタンスたちはこれを幸いと逃げ出すが、誰にもそれを追う余裕は無かった。
少尉は9ミリ拳銃を、襲撃者のマズルフラッシュを目印に抜き打ちにする。しかし奇襲に浮足立ったその銃口はぶれ、標的を大きく外す。
歩兵たちも少尉に続いて小銃を撃つが、やはり何もない空を貫くのみだった。
次の瞬間には、少尉の方が撃たれていた。
脳天を貫いた30口径高速弾の衝撃に首はのけぞり、制帽が夜天に舞う。
その時、帝国歩兵達は襲撃者の姿を、銃火の輝きに一瞬だけ闇に浮き出た姿を目撃した。
――それは黒いシルエットの男であった。
黒いソフト帽に黒い髪に黒い瞳。黒いピーコートに黒いズボン。手にした大型拳銃まで黒光りしている。
襲撃者の正体を垣間見た兵士たちは、一瞬とは言え確かに目撃したその姿に思い出す。
帝国兵の間で囁かれているある噂。レジスタンス共に関する、ある噂。
帝国兵を殺すなど極々当たり前の行為の筈のレジスタンスの中において、ただ一人『殺し屋』と評される男。驚くべき早撃ちの業前と、針の穴を通すような正確さを兼ね備えた拳銃使い。
ソイツは常に黒に身を装っていると聞く。
――ソイツが、自分たちの前に姿を現したのだ。
思わぬ大物の出現に、逆に帝国兵の闘志は燃え上がった。
発火炎を目印に、今度はコッチがライフル弾を叩き込んでやる、と息巻いた。
味方が撃ち殺される中、帝国兵は冷静に照準をつけ……見えた!今だ!引き金を!
――だが彼らは失念していた。噂には続きがあったのだ。
その黒い殺し屋は、単独では行動しない。常に二人一組。『相棒』と共に戦うのだ。
帝国兵がトリッガーを弾くよりも一瞬速く、その後頭部へと銃弾が突き刺さった。それも一発ではない。しゅかかかか、と連続した銃声と共に吐き出されるのは一転、大雑把な射撃による銃弾の雨だ。
「後ろだ!」
帝国兵の誰かが叫び、その直後にギャッと断末魔が幾つもあがる。
路地に面した建物の一つ。その二階の窓から乗り出しつつ、眼下へと手にしたマシンカービンを乱射する人影がある。
黒い拳銃使いとは対照的な白い姿の持ち主だった。白い三つ揃え、アッシュブロンドに碧の双眸。立派な髭の下には獣のように吊り上がった口と、剥き出された歯がある。
「ハーハハーッ!」
マシンカービン、あるいは短機関銃と呼ばれるその銃は、鉄パイプのオブジェの様な見るからに粗雑な作りの代物だったが、銃口から吐き出される9ミリ弾の威力には変わりはない。
頭上と前面。双方から挟み撃ちにされた帝国兵が総崩れになるのも宜なる話であった。
しかし黒と白の二人の殺人者に容赦はない。銃弾が尽きるまで、逃げる帝国兵の背中を撃ち続ける。
――そして誰もいなくなる。屍体と薬莢が路地裏には満ちた。
「!」
「!」
帝国兵を殺し尽くしたことを確認したレジスタンスの殺し屋二人の耳に、自動車のエンジン音と石畳を蹴る軍靴の響き、そして帝国語の怒声が飛び込んできた。
銃声を聞きつけ、増援が駆けつけてきたのだ。
潮時であった。
闇よりヘッドライトの光の輪へと歩み出た黒衣の殺し屋は、頭上を見上げ白衣の殺し屋を見た。
――二人の視線が噛み合う。
言葉は必要なかった。目と目を合わせるだけで通じる。二人はそういう間柄であった。
白衣の男は屋内へと姿を消し、黒衣の男は適当なマンホールの蓋を外し、その中へと身を躍らせた。彼らはレジスタンス闘士だ。街の構造も、その地下を駆け巡る下水網も、その全てを知り尽くしている。仲間の危急を救い得たのも、それが為であった。
帝国兵の増援が姿を表した時、路地裏に残っていたのは死人だけであった。
これは戦時中の話。過ぎ去った過去の幻。
今は別れた、二人の戦友の思い出。
黒い殺し屋の名はクロード・ノワール。白い殺し屋の名はアレクサンドル・ブランといった。
◆
――男と少女は、黙ったまま見つめ合っていた。
嫌な緊張感が部屋の中に満ち、気まずい沈黙が流れる。
ここに至ってクロード・ノワールの、その両の瞳には最早酔いや眠気による曇りは全く無かった。
イライザの告げた内容が、彼の心の靄を吹き飛ばしていたのだ。
クロードは言った。
「ありえない」
静かな、しかし確固たる意志を持った声でクロードは繰り返し言った。
「絶対にありえない」
手渡された新聞の記事を掲げ、指さしながらなおも言った。
強い口調だった。
「メルリーノが死んでしまったのは解った。ショックだよ。正直、まだ頭が混乱もしてる」
「だがそんな俺にも断言できる」
「アレクが、よりにもよってアレクがあいつを殺したなんてありえない」
「アレクが、メルリーノを、君のお父さんを殺したんてことはな」
言い切って、目の前の少女をジッと睨みつける。
イライザは自分へと向けられた鋭い眼光を真っ向から受け止めた。そして決してそらさない。
彼女はコートの内側に手を突っ込み、皺だらけの封筒を取り出した。
「読んでください。それで全てが解ります」
クロードは封筒を受け取り、中身を取り出した。一枚の、どこかのホテルの備え付けの便箋だった。何度も読み返されたのだろう、幾つもの皺や指の跡がついている。
便箋には、恐らくは万年筆で、びっしりと紙を埋める程の文章が書かれていた。時間が無かったのだろう、筆跡は乱れていたが、それでもクロードには解った。確かにそれはメルリーノ、ローレンス・アッシュの字だった。
『――イライザへ』
そんな書き出しで始まった手紙に、クロードは没頭した。上から下までつぶさに、舐める様に読んだ。
読み進めるにつれて、彼の顔色が変わっていた。
ただでさえ悪かった顔色は、手紙を読み終わる頃には紙のような蒼白になっていた。
「……ありえない」
掠れた声でいった。だがそこには手紙を読み始める前にあった力強さは何処にも無かった。
――その声色が、全てを語っていた。
手紙には父親から娘へと宛てられた、事実上の『遺書』が記されていた。
それも自殺者が書くモノでは無く、決死の任務に赴く男が書くモノだった。
情報部員という職務の都合のためか、具体的な人名や任務内容に対する言及は徹底して避けた文面。だが読むものが読めば、その内容はたちどころに伝わる造りになっていた。
そしてクロードは、それが解ってしまう側だったのだ。
「私は父から、あくまで身内同士の内緒の話として、戦時中のことを聞かされていました」
クロードが手紙を読み終わり、その内容を理解したのを見計らって、イライザは再度話し始めた。
「勝ち戦に終わった戦争の話だけに、父も珍しく口が軽くなっていたのでしょう」
「その父の話の中に、あなたと『アレク』は度々登場しました。だから解ったのです」
「手紙の中で、父が自らあって真意をたださねばならない男。連合王国にとって今や最も厄介な人間の一人である、その男」
「その男こそが、アレクサンドル・ブランであったと」
イライザの話を、クロードは黙して聞いていた。異論を挟む余地は無かった。
メルリーノ、今や亡き戦友ローレンス・アッシュの遺書に、危険な犯罪者として記されていたのは、間違いなくアレクサンドル・ブランのことであったのだ。
「父の亡骸は、ふた月ほどまえに見つかりました。酷く傷んで、父のモノとはすぐには解らなかった程です」
「そしてこの手紙が届きました。その中身を完全に理解するのに、ひと月。さらにあなたを探しだすのにもうひと月」
「今日、あなたにようやく会えた」
クロードは乾ききった口を開き、絞りだすように言った。
嗄れ、疲れきった声だった。
「……何が望みだ。俺に何を求めて、ここに来た?」
イライザは即座に問に答えた。
「復讐を。いにしえの法に拠って、戦友たる父を裏切った男に血の復讐を」
「……アレクを探すのを手伝えというのか?昔の相棒を殺す手伝いをしろと?」
「父の仇討ちだけではありません。アレクはあなたにとっても憎むべき相手だ」
「メルリーノの仇と言うことか?」
「いいえ。それだけではない――」
この後、彼女の口から出た言葉に、クロードにとって戦友の死以上の衝撃を受ける。
「――アレクサンドル・ブランは、あなたにとっても復讐すべき相手だ」
「あなたの、奥さんと娘さんの死に、あの男は深く関わっている」
◆
――陽は落ちても、クロードは灯りを点けなかった。
真っ暗闇の中、安楽椅子に座り、手摺を、それを砕かんばかりの力で握りしめていた。
夜の闇の中、クロードはジッと黙りながら、ただ一点を見つめていた。
だが彼が見ているのは闇ではなかった。彼の目には、昼間にイライザが自分に恐るべき事実を伝える姿が、そして忌まわしい思い出が、繰り返し繰り返し映しだされていたのだ。
『――アパッシュ旅団』
『ご存知でしょう。二年ほど前から、この国を荒らしまわっているギャング組織』
『幾つもの銀行を、幾つもの列車を、幾つもの現金輸送車を襲撃、強奪し』
『密輸……それも酒や煙草だけじゃない、麻薬の密輸、密売にまで手を出していると言われるヤツら』
『その頭目と目される男、通称ベルジュ大佐』
『そのベルジュ大佐の正体こそ、かつてあなたの相棒だった男、アレクサンドル・ブラン』
『そしてあなたの奥さんと娘さんは――』
クロードは思い返す。
職場の工場に飛び込んできた知らせ、駆けつけた警察署、連れて行かれたモルグ(死体置き場)。
そして見た、愛する二人の亡骸。
我が最愛の妻カトリーヌ。
我が最愛の娘フランソワーズ。
二人は冷たい骸になった。二人は無残な骸になった。
銃弾で貫かれ、引き裂かれ、二人は死んでいた。もう笑うことも、泣くこともない。
『残念ながら……お二人は既に』
『駅前の銀行をアパッシュの連中が……警備員と、そして偶然居合わせた警察官と撃ち合いに』
『お二人は流れ弾に』
呆然とふたつならびの死を見つめるクロードの耳に、傍らの刑事の言葉が断片的に届く。
終戦の日から一週間。結婚したあの日以来、五年。
決して豊かでは無かった。工場労働者の賃金では、裕福とは言えなかった。
それでも家には笑顔があった。それでも家には幸せがあった。
――今は、もう無い。
「……」
クロードは安楽椅子から立ち上がった。
ひと月前にカトリーヌとフランソワーズを失った時、かつての我が家は既に手放し、職も自ら辞した。
生きる気力が湧かなかった。
全ての熱が失せてしまった。二人の死が、あらゆる感情を、怒りや憎しみすら消し去ってしまったのだ。
死ぬ気力すら無く、ただ部屋に佇み、酒に逃げる日々だった。
「……」
だが、今は違う。熱気が沸々と体を満たし始める。
それはドス黒い火炎だった。怒涛の負の熱だった。
「……」
クロードはベッドの前に立った。
思い出すら辛くて、全ての私物を手放しても、コレだけは捨てられなかったモノ。それがベッドの下に眠っている。
ベッドの下から古びたトランクケースを引っ張りだす。
黒塗りの、あちこちが傷んだトランクケース。
――これは棺桶だ。死者が埋葬されている。
「……」
その死者の名は戦争。
今、死んだはずの戦争が蘇る。
クロードはトランクの金具を外した。
◆
翌日の早朝、イライザの泊まっていたホテルに、一人の客が現れた。
「……待っていました」
客は、イライザがその来訪を待ち望んでいた客だった。
黒い帽子、黒いピーコート、黒いズボンの三つ揃え。手には黒く古びたトランクケース。
クロード・ノワールのその格好は、戦争中の彼の格好と殆ど同じだった。
彼は言った。
「望みとあらば連れて行こう……ヤツのもとへ」
「俺にも、ヤツには聞かなきゃいけないことがある」